其の七

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其の七

「あき……」 「ん?」 よく知りもしないくせに、二人の関係に思考を巡らせていた明人は、魃鬼の声に慌てて現実に戻った。 だめだめ。 今は何より水虎。 神降ろしだ。 「あのな……」 「何?」 珍しく魃鬼が言い淀む。 「……提案が、一つある」 「提案?」 何だろうか。 硬い表情の魃鬼がゆっくりと言葉を続けた。 「あきにとっては、すげぇ辛い話になるが……雨師に差し出す供物に辻の魔も足せば、あきの身辺も一度ですっきりする。おびき寄せなきゃなんねぇから、苦しい思いをする事になんだけどな……」 明人はわずかに瞠目して、琥珀の瞳を見た。 「……水虎達と一緒に、供物として雨師様へ?」 「そうだ」 もし、辻の魔も共に雨師に差し出せば、非時香果だの七日の命だのと怯えなくてよくなる。 「そ、そんな事、できるの……?」 「……さっき不安に取り憑かれてただろ? あれと同じように身の内で不安の闇を育てて、あきを喰いたがってる辻の魔を、逆におびき寄せんだよ。負担になんだろうが……雨師に引き取らせるには、それしかねぇ」 あの思い出したくもない不安と恐怖。 あれをもう一度乗り越えないといけないのか。 胸の内に蘇る冷たい恐怖。 「できねぇなら、無理にとは――」 「いや、やるよ」 明人は即答した。 怖ろしい。 けれど、この機を逃せば、水虎と櫛の件は解決したとしても、辻の魔には狙われ続ける事になる。 それは嫌だ。 怖い事は全部一緒に終わらせた方が、いいに決まっている。 「明人くんは、辻の魔にも狙われてるの?」 滝霊王から、そこまでは聞いていなかったのだろう。清が問う。 「ああ。水虎に精気を吸われて弱った辻の魔に、喰われそうになってんだ」 明人の代わりに魃鬼が説明していく。 千徳が非時香果を差し出す約束した所で、清が呆れた顔をした。 「そんな無茶な」 やっぱり、皆同じリアクションだ。 「あ~。それは、この際だから一緒に雨師様に差し上げた方がいいね」 「全部終わらせた方が後が楽だ。けど……本当にいいのか?」 ためらいがちに魃鬼が再度確認してくる。 魃鬼は、恐怖に取り憑かれて苦しんでいる明人を見ているのだ。 どれだけ辛いか知ってくれている。 「大丈夫。辻の魔をおびき寄せてからの神降ろし。僕、頑張るよ」 全て一緒に終わらせた方が、皆にも迷惑がかからない。 何度も捕らわれて味わったあの不安と恐怖を、今度はこちらが利用して、辻の魔をおびき寄せるのだ。 「皆が僕の命の為に協力してくれている。全てを終わらせる最善の方法があるのなら、選択肢なんて存在しない。怖がってないで、僕ができる事は何だってしないと」 それが、今の自分にできる唯一の役割だ。 「……辛いだろうが、オレ達は絶対にあきを一人にはしねぇからな」 「うん……ありがとう」 魃鬼の言葉からにじむ優しさと力強さに、胸の奥が温かくなった。 しかし、それで体まで温める事はできなくて、明人は肌寒さに体をぶるりと震わせた。 霧雨がどんどん雨足を強くしていたのだ。 服はほとんど濡れていないのだが、雨粒一つ一つが見る見るうちに大きくなっていくのが分かる。 「おい、降らせ過ぎだ」 雨降り小僧の力かと、魃鬼が清を鋭く見下ろす。 「いや、ぼくは何も――」 激しい雷鳴が轟き、清の言葉を消す。 峻生のものだろう。ぐっと距離が近くなっただろうか。 様子をうかがっていると、続く雷鳴と稲光の隙間から、それに負けないように張り上げる声がした。 