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其の八
「きよっっ!!!」
――清、いやだよ、清、清――……っ。
涙で視界が濁る。
漏らす嗚咽が、水妖達の呻き声にかき消された。
おぞましい異形は、びっちりと明人の周りを囲んでいる。
皆、いなくなってしまった。
明人を守って。
皆が、皆が――。
でも――。
進まないと、一歩でも。
――皆が守ってくれた僕の命。諦めるなんて許されないっ――!
明人は最後の力を振り絞って走り始めた。
結界に、異形達が弾かれる。
雨降り小僧の、清の身を挺した最後の力が、明人と共に在る。
行かないと。
一人になり、水妖達の攻撃も容赦のないものになってきている。
いつ結界が消えるか分からない恐怖に身が竦むが、決して孤独ではない。
――みんなの為にも、一歩でも遠くへ逃げないと――!
足を動かす。
限界まで動かして、逃げるのだ。
そう思うのに。
疲労と恐怖で体がいう事をきかず、走っているつもりが、遅い歩みになってくる。
――お願いっ! 動いて! 動いてよっ!!
気力で一歩一歩進んでいたが、とうとう足が動かなくなって、明人は膝をついた。
――まだ動けなくなるには早いんだっ。だから、立って――!
立ち上りたいのに、膝が震えるだけで動かない。
気持ちに体が伴わない悔しさに、再び涙が溢れてくる。
泣いている場合ではないのに。
結界にへばりつくようにして、水妖と河童が喚き散らす。
恐怖を煽る気色の悪い視界を拒絶するように、瞼を伏せた。
立ち上る事さえできない体で、どうにか膝をついて先を目指していると、背後の気配が変わった。
ぞわりと肌が粟立つ。
振り返ると、異形達が道を開けている。
追いつかれた――。
凶悪な気配に、体が震えはじめる。
明人の前に引かれた道の奥。
黒い塊がこちらを見ている。
突き刺さる視線に、明人は息を詰めた。
大きな暗黒が少しずつ。
焦らすように、明人に向かってくる。
水虎が来てしまった。
ついに、追い詰められてしまった。
もう、逃げる体力も気力も残っていない。
――みんなっ……ごめん……ぼくは――。
光る雨を纏った水虎の姿が大きくなる。
ゆっくり動いていたかと思うと、急激に距離を詰めてくる。
きっと、明人の心を弄んでいるのだ。
体は全然動かないのに、涙は流れ続けている。
カチカチと歯が鳴る音が耳の奥に響く。
来る、来る――。
低い唸り声が、獣の荒い息遣いが、明人の体を恐怖のどん底に縛り付ける。
「あ……」
ずるずると汚い毛を引きずって、とうとう目の前に水虎が来た。
死んだ魚のような濁った目が、毛の間からわずかに覗いている。
「……っ……」
禍々しい気配が明人を包む。
水虎から醸し出される圧倒的な瘴気に、明人は呼吸が苦しくなるのを感じた。
声が出ない。
水虎は明人を睨みつけると、大きく咆哮した。
先程聞いた峻生のものとは違う、ひどく耳障りな音だった。
その咆哮に威圧されたのか、清の結界が破れて消えた。
――もう……終わりだ。お祖母ちゃんの櫛を守るって心に誓ったのに。僕の命……皆に守ってもらったのに――。
水虎の毛がずるずると伸び始め、明人を包み込もうと襲ってくる。
――峻生さん――っ!
明人は心の中で峻生を強く呼びながら、ぎゅっと目を閉じた。
「俺の明人に触るなよ」
恐怖と絶望に身を固くした明人の耳に、よく通る低い声が届いた。
「え……」
この声――。
心の底から求めていた声は。
「峻生さんっ……!」
――助けに来てくれたんだ――!
