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其の六
「こっちだ!」
激しい雨の中。
全身がずぶ濡れになる所だが、魃鬼の妖力で雨粒が全く体に触れない。
だが、雨が邪魔になる事には変わりなかった。
闇と雨で閉ざされた視界で、魃鬼が雷に貫かれて倒れ伏している水妖達を縫うように先を開拓していく。
痛いぐらいに手を引っ張られて、地面を覆っている妖怪を踏まないように懸命に後を走った。
「ここから少し離れた所に幽冥界との境界がある。そこまで突っ走るからな」
「了解!」
水妖は峻生が倒してくれただけではない。
一刻も早くここから立ち去らないと。
足元から水妖がいなくなると、今度は細く高く伸びた木々が行く手を細かく遮ってくる。
どうやら、御堂は森の中にあったようだ。
びしゃびしゃと水を蹴りながら、右に左に木を避けて、ひたすらに走り続ける。
洞窟ではすぐに弱音を吐いたが、今度は大丈夫だ。
「おかしい。雨足が弱まらねぇ」
しばらく走っていると、先を走る魃鬼が不安そうに呟いた。
「え? どういう事?」
「オレ達は雨気の強い所から遠ざかってんだ。雨は少しでも弱まっていくはずだ」
「逆に強くなってるね……」
走り続け、幸いな事に水妖が後ろから追ってきている様子もない。
敵からも、雨からも逃げているのだ。
「不自然な雨気を感じる。何かに目を付けられてるかもしれねぇ……。その辺の雑魚じゃなさそうだ」
「水妖より強い妖怪に……?」
「ああ。水虎の味方にどんな奴がいるか、完全に把握してねぇからな」
少しずつだが、確実に雨が強くなっていく。
とうとう魃鬼は足を止めた。
「オレの力が利かなくなってきやがった……っ」
今まで一粒も体に触れなかった雨が、わずかだが服に染みを作り始める。
「くそっ。誰だよっ!」
周囲には雨の気配しかしないが、何者かが自分達の事を見ているのか。
「このまま幽冥界に入っちゃったら、まずいかな」
「向こうの狙いが分かんねぇ。櫛が目的なら、とっとと攻撃してきた方がいいだろ。何考えてんだ」
じわりじわりと雨が服を、体を、侵食していく。
濡れた黒緋色の髪から雨が滴り落ちて、魃鬼は犬のように頭を振った。
「……幽冥界に入る。この中途半端な状況が一番気持ちわりぃ」
幽冥界に入る事が不利になる可能性もある。
だが、監視をされているのなら、このままこの森を逃げ続けていても無意味だ。
「すぐそこが境界だ」
再び手を引かれて踏み出した一歩。
激しい違和感に襲われて明人は足元を見た。
「わっ! な、何これっ!?」
濡れそぼった雑草が生え広がっていた地面が、いつのまにか泥地になっている。
まるで底なし沼のように、足が沈んでいく。
「しまったっ! 河童だ!」
「か、河童!?」
驚きで裏返った明人の声と同時に、魃鬼の足に泥の中から伸びた四本の手が絡みついた。
「魃鬼っ! 足がっ!!」
魃鬼の足が沼に引っ張られる。
明人の足にも泥だらけの手が伸びるが、魃鬼が妖気で弾き飛ばした。
「あき、走れっ!!」
「で、でもっ……!」
「いいからっ! 沼を出ろ! オレも蹴散らしたらすぐ行く!」
怒鳴るような魃鬼の声に追い立てられて、明人は闇の向こうに進路を定めた。
わずかに足が沈んでいるが、まだ大丈夫だ。
明人は夢中で泥を蹴り、走り始めた。
足が滑り、何度もバランスを崩す。
「ばっき……!」
後ろを振り返るが、雨闇一色で魃鬼が追って来ている気配がない。
――ああ、もしかしたら、魃鬼が河童に……っ!