この親しみのある性別を感じない声。 次第に音量が大きくなり、雨闇の中に茶色い体がうっすらと現れる。 「どこじゃ!? どこにおる!? もう幽冥界に行ってしもうたか」 明人達の姿を捜して、千徳が周囲を見回している。 すぐ側にいるのに、明人達の姿が見えないのか。 「ぼくの結界のせいだ。見えるようにするね」 清が軽く目を閉じる。 その瞬間。 周りの雨の濃度が薄くなった。 「あぁっ! 良かった、良かった。まだこっちにおったか」 千徳が駆けてくる。 「千徳さんこそ無事で良かった!」 目の前でふわりと浮いた貉を、明人は濡れる事を厭わず胸に抱いた。 「すまん。油断して捕まってしもうての」 「油断しなくても、捕まってたんじゃねぇの?」 魃鬼が、自分も捕まりそうになっていた事を忘れたかのように、千徳をからかう。 「うるさいぞ、魃鬼っ!」 千徳が濡れそぼった毛を逆立てて言う。 「今、鵺と滝霊王が水虎の相手をしてるよね」 清の確認に、千徳は大きく頷いた。 「相当な数の妖怪を、喰い散らかしたようじゃ。とんでもなく強くなっておって、二人がかりでも苦戦しておる」 「せめて、ある程度弱らせてくんねぇと、話になんねぇけどな……」 「弱らせる? 二人は倒そうとしておるのじゃぞ?」 「オレらの中で作戦変更になったんだ。こいつから色々聞いてな」 魃鬼が親指で清を指し示す。 千徳は、今、気付いたばかりのように声を上げた。 「そういえば、おぬしは雨降り小僧の清ではないか! この雨が気になって来たのか?」 「久しぶり、千さん。まぁそんな所かな」 「こいつ、オレ達より先に色々調べて、滝霊王とも話してんだ」 魃鬼が、かい摘んで三人で話した内容を説明する。 明人が辻の魔をおびき寄せ、神降ろしまで行うと聞くと、千徳がビビビと濡れた尾を立たせた。 「な、何じゃとっ!? そんな、下手をすればあきが喰われてしまう」 千徳は明人の胸から飛び出すと、宙に浮いたまま声を強くした。 「それは分かってんだよ。その上での作戦だ。あきはオレ達で守ればいい。いっきに終わらせられんだ。この機会を逃す手はねぇ」 「確かにそうじゃ……しかし……」 「僕も全て雨師様に受け取っていただけたらと思う……非時香果を探さなくてよくなるしね」 明人の言葉に、千徳は言いたい事を飲み込んだようだった。 「……くれぐれも慎重にな」 「うん」 一際、強い雷鳴が辺りに響く。 どんどん近くなっている。 「そうじゃ。水虎が痺れを切らして、直接櫛を奪いに動き始めたようでな。自ら気配を探って、あきを追おうとしておる。峻生と滝霊王が必死で阻止しておるが、勢いが凄まじすぎる。このままじゃと、神降ろしをする前に、あきが襲われてしまう。一度、幽冥界に行くか」 「……少しずつ戻ろうと思ってたが無理そうだな。すぐに幽冥界へ動くぞ。もたもたしてっと追いつかれる」 魃鬼が明人の背をポンと叩くと、先を歩き始める。 清の結界に守られながら、明人も再び幽冥界に向けて足を踏み出した。 「……千徳さん。峻生さん達、怪我……してた?」 濃い雨気の中で、明人は側を歩く千徳に問いかける。 熾烈な戦いに身を投じている峻生と滝霊王。 大妖二人がかりでも弱らせる事すら難しいとは。 肥大した水虎の妖力とは、どれほどのものなのか。 明人には想像すらできないが。 もし二人が深く傷ついていたらと思うと、明人は心がぎゅっと引き絞られるような心地がした。 「今のところ、大きな怪我はしておらん……」 大きなという事は、小さな怪我はしているのだ。 「ねぇ清。今からすぐに神降ろしはできない? 