明人は顔を上げて、息をのんだ。
大きな背。
広い背中が、明人を守るように水虎の前に立ちはだかっている。
しかし、それは人のモノではなく。
獅子の如く堂々とした獣の広い背だった。
「待たせたな、あき」
優しい声はいつも通りだが。
白い毛に覆われた巨大な体には黒い縞が入っている。
長い尻尾はうねり、まるで蛇のようだ。
――これが峻生さんの、鵺の姿――。
耳元から首に生える立派なたてがみを震わせて、水虎と相対する姿は、どんな獰猛な肉食獣よりも恐ろしいが、低く馴染む声は確かに峻生のもので、明人は濡れそぼった美しい毛並の背に静かに触れた。
その瞬間。水虎が大きく吠え、明人は体を震わせた。
いけない。
峻生が来てくれたから、つい気を緩ませてしまった。
正面には水虎。周囲には数多の水妖や河童がいる。
一瞬でも油断できる状態ではないのだ。
水虎の吠声に、異形達が一斉に呼応する。
今までになく興奮した水妖と河童達が、改めて明人に焦点を結んだ。
しかし、その恐ろしい視線を感じる前に、明人の周りに幾つもの電撃が走った。
追手がきれいに吹っ飛ばされ、視界が広がる。
水虎を見ると、電撃が有刺鉄線のようになり、毛だらけの体にこれでもかと絡んで縛っていた。
すごい。
一度の攻撃でこれだけの敵を退けられるなんて。
改めて、峻生の妖力の大きさを思い知る。
「乗れ!」
呆然としている明人に、振り返った峻生が己の背を示す。
「……!?」
「急げっ!」
「は、はいっ」
鵺に乗れという事か。
予想外の流れに驚きながらも、大きな背に慌てて体を預ける。
よく見ると、鵺の脇腹辺りが大きく血に染まっていた。
「峻生さんっ。怪我……!」
「あきを乗せて移動するぐらいは何でもない。しっかりつかまってろ」
どう見ても、何でもない出血量ではない。
尚も言葉を重ねようとした明人を遮るように、峻生は勢いよく地を蹴った。
雨で光る竹林を、今までとは比べものにならない速さで進んで行く。
躍動する背に、明人は必死でしがみついた。
「来るのが遅くなって悪かった。あの通り、倒すと大口を叩いていたくせに、足止めすら満足にできなかった。滝王と二人がかりだったのにな。情けない」
ばつが悪そうに峻生が言う。
「そんな……っ。水虎は予想以上に妖力を膨らませてたって……。滝霊王さんは?」
「ちょっと怪我がひどくてな。治癒力が高い奴だから、すぐに追ってくる」
「滝霊王さんも怪我を……」
峻生よりも深い傷を負ったのだろうか。
治癒力が高いと峻生は言うが、少し休んだぐらいで完治するものなのか。
「心配するな。滝王も俺も、深刻な怪我じゃない」
そんな事を言って。
見えないが、峻生の腹部の怪我は今も血が流れ続けているだろうに。
「峻生さん……」
「大丈夫だって。人間と違って、俺達は簡単には死なない。まぁ、それは水虎にも言えるが」
平坦な竹林が終わり、闇の世界へと入っていく。
幽冥界から人の世へと移動するようだ。
「あいつ、妖力が自分の器を超えて理性がぶっ飛んでる。元は河童と似たような奴なんだがな。今はあの通り、毛むくじゃらの狂った化けもんだ」
闇を抜けると、濃い緑が広がった。
御堂があった所とは違うが、森の中だ。
視界いっぱいに、同じような木々が続いている。
迷い込んでしまったら、二度と出られなくなりそうな深い森だ。
「この森は滝王の支配力が強いんだ。水気が多いから、水虎の有利にもなるが……。滝王が戻ってきたら、ここでいっきに終わらせる」
この森で最終決戦――。
「あ、あの……!」
明人は顔を上げた。
魃鬼達が考えてくれた作戦を伝えないと。
櫛を使って、水虎が雨師を神降ろしをしようとしているのは、滝霊王から聞いているかもしれないが。
更なる力を得ようとしている水虎の野望を潰して、全てを一掃する為に、自分達で神降ろしを考えている事。
そして、辻の魔もおびき寄せて供物として差し出す事。
明人は背にしがみつきながら懸命に峻生に伝えた。
「……賛成できないな」