最悪の事態が頭をよぎるが、足を止める訳にはいかない。
どうあっても櫛を奪われてはいけないのだ。
足をもつれさせながら、沼に沈まないようにどうにか走っていると、急に地面が固くなった。
泥沼が元の雑草に覆われた固い地に戻ったのだが、足の感覚までは追いつかず、明人は派手に転んだ。
打ち付けた膝に鈍い痛みを感じ、小さく呻く。
己の運動神経のなさに辟易する。
こんな所で、うずくまっている暇はないのに。
「明人くん、大丈夫?」
知らない声が突然耳に届いて、明人は顔を上げた。
「だ、誰!?」
すぐ目の前から発せられたそれに、立ち上がる事ができないまま、思いきり後ずさった。
魃鬼より若い、少年の声。
誰だ。
何だ。
何故、名を知っている。
明人の心に疑問と、追い詰められてしまった恐怖が広がっていく。
多分、強い雨気で魃鬼の力を圧倒していたのはこの声の主だ。
「ぼくは敵じゃないよ」
明人の恐怖を感じ取ったのか、少年の声が優しく宣言した。
「なんで……」
上手く言葉が出てこない。
何を言っているのだ。
あの河童達と繋がっているのではないのか。
「ば、魃鬼! 魃鬼!!」
明人は、まだ姿を見せない魃鬼を振り返り、何度も名を読んだ。
「心配しなくても、すぐに来るよ」
そう言いながら、声の主が一歩ほど明人の方へと踏み出した。
雨闇の中に、白い肌が浮かび上がる。
可愛らしい声と印象違わぬ、美少年が微笑んでいた。
年は十歳ぐらいか。
愛らしく整った象牙色の卵型の顔に、菫色の丸い瞳が大層似合っている。
月白色の白張を着て、美しい墨色の髪が、しっとりと雨で濡れていた。
「ごめんね。ぼくの雨気が濃いせいで、二人を混乱させちゃった。河童に絡まれたのも、ぼくの責任だ」
意味が分からない。
敵ではないと謝っているが、何も信用できない。
「な、何が目的? 水虎の手下?」
こんなに雨が降っているのに、口の中は乾いて細い声しか出なかった。
「違うって! 河童とぼくは関係ないからね。水虎の手下でもないよ。河童は、魃鬼がぼくの気配に気を取られてるうちに追いつかれちゃったんだ」
「……僕達が河童に襲われてるのを、ずっと見てたの?」
「いや、まさかまさか! ぼくは明人くん達の所に向かってて。ずっと強い雨気の中にいたから、自分の出してる雨気に無頓着になっちゃってたんだよ。二人を見つけたと思ったら、河童に捕まってて……本当だよ!?」
菫色のどんぐり眼が、まっすぐに明人を見てくる。
子供らしい小作りな顔立ちは、本当に天使のようだが。
言ってる事に嘘はないとしても、そもそも何故、自分達に会いに来たのか。
雨気を出せるだなんて、一体どういう事なのか。
それらの質問を投げかけようとすると、背後から荒々しい足音が迫って来た。
「あきっ! 大丈夫か!?」
河童達を倒して沼を抜け出た魃鬼が、明人に駆け寄り膝をつく。
そして目の前にいる少年を見て、これでもかと瞠目した。
「お前……雨降り小僧っ!? 何でこんな所にいんだよ!?」
この少年は雨降り小僧という妖怪なのか。
どうやら魃鬼の知り合いのようだ。
明人は強張っていた体の力を抜いた。
「久しぶり、魃鬼。会いたかったよ」
可愛らしい笑顔を見せる美少年を前に、魃鬼が心底嫌そうな顔でそっぽを向いた。
「オレは会いたくなかった」
ひどく素っ気ない言い方。
あまり仲が良くないのだろうか。
この様子からして、魃鬼が一方的に嫌っているようにも見えるが。
「ここにいる理由は何だよ。まさか、水虎と組んでんじゃねぇだろうな」
再び疑いをかけられ、雨降り小僧は先程と同じく即座に否定した。
「それを説明する前に、明人くんに自己紹介するよ」
雨降り小僧は、明人に誠実な視線を向けてきた。
「ぼくは雨降り小僧の清。魃鬼とは真逆で雨を呼べるんだ。気軽に清って呼んでね。どうぞよろしく」
美少年は花が綻ぶような可憐な微笑みを見せた。
雨降り小僧。
雨を呼ぶ妖怪。
「……だから雨気を出せたんだね。よろしく、清。さっきは疑ってごめんね」
明人が非礼を詫びると、魃鬼が仁王のような顔つきになった。
「こいつの雨気のせいで、河童に追いつかれて、めんどくせぇ事になったのに、あきが謝る必要はねぇだろっ」
紛らわしい真似しやがって、と魃鬼が清を睨む。