弱るのを待っていて、二人に何かあったら……」 明人は堪らず清の肩に触れた。 「……さすがに水虎が暴れ回ってる中に、雨師様をお呼びしても上手くいかないと思う。ぼく達まで危険な目に遭っちゃうしね。戦ってくれている二人はそんな事を望んでないよ。それでなくとも、こっちで神降ろしをする計画は知らせてないんだ。ぼく達が水虎が弱るのを待ってる事だって、二人からすれば想定外で、勝手な行動だ。少し様子を見よう。大丈夫。聡明な鵺と滝霊王が、己の命を脅かすような立ち回りはしないよ」 清は肩に触れている明人の手を取った。冷たいその手を温めるように強く握る。 「峻生達を信じるんじゃ」 千徳が明人の足に優しく擦り寄った。 「……うん」 戦っている二人を思えば胸が潰れそうだ。 でも、神降ろしを成功させる為にも、時機を待たねば。 「信じる。信じるよ」 「うむ。よろしい!」 千徳が明人に笑みを向けた。 「無事に幽冥界に入れそうだな」 幽冥界を出入りする時のお馴染みの闇が迫るが、背後からの凄まじい稲光が周囲を明るくする。 雷撃は峻生が戦っている証。 「……ん? あの明るいの、何?」 激しい稲妻の明滅を振り返りながら明人が言う。 よく見ると、雷とは別の光がある。 それは、ふわふわと浮きながら、こちらに近づいて来ていた。 「あれは……雨が光っておるのか?」 千徳が呟いて、光るふわふわが雨だと認識できた瞬間。 清に背を押された。 「走ってっ!! 早くっ!!」 「き、清っ……!?」 押し出されるように走り出すと、すぐに周りが闇一色へ変化した。 「あの光る雨は水虎かっ!?」 走りながらの魃鬼の問いに、清が頷いた。 「雨で明人くんを探してるんだっ。あの光る雨が体に触れてしまったら終わり。全力で逃げるよ!」 再び後ろを向けば、光る雨は幽冥界にも侵入して、暗闇を明るく濡らしていた。 「とりあえず境界から出るぞ」 魃鬼が皆の先を走る。 闇が切れると、閑雅な竹林が周囲に現れた。 足元に広がる竹落葉をガサガサと蹴りながら、夜の竹林を走り続ける。 先程までいた森と違って、雲一つない空には綺麗な月が見える。 月明かりに竹林がうっすらと浮かび上がっている光景は、非常に幻想的だった。 「まずいぞ! 雨の量が増えて速くなってきておるっ」 千徳が焦りをにじませて言う。 確認するまでもなく、雨の気配が背後に迫っているのが分かった。 ザァと竹を濡らす雨音が鼓膜を切迫する。 「どこか隠れる所はないかのっ」 「あの雨は、全てをすり抜けて気配を察知するだけの力を持ってる。ちょっと隠れたぐらいだと見つかっちゃうよ」 「そんな力まで使えるようになってんのかよっ。クソ水虎はっ」 「ぼくも、ここまで器用に力を使えるなんて思わなかったよ」 息を切らしながら魃鬼が悪態をつく。 もはや、背後から強い照明を浴びているような状態だ。 雨はすぐ後ろ。急激に速さを増している。 明人は荒い呼吸の隙間に、ぎゅっと唇を噛んだ。 全力疾走の限界が訪れようとしている。 一番見つかってはいけないのは、櫛を持っている明人なのに。 苦しい。 肺が引き攣りそうだ。 「もう限界じゃぁ! 追いつかれるぞ」 竹林は昼間のように明るい。 もう数メートル後ろまで雨が迫ってきている。 走り続けられたとしても、すぐに濡れてしまうだろう。 水虎に見つかってしまう――。 「あきっ!!」 光る雨に追いつかれる寸前。 魃鬼に体を引っ張られた。 走っていた勢いのまま、落葉の上に倒される。 両手と両ひざをついてどうにか受け身を取ると同時に、魃鬼が体の上に覆いかぶさってきた。 