「峻生さんっ!」
峻生は固い声で続ける。
「神降ろしなんてもんは、そもそも俺達でするようなもんじゃない。下手をすれば大きな禍を背負い込む事にもなる。しかも、辻の魔までおびき寄せるなんて危険すぎる」
「そうだけど、でも……っ」
上手く言葉を続けられない。
峻生が反対している理由の一番はきっと自分だ。
万が一にも、明人の身に何か起こったりしないように。
そう考えて、神降ろしを反対しているに違いない。
「僕っ……頑張りたいんですっ。ずっと峻生さんや皆に守られて、何一つ自分じゃできなくて……。この神降ろしが成功すれば、水虎達もいなくなって雨気も消せて、七日の命に怯えなくてもよくなる……。もちろん、不安だけど……やっと役に立てる時が来たって思ったんです。だから……」
明人は鵺の背にぎゅっと抱きついた。
「だから、お願い……僕に神降ろしをさせてください」
「明人……」
懇願する明人の背にふわりと鵺の長い尾が触れた。
「分かったよ。水虎を完全に倒すより、今より多少弱らせるぐらいの方が、俺達の負担が少ないしな。けど、あきに何かあれば、神降ろしも辻の魔をおびき寄せるのも中止する。いいな」
「うん。僕、これで全部終わりにできるように頑張ります……!」
「ああ。一緒にな」
良かった。
これ以上、峻生と滝霊王に怪我をして欲しくない。
滝霊王の支配力が大きいこの森で、上手く水虎を弱らせる事ができますように――。
そして、皆で考えた作戦をどうにか成功させたい。
皆の思いを――。
己を全力で逃がしてくれた皆の姿が、明人の胸を締めつけた。
「峻生さん……僕、峻生さんが助けれくれるまでも、ずっと皆に守られてて……それで……僕を逃がす為に……みんなが……っ」
千徳は河童に捕まり、魃鬼は水虎に挑み、清は妖力を使い果たして、敵に飲み込まれてしまった。
胸の締めつけがぐっと喉元まで上がってきて、明人は唇を強く噛み締めた。
無力な己のせいで、皆が消えてしまった――。
「……妖怪は皆しぶといもんだ。上手く逃げてる事を願おう」
「はい……」
明人は何度も頷いた。
――皆、どうか無事で、どうか――。
力強く走る鵺は、一つも疲れを見せないままに、緩やかな斜面を登っていく。
どうやら大きな丘を越えようとしているようだ。
「……追ってきたな。滝王が来るまでは鬼ごっこだ」
「え!? もう?」
追われながら後ろを振り返るのは、もう何度目か。
不自然な水音に背後を向くと、森の木々を巻き込みながら、こちらに鉄砲水のような激流が押し寄せてきていた。
よく見ると、その流れの先端に毛むくじゃらの水虎が乗っている。
背後には雨も降っていた。
「……ご丁寧に雨気も一緒か。あれでも、少しは弱らせたんだがな。一体、どれだけの妖怪を喰ったんだか」
呆れた声音で峻生が言う。
鉄砲水は丘の傾斜など、ものともせずに追ってくる。
「峻生さん、怪我は……?」
「平気だ。と言いたい所だが、ちょっとまずいな……」
もう少しで丘の頂上かという所で、がくりと峻生の足から力が抜けた。
「峻生さんっ!!」
「すまん……」
急いで鵺の背から下りると、見るからに脇腹の出血量が増えている。
「ごめんなさい……僕を乗せたせいで……こんな……」
「謝るなって。あきを乗せたのは俺だろ」
峻生は低く唸って、木々の間を行く。
丘の下からは鉄砲水がものすごい勢いで登ってきていた。
これ以上、峻生は動けない。
どうしよう。
水虎が瞬く間に近づいてきている中、荒い息で鵺が大木に身を預けた。
「……しばらくすれば動ける。絶対に俺の傍から離れるなよ」
「はい。でも……水虎が……」
「任せて」
「えっ!?」
突然、隣から涼しげな声がすると、登ってくる鉄砲水が大きな水の壁で遮断された。
「滝霊王さんっ!」
右を向けば、隣に最初からいたかのように滝霊王が立っていた。
袴は随分と汚れているが、変わらない凛とした姿に安堵する。
「少し時間を……」
息も絶え絶えな峻生に、滝霊王が口角をわずかに上げて頷く。