「本当に悪かったよ。僕も焦ってて。雨気の事が頭から飛んじゃってたんだ」
「もういい。話を先に進めろよ」
「……うん」
清は魃鬼に追い立てられるように話し始めた。
原因不明の長雨。
この雨気の異常性を、清は偶然にも初期の段階で気付いていたのだという。
自然界の偶然が重なって異常な雨気が発生したのならば、大事になる前に己の妖力で対処しようか。
そんな事を考えながら雨気を調べてみたら、予想を大きく覆す水虎の動きに辿り着いた。
すでに水虎は様々な魑魅魍魎から力を吸い取り、清が敵うようなものではなくなっていて。
どうしたものかと思って色々探っている内に、滝霊王と会った。
これは僥倖だと今までの経緯を話し、協力しようという流れになった。
「その時に、滝霊王から、明人くんと魃鬼の話も聞いたんだよ」
だから会う前に明人の名前を知っていたのか。
「そうだったんだ。滝霊王さんはもう一緒にいないの?」
「うん。ここに来る前に別れたよ。滝霊王は鵺の所に行ったんだ」
「じゃあ、滝霊王さんも水虎と……?」
「鵺を手伝うって言ってた」
明人の心に、安堵と不安が入り混じった、何とも言えない感情が広がった。
心配だけど、桁違いの強さを身に付けた水虎を前に、峻生と滝霊王が揃っているのならば心強い。
どうか、二人で無事に水虎を倒せますように――。
峻生達がいるだろう森の奥へ目を向ける明人の横で、魃鬼は清に琥珀の瞳を冷たく光らせた。
「ただの好奇心か? オレ達に協力ってどういうつもりだ。お前に水虎を倒したい理由でもあんのかよ」
尖った魃鬼の声に、清は困ったように眉尻を下げた。
「異常な雨気も水虎も、無視なんてできないよ。放っておいたら、人間界と幽冥界を巻き込んで、とんでもない事になる。これでも正義感はあるからね……。ぼくの事をよく知ってる魃鬼に好奇心なんて言われたら、さすがに傷つくよ」
「は? お前の事なんか全然知らねぇよ」
「ひどいなぁ……」
冗談めかして清が言う。
しかし、菫色の瞳には確かな悲しみがあるように見えた。
どうして魃鬼は雨降り小僧の清に、こんなに当たりが強いのか。
「ちょっと、魃鬼――」
冷えた物言いの魃鬼を諌めようとしたが、言葉が続かなった。
激しい雷鳴が三人の鼓膜を震わせ、森の奥が稲光に包まれた。
「鵺と水虎が戦い始めたね」
「峻生さんが……!」
当然だが妖気を感じる事はできないし、戦いの様子が見えるような距離でもない。
何も分からない自分がひどくもどかしかった。
「知ってる? 鵺は雷獣なんだよ」
「え……?」
明人の様子を見て、清は優しい声音で続けた。
「すさまじい雷撃で相手を圧倒する。その一等強い妖力は言うに及ばす、知略縦横の大妖で、鵺に戦いを挑んだら、すなわち自らの死を意味するって言われてる。他の妖怪から力を奪った俄大妖になんか負けないよ。大丈夫」
穏やかで迷いのない清の言葉に、明人は詰めていた息を静かに吐いた。
雷獣――。
だから、御堂の前で水妖達を倒したのが雷だったのか。
そして、今の激しい落雷も。
――そう、清の言う通り、峻生さんは誰よりも強い大妖怪だ。
滝霊王もいるんだから、すぐに終わるに決まっている。
あっという間だ。絶対に――。
明人が願っている内に、体を濡らしていた雨がいつのまにか霧雨になって、三人の周囲を取り巻いていた。
水妖や河童のものではないだろう。
これまでと違って、雨気が自分達を守ってくれている。
きっと清の作った結界だ。
優しい霧雨の外は、相変わらず冷たく暗い雨が降り続けている。
水虎の力による謎の雨。
「峻生さんも疑問に思ってたけど、何で水虎は雨を降らせてるのかな……?」
明人は清と魃鬼にゆっくり視線を巡らせながら言った。
妖力を肥大させて、わざと雨を降らせているのならば、何故そんな事をしているのだろうか。
「……これは滝霊王の予想なんだけどね。雨を降らせてるのは、神降ろしの地盤作りだろうって」
「神降ろし!?」
聞きなれない言葉を、魃鬼が驚きを滲ませ聞き返す。
「そんなの、誰を降ろすってんだよ」
「この雨だからね。きっと雨師様だよ」
「……嘘だろ……」
清の返答に、魃鬼は一瞬言葉を失くしたようだった。
「……そんな、無謀ってか……無理だろ……」
「雨師様なら……明人くんの持ってる櫛で可能だよ」
「え……!?」
何だって?