「魃鬼……っ!?」 「完全に防げねぇだろうが、時間稼ぎだ」 魃鬼が、しゃがみ込んでいる明人の体を守るように、ぎゅっと腕に抱く。 二人の体の上に、追いついてきた光る雨が降り注いだ。 しかし、雨は体に触れる寸前の所で弾かれて蒸発していく。 魃鬼が妖力で、光る雨を退けてくれたのだ。 「そうか! おぬしの力で雨が消えるのか!」 「いや、完全に子供騙しだ。これは普通の雨じゃねぇ。ちょっと蒸発させただけじゃ意味がねぇし、妖力を派手に使うと水虎にバレる」 「……何にしろ、水虎にバレるのは時間の問題って事だね」 千徳と清が、光る雨に濡れながら動きを止めて、周囲の様子をうかがう。 「ど、どうしよう……。動いたらすぐにバレちゃうよね」 明人は、すぐ側で毛を立てて緊張している千徳に顔を向けた。 「そうじゃな。この辺り一帯は、雨が行き渡ってしもうた……」 「動けば水虎はすぐこっちに向かってくるよ」 「どうにか鵺と滝霊王が止めてくれるのを期待するしかねぇな」 美しい竹林に雨の音が響く。 次の一手に考えを巡らせるが、時間は無情に過ぎていき焦りだけが募っていく。 察知されるのを待っているより、追われるのを覚悟で動いた方がいいのか。 逡巡していると、全てを震わせるような獣の咆哮が、光る雨の向こうから空間を引き裂いた。 幽冥界の中だ。 距離感なんてないのかもしれないが、今までの雷よりも近くから聞こえたように感じる。 「あ……あれは峻生じゃ! 何であんなに吠えて……」 考え込もうとした千徳が、ピンと尾を立てた。 「皆、動くぞ!」 「え……?」 「今のは知らせじゃ。明確な場所はバレておらずとも、水虎はわし達にどんどん近づいておる。峻生はそれを知らせる為に吠えたのじゃ」 そう思えば、周囲に知らしめるような咆哮ではあったが。 「で、でも、動いた瞬間に、正確な場所が把握されてしまうよね?」 「せめてもの目くらましに、人の世と幽冥界をうろうろしてみるか」 魃鬼の提案に千徳が頷く。 「少し先に、人の世と出入りしやすい場所がある。そこまで全力疾走じゃ」 「分かったっ」 清の返事と共に、魃鬼に腕を引かれて立ち上ると、再び幽冥界の奥へと走り始めた。 峻生の激しい咆哮。 どう聞いても獣のものだった。 中学生の時に読んだ本では、鵺はどういう妖怪だったか――。 脳内を掘り返すが、やっぱり思い出せない。 とにかく、あんな野太い咆哮は、人の形をしていては出せないと思う。 峻生は獣の姿で戦っているのだ。 「水虎の奴、どう出るか……」 光る雨粒が明人の体を濡らす。 これで完全に水虎に居所が把握されてしまった。 これからどうなるか。 一秒先でさえ全く分からない。 とりあえず、逃げる。逃げる。逃げないと。 どこまでも続く竹林を走り続ける。 水虎の光る雨で、見通しは素晴らしくいい。 「早く倒すか弱らせるかしてくれねぇと、オレ達がぶっ倒れるな……」 魃鬼が顔をしかめながら言う。 さすがの妖怪でも、逃げ続けるのは限界があるようだ。 「この先にある、み――」 走りながら説明をしようとしていた千徳の声が、急に途切れた。 声だけではない。 千徳が消えた。 「千徳さんっ!? どこ!?」 どうしたというのか。 周囲を見回すが、何の痕跡もなく茶色い体がいなくなった。 「下だっ!!」 魃鬼が声を上げる。 何の事かと下を見ると、落葉で覆われていた地が一瞬でぬかるみに変化した。 これは河童だ。 魃鬼と逃れた河童の泥沼を思い出す。 そうだ。 居場所がバレているのだ。 水虎が来なくても、手下が来るのは当然だ。 