水の壁が水虎と鉄砲水の侵入を拒み、激しい攻撃にも動じない。
さすがは滝霊王の力だ。
「あ、滝霊王さんの怪我は……!?」
こんなに力を使って、怪我に障ってないだろうか。
「大体、治ってる」
「え……それってまだ完治してないって事ですよね!?」
つい声が大きくなる明人に、滝霊王は微笑んだ。
「人間に心配されるほど弱ってないよ。峻生の方が今は大惨事」
峻生はその言葉に小さく笑むと、ゆっくりと目を閉じた。
流れる血が痛ましい。
明人は、静かに鵺の傍に膝をついた。
虎と狼と、両方の特徴を併せ持ったような。
獣姿になっても美しい顔が、痛みに歪んでいる。
「悪いな。心配かけて……」
こんな時まで、明人を気遣うなんて。
「峻生さん……っ」
明人は堪らなくなって、首元を覆う豊かなたてがみに掌を這わせた。
「もっとこっちに来てくれよ」
「傷に障らない……?」
「あきと触れ合ってる方が早く治る」
促されるままに腕を伸ばし、そっと太い首に抱きついた。
「これですぐに治るな」
峻生は顔を明人にすり寄せ、ほっと息を吐くと、静かに目を閉じた。
「次で最後にしないとね……」
滝霊王が、水の壁の向こうにいる水虎を見据えながら言う。
大妖の二人が、こんなにも苦戦しているのだ。
長引かせると、それだけ不利になる。
しかし、自分達には大きな作戦があるのだ。
これを実行すれば、水虎は完全に倒さずとも良くなる。
「滝霊王さんっ。あの、清から神降ろしの事を聞きました。それで、皆と話し合ったんですけど……」
峻生に話したように、先に神降ろしをして雨気払いを願い、水虎や辻の魔を供物として捧げる計画を説明する。
「じゃあ、水虎は弱らせるぐらいでいいね」
反対されるかと思ったが、滝霊王の反応はさっぱりとしたものだった。
「反対しないんですか?」
「……しても無駄なんじゃない? 皆で決めた事でしょ? それに、倒すより弱らせる方が楽だしね」
「この策で一番辛いのは、あきだ」
峻生が目を開いた。
声にも力が戻ってきている。
息遣いも安定して、怪我が治っていくのが目に見えて分かった。
こんな短時間で、すごい治癒力だ。
「神降ろしは手伝うからいいとして、辻の魔……闇からおびき寄せるって相当だよ?」
「正直、とても怖いです。でも、これが最善の策だと思うから。辛くても、僕……頑張ります」
改めて決意を表明する明人の体に、峻生は頬を寄せた。
「俺達も負けずに頑張らないとな。滝王。最後の合わせ技だ。これで絶対に終わらせるぞ」
「一発で……? 微妙な所だね」
「これまでのも、それなりに効いてる。思いきり力をぶつけて、動きを奪う程度に弱らせるなら、確実にいけるだろう」
そう言いながら、峻生はすぐに水虎を迎え撃とうとしていた。
「峻生さん、怪我は!?」
「治った、治った!」
随分と軽い口調だ。
「ちょっと峻生さんっ」
いくら大妖とはいえ、治るのが早すぎだ。
無理を重ねているに違いないのに。
しかし、峻生は血に濡れた脇腹が、なかったかのように力強く立ち上った。
「よし、いいぞ」
明人の心配をよそに、二人の大妖は笑顔で頷いた。
「消すよ」
滝霊王の声と共に水の壁が消える。
先程よりも勢いを増した鉄砲水から飛び出すように、水虎がこちらに突進してくるのが見えた。
黒い毛を振り乱して、凄まじい速さで。
「あ……」
その迫力に思わず後退りしてしまう。
峻生は怯える明人の傍に寄ると、迫りくる水虎に全神経を注ぎ始めた。
「もう少し引き寄せる」
小さな峻生の声に、首肯する滝霊王。
どんどん距離を詰めてくる水虎に、時機を待っていると分かっていても恐怖が募る。
明人はぎゅっと白い毛を掴んだ。
「あと少しだ……」
水虎が自分に向かって唸っているのが分かる。
汚い黒い毛の隙間から鋭い視線を感じて、視線を逸らしたいのに少しも目を動かせない。
来る、来る――。
水虎がものすごい勢いで地を蹴り、こちらに飛びかかってくる。
「……っ峻生さん……!」