急に、チノパンのポケットが、ずしりと重くなったように感じた。
――神降ろしって、僕達の所に神様をお呼びするって事だよね――?
強い力を持っているのは、峻生や魃鬼の話で分かっていたが、まさかこの櫛でそんな事まで出来るなんて。
「これだけ強い櫛を使えば可能だろうが……待てよ。何であきの櫛をお前が知ってんだよ」
「水虎が水妖達を使って雨乞いの櫛を探してるっていうのは、滝霊王と一緒に掴んでたんだ。あと、僕は雨降り小僧だよ? 雨乞いの櫛の力は、水妖以上に察知できるよ。お手のもんさ」
ニコリと笑って、清は櫛が入っているチノパンのポケットを指差した。
確かに、雨降り小僧にとって雨乞いは自分の独壇場だろう。
「クソっ!! 訳分かんねぇ事になりやがって! たかが水虎のくせして、調子に乗んじゃねぇよっ」
魃鬼が唸りながら、黒緋色の髪をバリバリと掻き乱す。
訳が分からないのは、明人も同じだった。
どうしたって、聞ける雰囲気ではない事だけは分かっているが。
うし様、とは誰だろうか。
神様だと思うが、聞いた事のない名前だ。
しかし、牛?なんて聞いたら、白眼視に決まっている。
何となくの勢いで乗りきってみようか。
「あの、えっと、水虎は、その、う、うし様を呼んで何をするつもりなのかな?」
勇気を出した明人の拙い疑問に清は笑った。
「っふふ。ごめん、説明不足だったね。雨の師と書いて雨師様。雨を司る大神様であらせられる。決して牛じゃないからね」
「いや、その、無知ですみません……」
完全に、牛と思っていたのがバレていた。
「実は僕、偶然にも雨師様にお仕えしてるんだ」
「え? お前、神仕えなんかしてんのか?」
魃鬼が意外だという顔をした。
「うん。神様にお仕えすると見聞が広がるしね……心身共に強くなりたいなって」
「けっ。意識の高い事で」
吐き捨てるような魃鬼の言葉に、清はわずかに視線を下げた。
「……ぼくは弱いんだ。神様の御力におすがりするしかないぐらいにね」
そう言って微笑む清を見て、とてもそんな風には感じないなと明人は思った。
清の発した雨気に、魃鬼は河童を察知できないぐらいに気圧されていたのだ。
雨を払って、旱魃をもたらす魃鬼が、だ。
きっと、雨降り小僧としての清の妖力は相当なものだ。
もちろん、清の言う弱いとは、単に妖力の話ではないのだろうが。
清の見せる切ない表情が気になりはしたものの、ここで話を掘り下げるほどの関係性も話術も時間も、明人は持ち合わせていなかった。
「そんな事より、明人くんの質問だね。水虎はね……雨師様を呼んで、御力を分けてもらおうとしてるんだと思う」
「神様の力……を?」
「そうだ。絶対とは言えねぇが、神降ろしをしてデカい供物を差し出せば、力が分け与えられる事がある。神からすれば少しの力だろうが、オレ達にとっては馬鹿みてぇに強大な力だ。その辺の奴らから力を吸い取った程度とは訳が違う」
魃鬼が、清の言葉の先を続けた。
「強大な力を分け与える……」
なるほど。そうか。
明人の頭の中で一筋の話が通った。
本来、妖力はそう強くないという水虎。
その水虎が、もっと強い妖怪になりたいと野望を持った。
どうすれば、今より強い力を手に入れられるか。
ちょっとやそっと、妖力が増すぐらいでは満足できない。
考えた水虎は、神から力を分け与えてもらう方法を思いつく。
神を地上に呼んで、大きな供物と引き換えに力をもらうのだ。
どの神が一番都合がいいかと考え、多くの神々の中から水虎が選んだのが雨師だった。