「足を取られないでっ!」 清の忠告に応えるように、無数の手がぬかるみから伸びてきた。 「オレと小僧で蹴散らすっ。あきはとにかく突っ走れ!」 どうにか返事をしながら、明人は姿勢を整えて走り始めた。 左右後方で魃鬼と清が、足に絡みつこうとしてくる河童の手を妖力で弾いてくれている。 千徳は河童の手に捕まって、このぬかるみに沈んでしまったのだ。 体が小さい分、瞬く間に絡み取られたに違いない。 大丈夫だろうか。 明人ならば命はない所だが。 大貉の千徳ならば――。 「あきっ! 足元よく見てろっ」 「ご、ごめっ」 千徳の事に気を取られて、自分の足さばきが疎かになっていた。 新たに伸びてきた手が、魃鬼に消される直前に足首を掠めて、明人はゾッと肝を冷やした。 竹林に続いて、このぬかるみも終わりが見えない。 河童を退けてもらいながら無心で進んでいると、少しずつ背後が騒がしくなってきた。 後ろを向く余裕はない。 だが、何かが大勢いる。 「……う、うしろっ何かいない……っ?」 「ちょっと追手に水妖が加わってるだけだよっ。明人くんは気にしちゃだめ!」  「……!?」 ちょっとだって? 気にしちゃだめ、なんて可愛らしく清は言うけど。 この背後の大きな気配。 絶対、ちょっと程度ではない。 滝霊王の屋敷から、峻生と一緒に追われた時よりも騒がしい。 あの時以上の水妖に、足元には数多の河童。 地面のぬかるみは増し、走るのが困難になってきていた。 苦しい。 でもそれ以上に、すぐ後ろの魃鬼と清が辛くなってきているのが肌で分かる。 「オレが水妖に回る」 短く声がすると、魃鬼の気配が遠ざかっていった。 「ぼくだけで河童達は抑えられるから」 清がしっかりとした声音で言う。 きっと、明人を少しでも安心させようとしてくれているのだ。 足元の河童達も、数を増やし続けている。 少しも余裕などないだろうに。 「急に河童が多くなってきた。走りが遅くなってもいいから、足さばきに気を付けて」 「す、水妖に追いつかれたら……っ」 「それは魃鬼が食い止める。後ろの水妖もだけど、それ以上に、河童に捕まったら助けるのは難しい。水虎も明人くんに神降ろしをさせようと、櫛ごと狙ってるはずだよ。逃げきれる状況じゃないけど、ぎりぎりまで、どうにか頑張ろうっ」 息を切らしながら、清が言う。 走り続けて、明人も全身が悲鳴を上げていた。 辛い。 返事はしたものの、今にも河童に身を投じてしまいそうだ。 そして何より、とてつもない恐怖に心が弱っていく。 「明人くんっ、もう少し、もう少し耐えて……っ」 気持ちが折れそうになっている明人を、清が何度も励ます。 魃鬼も清も、瀬戸際で歯を食いしばっている状態なのに、狙われている自分が戦意を喪失してどうする。 峻生達が、水虎を今よりも少しでも弱らせてくれれば、状況は一転する。 頑張らないと。 何が何でも――。 「あきっ!! 前っ!!」 「え――?」 水妖を相手している魃鬼が、少し遠くから叫ぶ。 足元ばかり注視していた明人は、前を見て驚きに息を詰めた。 ぶつかる直前の距離に、腰ぐらいまである岩が地に刺さっていた。 上手く避ける事ができずに、短い悲鳴を飲み込みながら、体勢を大きく崩して岩の横に転倒する。 「明人くんっ!」 清が河童を退けながら、転倒した明人に駆け寄り、体を支えた。 「ごめっ……僕、前をよく見てなくて……っ」 最低だ。 泣く資格なんかないのに、目尻に涙が溜まってくる。 「いいんだ。気にしないで。皆、限界だったから。ぼくも前方不注意だった」 清の労わりに一層、己が情けなくなる。 