明人の声と同時に、滝霊王の妖力が水虎を一瞬で包んだ。
強力な妖気は大きな水泡になって、水虎の体を包囲する。
「水虎が……」
滝霊王の水気に囚われた水虎が苦しそうにもがいている。
「水の中で大人しくしとけよ」
峻生が最大限に妖力を高めていく。
「これで最後だ……っ!」
周囲が眩しいぐらいに光る。
大妖怪鵺の力が炸裂して、強力な雷が丘の上に現れた。
それが、もがく水虎に容赦なく落とされる。
「わっ……!」
雷に打ち抜かれて、黒い毛の塊が強烈な悲鳴を上げた。
水泡の中で鵺の妖気が暴れ回り、水虎が醜くのた打ち回っている。
「目を逸らしておけ」
目の前の惨状に、峻生が長い尻尾で明人の視界を覆う。
「……大丈夫。ちゃんと見るよ」
明人は伸ばされた尾に触れた。
今から神降ろしをして、水虎達を供物にするのだ。
これぐらいで、目を逸らしておく訳にはいかない。
水泡の中で執拗な雷撃を喰らった水虎の力が徐々に弱まって、丘を上がってきていた鉄砲水が消えていく。
しかし、それを待っていたように、大量の水妖と河童が丘を登ってくるのが見えた。
「わずらわしいね」
滝霊王はそれらを一瞥すると、わずかに手指を動かした。
再び水の壁を出現させ、地をくぐって距離を縮めてくる河童を、妖力でなぎ払う。
「峻生。そっちは任せたよ」
「ご期待通りに」
鼻を鳴らした鵺が、静かに明人の傍から離れる。
「絶対ここを動くなよ」
峻生の瞳に闘志が漲っている。
水虎と決着をつけるのだ。
あの、狂った毛むくじゃらの化け物と――。
「峻生さん……っ」
つい、引き止めるように、鵺の豊かなたてがみを掴んでしまう明人に、峻生は優しく声を出す。
「心配無用だ」
「……っ」
心が苦しい。
言葉が出なくて、どうにか頷いた明人に頬擦りすると、大妖鵺は水虎に向かって走っていった。
対抗するように、水虎ももがき抜いて滝霊王の水泡をぶち破ると、峻生と対峙する。
「そろそろ準備するよ」
鵺と水虎の最後の戦いを心配そうに見ていてる明人に向かって、滝霊王が手を差し出した。
「櫛を」
「は、はいっ」
これから神降ろしが始まる。
峻生に水虎に周囲の水妖達に、それから雨師に。
心があらゆる方向に引っ張られて、明人は目が回る思いがした。
焦って、から回る手で小袋から櫛を出して渡すと、滝霊王がそれを掌に乗せて軽く握りしめた。
「これから雨師を呼ぶ。水妖達も払い続けるけど、万全じゃなくなるから気をつけて」
「わ、分かりました」
表情を強張らせる明人に、滝霊王は優しく微笑んだ。
「緊張しなくても大丈夫。雨師は降りてきたら、大きな声で願いを伝えるだけ。辻の魔をおびき寄せるのは辛いと思うけど、絶対喰わせないから心配しないで。……明人なら全部成功する。保証するから。頑張って」
「滝霊王さん……」
翡翠色の瞳が温かく強い光を宿して、明人の心に勇気を与えてくれる。
名を呼んでくれたのは初めてで、嬉しくなった。
何もかもが上手くいく。
心から、そう思えた。
「……ありがとうございます。僕、一生懸命頑張るので、よろしくお願いします」
表情から強張りが消えた明人に穏やかに頷くと、滝霊王は櫛に少しばかりの水気を注ぎ込むと、小さく祝詞を唱え始めた。
神降ろしに集中しているように見えるが、変わらず襲ってくる異形達も倒してくれている。
どれだけ負担になっているだろう。
――ああ、僕に少しでも特別な力があれば――。
平凡な自分に対して、何度も思う。
今だって、神降ろしに専念してと、胸を張って言えたら、どんなにいいか。
そんな明人の心の内をよそに、淡々と祝詞を唱える滝霊王の背後で、雷撃が地を刺した。
峻生に視線を移すと、無数の雷針で水虎を地面に張り付けて、鋭い爪を振りかざしていた。
ものすごい勢いで、鵺が水虎を追い詰めている。
きっと、猛烈にたたみかけて、短時間で弱らせるつもりだろう。
峻生と滝霊王の姿を交互に見やって、己の無力に歯噛みする。
――違う。そうじゃない。何をやってんだ、僕は。