雨師を呼ぶには、沢山の雨を降らせた上で、神降ろしが可能な雨乞いの道具を使わなければいけない。
この二つの条件を満たす為に、まずは己の妖力を肥大化させていった。
様々な魑魅魍魎の妖力、精力を吸い取り、蓄えていく。
その餌食になってしまったのが、辻の魔だ。
魔物からも力を奪い、肥大化させた妖力で雨を降らせ続ける。
同時に、水虎は水妖や河童を使って雨乞いの道具を探し始めた。
偶然にも強力な力を宿した雨乞いの櫛を持っていた祖母は、水妖に周囲を嗅ぎ回られていたが、本格的に狙われる前に、櫛が明人の元へと渡る。
知らぬうちに水妖に追われる立場になった明人は、どうやら他の人間より精力のある餌になるらしく、弱った辻の魔にも目をつけられてしまい、両方から襲われる事になってしまった。
話を総合するに、こんな所だろうか。
頭の中で一通り考えてみて、自分の運の悪さに改めて愕然とした。
祖父母が水妖に襲われなくて本当に良かったが、櫛を手にした上に、辻の魔に選ばれるとはどういう事だ。
泣きっ面に蜂というやつか。
「水妖は、自分達もおこぼれをもらって力を手に入れようとしてるみたい。多分、水虎が約束してるんだ」
「馬鹿だな。そんなもん、利用されて供物になるだけだって分かんねぇのか」
魃鬼が鼻で笑う。
「水妖を供物に……?」
疑問顔の明人に魃鬼が続けた。
「神降ろしをした時の捧げもん……神によって色々だが、雨師は妖怪でもいけんじゃねぇの?」
「うん。今回は、水妖達が供物でも神降ろしは成立してしまう」
「だろ。つまり、水虎は水妖の奴らに、雨師を呼んだら力を一緒に分け合おうって大嘘ついて動かしてんだよ。んで、実際は使うだけ使ったら、供物にしておさらばってやつだろうな」
「あ……だから、いつもは単独行動の水妖達が、水虎に従ってたんだね」
水妖達は、力が欲しくて常にない団体行動をしていたのか。
という事は。
この櫛が、水虎の手に渡ってしまったら、本気で最後だ。
肥大した妖力の上に、雨師からも力を与えられてしまったら。
考えるまでもなく、最悪な妖怪が誕生してしまう。
何が何でも阻止しなければ。
「どうするか――」
魃鬼の琥珀色の瞳が思案に沈む。
「なぁ……オレ達で先手を打って、神降ろしをするのはどうだ?」
「僕達で?」
魃鬼は頷きながら言う。
「この雨気は、もうオレ達では止められねぇ所まできてる。水虎を倒しても、雨気は残って、放っておけば小僧の言うように大事になる。だから、先に神降ろしをして雨師に雨気を払わせんだよ」
清は目を輝かせた。
「それはいいね! この雨を止ませるには雨師様に頼むのが一番だ。それで、こっちが供物を水虎にしちゃえばいいんだよ! もちろん水妖達も一緒に! あ、でも……」
晴れやかな表情が一転、気遣わしげな顔をして清は明人を見上げた。
「そうなると、神降ろしは明人くんにしてもらわないといけなくなるんだ……」
「ん? え!? ぼ、僕!?」
清の言葉に、明人は耳を疑った。
「ちょっと待って! どういう事!?」
能力経験皆無な自分に、神降ろしなんて出来る訳がない。
何故、名指しされたのか。
「雨師様はね、基本的に人の子の願いしか、お聞きにならないんだよ。だからお願いするのは、ぼく達じゃなくて、明人くんがしないと成功しない」
「そ、そんな……」
明人は、言葉を失くした。
こんな切羽詰まった状況だ。
誰か霊力のある別の人を、なんて言っている場合ではない。
一刻も早く水虎の野望を打ち砕いて雨を止める為にも、自分達での神降ろしは絶対だと思う。
けれど、だが、しかしっ!!