「おいっ! 大丈夫か!?」 魃鬼がこちらに顔を向ける。 それに返事をしようとして、明人は息をのんだ。 水妖の大群が。 明人の予想など遥かにしのぐ数の、おぞましい異形が明人達の後ろに迫っていた。 「こ、こんな……」 ――逃げきれないなんて分かってたけど、こんな数ってないよ……。 見ぬふりをしていた絶望が、明確に明人の胸を覆っていく。 ――僕はもうだめだ……二人だけなら、きっと逃げられる――。 「清……この櫛を持って行って。僕の事はいいから……お願い」 明人はポケットの奥にある櫛を取り出そうとした。 「何言ってるの!? 置いて行く訳ないよっ!」 「でも……」 「でもも何もないっ! 追い詰められてるけど、まだぼく達の妖力は尽きてない。大丈夫だ!」 己を捨てて行けと言った明人に、清は菫色の丸い目をつり上げた。 きれいな瞳には怒りが浮かんでいる。 「皆で頑張ってるからっ。見えないけど、鵺と滝霊王も全力で戦ってくれてる。明人くんの命を守る為に……だから諦めないでっ」 清が明人の手を握って、懇願する。 「清……。ごめん……僕は……」 皆、明人の為に死力を尽くしてくれている。 身に沁みて分かっているはずだったのに。 ――ああ。僕は、なんて事を――。 己の心のなんと弱い事か。 皆が明人の命を守ろうとしてくれているのに、その気持ちを踏みにじる所だった。 「僕も……諦めないよ……」 「うん……!」 ぎゅっと清の手を握り返すと、菫色の瞳が優しく微笑んだ。 「小僧っ! この岩の中心に結界張るぞっ!」 岩の周囲のぬかるみが消え、空気がわずかに熱を持った。 魃鬼の結界内に入ったのだ。 「お前の力も足せ」 「やってるよ!」 二人の妖力で結界が強化されたが、周りは完全に水妖と河童に包囲された。 どうにか結界内に入ろうと、異形達が体や妖力をぶつけている。 異様な叫び声や呻き声に囲まれ、結界の外は地獄絵図そのものになった。 「すごい勢いだね……」 清が眉根を寄せながら呟く。 明人の住んでいる古いアパートなんか一突きで吹き飛びそうな攻撃が、絶え間なく結界を襲っている。 「これ以上増えねぇように、神降ろしの前に神頼みだな」 吐き捨てるように言うと、魃鬼は片膝をついて結界維持に集中し始めた。 清も眉間の皺を一層深くして、懸命に結界と向き合っていた。 相当辛そうだ。 明人は周囲のおぞましい光景を見ていられなくなって、静かに顔を伏せた。 峻生と滝霊王は無事だろうか。 そして、ぬかるみの中に引きずり込まれてしまった千徳は――。 ――こんなに追い詰められているのに、僕は……何もできない……っ。 清の頬に、一筋の汗が流れた。 急激な妖力の消耗が、どれだけ体に負担なのか。 明人には想像すらつかない。 ビリビリと結界の揺れを感じていると、妖怪二人の顔色が変わった。 「来るよ……」 清の乾いた声が聞こえた直後。 結界から少し離れたぬかるみが大きく膨れ上がり、数多の水妖と河童が吹っ飛び、宙を舞った。 大量の泥と異形達で視界が閉ざされ、魃鬼と清は守るように明人に身を寄せた。 「な、何……?」 「水虎だ……大妖二人を振り切って来やがった」 「え……」 泥をまき散らしながら、ぬかるみは膨らみ続けている。 明人はその泥の小山を恐怖と共に見上げた。 とうとう恐れていた水虎が来てしまった。 櫛を奪いに。 更なる力を手に入れる為に。 「小僧っ。あきを連れて逃げろ」 魃鬼が泥の小山を睨みながら言う。 「だめだよっ」 水虎と相対する気だろう魃鬼に、清が強く言い返した。 