自信ないし、何だか怖いしっ!
「いや、でも、僕は何も分からないし、もし失敗しちゃったら……」
「大丈夫、大丈夫! 櫛を使って雨師様を地上にお呼びするのは、そういうのが得意そうな滝霊王にしてもらえばいいし。明人くんは『この雨気を消して下さい! その代わりに水虎と水妖達を供物としてさ捧げます!』ってお願いすればいいだけだから。ぼく達もいるし、ちゃんと手伝うよ!」
「う、うん……」
表情を曇らせる明人の肩に、魃鬼が優しく触れる。
「思ったけど、雨師に仕えてんなら、お前が櫛を使わずに呼び出せねぇの?」
「そういう訳にもいかないよ。相手は大神様だからね」
「……だからって、あきを水虎に近づけさせるのは危険だ」
魃鬼があからさまに眉間を寄せる。
「もちろん、明人くんを守りたいのは、ぼくも同じだよ。でも――」
清が魃鬼を説得しようと言葉を重ねている。
自信はないけど。怖いけど。
何より、とても畏れ多いけど――。
――僕にやっと回ってきた大役なんだから。逃げたらだめだ――!
いつもの逃げてばかりの自分から卒業しないと。
「ぼ、僕……!」
変に大きな声を出してしまった。
こちらに向いた二人を強く見つめ返すと、明人は一呼吸置いて言葉を続けた。
「僕は……何の力もなくて、今だって守ってもらってる。役に立ちたいと思っても、足手まといになるばかりで……ずっと自分を情けなく思ってた。だから……この神降ろしで、やっと僕に役目ができたんだ。やらないと、いや、やりたいんだ。胸を張って任せてなんて言えないけど……雨師様へのお願い、僕がするよ」
「明人くん……っ!」
強く言いきった明人に、清の声が明るくなる。
魃鬼が眉間のシワを濃くした。
が、何も言わないのは、明人が願うのが一番だと理解しているからだろう。
「ありがとうっ! ぼく達も精一杯頑張るから。一緒に水虎達をやっつけようね!」
清が頼もしく微笑む。
明人は頷きながら、そっと視線を落とした。
決意した側から、不安が心を揺らす。
神に直接願うなんて、そんな大それた事。
自分が行って、成功できるのだろうか。
考えるだけで、身のすくむ思いがする。
もし、失敗してしまったら。
もし、最悪の事態になってしまったら。
――もう、いい加減にしろっ僕――!!!
明人は己の弱い心を叱咤して、森の奥に気持ちをはせた。
今この瞬間も、峻生と滝霊王が戦ってくれている。
明人の命を守る為に、自分達の命をかけて。
それなのに、自分が怖気づいてどうするのだ。
――皆も頑張っているんだから、僕だって。何の力もない僕が、やっと役に立てる時が来たんだ。勇気を出さないと――。
峻生の優しい微笑みを思い出して、明人は心を引き締めた。
この雨を止めて、水虎の企みを阻止して。
――峻生さん、僕も、精一杯頑張るから――。
拳を握ると、明人は闘志を燃やし始める。
「二人が水虎を弱らせるまで様子を見るか。弱れば、水妖達の統率にも隙が出てくるはずだ。神降ろしは、それからだな。少しずつ森の奥に戻るぞ。多少の水妖や河童は、オレと小僧がいたら敵じゃねぇ」
魃鬼の琥珀の瞳にも、戦いの炎が灯る。
「ぼく達なら当然っ!」
そんな魃鬼の姿を見て、嬉しそうに清が頷いた。
こぼれんばかりの笑顔。
魃鬼を慕っているのが一目で分かる可愛い表情だ。
替え値なしの信頼に溢れている。
それに引き替え、この温度差は何なのか。
明人は視線を清から魃鬼に移動させた。
この旱魃妖怪は健気な清の姿を視界に入れても、まるで道端の石ころが、たまたま目に入ったかのように無反応だ。
あまりにも不自然。
どうしてなのか。
魃鬼は、こういった篤い信頼や情をとても大切にしている男に違いないのに。
清に対してだけ、心に旱魃が訪れているかのようだ。
喧嘩をしていたり、深く仲違いをしているようには見えないが。
清との心の交流を、魃鬼が一切拒絶しているように感じる。
何故――?
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