「ぼく達が敵う相手じゃない」 「勝とうなんて思っちゃいねぇ。少しだが時間を稼ぐ。その間に逃げろ」 「そんな……っ。無謀だよ」 「無謀でも何でもやるしかねぇ。出て来るぞっ!!」 泥の小山が成長を止めた。 ぼとり、ぼとりと大量の泥の落としながら、水虎がこちらに近づいてくる。 黒い。 真っ黒だ。 水虎は巨大な黒い塊だった。 ワカメのような太い毛に全身を覆われ、体の形が分からない。 泥まみれの姿は、目を背けくなるぐらい汚らしい。 これが。 この毛の塊のような化け物が水虎――。 大妖の峻生と滝霊王が二人がかりになっても勝てない妖怪には、まるで見えなかった。 「よしっ。行くぞ!」 魃鬼が叫ぶ。 「魃鬼、待って!」 清の制止空しく、結界が消えた。 押し寄せる異形達を前に魃鬼の振り絞った妖気が弾け、束の間の道が作られる。 「走れっ!」 魃鬼が水虎の巨大な体に飛び込んで行く。 「……ぼく達も行くよ!」 見守っている暇はない。 水虎に戦いを挑んだ魃鬼に背を向けて。 魃鬼が作ってくれた道を二人で走り始めた。 足どりは迷いないが、清が何度も振り返る。 悲しげに寄せられた眉の下。 菫色の瞳には多くの思いが交差して切なく潤んでいた。 そう。無謀だ。 峻生と滝霊王が止められなかったのに、妖気の消耗が激しい魃鬼がどれだけ対抗できるというのか。 そして、先程より水妖や河童は桁違いに増えているのだ。 水虎が追ってこなくとも、すぐに清と二人で捕まってしまうだろう。 もう手詰まりだ。 峻生さん――。 明人は走りながら、ぎゅっと拳を握った。 考えたくないけれど。 明人の元に水虎が来たという事は、戦っていた峻生と滝霊王は、もしかするとすでに――。 最悪な結末が頭をよぎる。 違う、絶対に違う――! 懸命に嫌な想像を追い払っていると、背後で大きな爆発音がした。 振り返る清の瞳から涙が散った。 「……っ! 黒主(こくしゅ)様っ」 痛ましい声で清が叫ぶ。 ――黒主様――? 知らない呼称に思考を巡らせる余裕もなく、水妖と河童が止めどなく襲ってくる。 涙を流しながら、清がそれらを弾き飛ばした。 黒主様とは魃鬼の事か。 では、今の爆発音で魃鬼も――? そんな、そんな――。 「明人くん、早くっ!」 千々に心を乱す明人の手を引き、清が歯を食いしばりながら異形の間隙を縫う。 体が、心が、重い。 「あ、清っ!」 清の足取りが乱れて、大きくバランスを崩した。 手を引かれている明人も、一緒にたたらを踏んだ。 一歩進むのにも苦しそうなのに、清は諦めずに明人の手を引く。 「清……っ」 ――ああ、また僕は――。 勝手に絶望して、気持ちを終わらせようとしていた。 自分なんかより清の方が辛いのに、苦しくて堪らないだろうに、諦めずにいてくれる。 明人を守ってくれている。 それなのに、当の自分が終わらせてどうする。 どんな事になろうとも、最後まで諦めてはだめだ。 清の手を改めて強く握り返す。 しかし、その次の瞬間。 清が河童に足を取られて転倒した。 「清っ!!」 慌てて支えようとした明人の手を、清は拒絶した。 「逃げてっ! ぼくの最後の力で、結界を作るからっ!」 「そんな……清を置いて行けないよっ」 「いいから、行って!!」 「な……っ!」 肩を押され、瞬時に体の周りに結界が張られた。 「清っ!! だめだよっ! きよっ!!!」 声もなく。 小さく微笑んで。 無事に結界を張れた事を見届けると、清は異形の波に飲まれていった。
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