明人は、もどかしさを感じている自分を叱咤した。
特別な力なんて、無いものを求めてどうする。
――僕の役目は、辻の魔をおびき寄せる事と、雨師に願いを伝える事。
その役目を全うする為に、皆を信じて時機を待つんだ。
決して僕は役立たずじゃない。この計画は絶対に成功させるんだ――。
濃い雨気が丘を覆いつくし、本格的に雨が降り始めた。
水虎が一緒に雨気を連れてきたおかげで、雨師を呼ぶ地盤づくりが上手く進んでいる。
瞬く間に量を増やす雨が、体を重くする。
滴を零し始めて邪魔になった前髪を掻き上げるが、大量の雨で視界はどんどん閉ざされていく。
峻生達の姿も雨に遮断されそうになり、懸命に目で追っていると、土の下から、くぐもった声がした。
よく聞き取れなかったが、水妖達ではないようだ。
「おいっ! 滝霊王、入れてくれ! 早くっ!」
よくよく聞いてみると、それは魃鬼の声だった。
「魃鬼っ!?」
祝詞を途切れさせる事なく、滝霊王も驚いたように地面を見る。
明人達から数メートル離れた所で、ぼこりと大きく土が膨れた。
この下に魃鬼がいるようだ。
滝霊王が地を抑圧している力を緩ませたのか、すぐに中から土だらけの妖怪が飛び出してきた。
その姿、三つ――。
「あきっ。心配しておったぞ! 無事でなによりじゃ!」
雨に濡れながら、地面から出た茶色い体が駆けてくる。
千徳だ。
河童に捕らわれて消えてしまっていた大貉だ。
「千徳さんもっ!! 無事でよかった!」
明人は土と雨でドロドロになった千徳を強く抱き締めた。
突然消えて、無事を祈る事しかできなかった千徳と、再び元気な姿で会えた。
明人の全身が安堵と喜びに包まれる。
「魃鬼と清も……! よかった……本当によかった……」
千徳を抱き締めながら、雨に紛れて涙をこぼし始めた明人に、二人の妖怪は申し訳なさそうに苦笑した。
「ごめんな。心配させた」
「力不足で、明人くんに悲しい思いをさせちゃったね。ちゃんと守れなかったし、本当にごめんね。明人くんこそ、無事で安心したよ」
明人は泣きながら首を横に振った。
二人は全力で明人を守ってくれたのに、謝罪なんて全く必要ない。
「みんなと無事に会えて、それだけで心の底から嬉しい……」
「ふふん。わしの手柄じゃぞ! 河童に捕まったふりをして、地に潜って二人を助けて、わしの力で弱った体を癒したのじゃ!」
明人の胸の中で千徳が得意げに声を張る。
「いやいや、本気で捕まってたじゃん」
魃鬼がすかさず突っ込む。
お決まりの流れだ。
「早速だけど。雨師を呼んでる途中だから、周りを頼んでいい?」
滝霊王が早口に言う。
数を増やし続けている水妖と河童は、ずっと滝霊王が完璧に退けてくれている。
「おお、滝霊王! 今から頑張りどころじゃの! わしらに任せておけ!」
「よろしく」
短く言うと、滝霊王は軽く目を閉じて、神降ろしに集中し始めた。
「いくぞ! 二人共、もう戦えるであろう?」
明人の胸を飛び出しながらの千徳の問いに、魃鬼と清が頷く。
「だ、大丈夫なの!?」
千徳が二人を癒したと言っていたが。
妖力と体力をかなり消耗していたのに、もう戦えるのか。
魃鬼と清は、明人の問いに笑顔で返すと、すぐに水妖達を妖力で弾き始めた。
大妖二人と同じように、治癒力は高いのだろう。
けれど完全に治っている訳はない。これは峻生と滝霊王もそうだ。
皆の体の負担を減らす為にも、己の役目が回ってきたら迅速に全うしないと。
雨足が強まる丘の上で、明人が己の役目を待ちながら戦いを見守る中。
滝霊王は小さく祝詞を唱え続け、千徳達は水妖と河童を連携して倒している。
そして、鵺は。
峻生は、何度も激しい雷撃で水虎を狙い撃ち、鋭い爪を黒い毛だらけの体に食い込ませていた。
一見して、峻生が優勢のようだ――。
そう思って少し安堵した刹那。
水虎の放った無数の水の刃が鵺の体を掠めて、明人は小さく悲鳴を上げた。
「あんなもの当たらん。かなり水虎は弱っておる……もうすぐじゃ」
動きが鈍くなってきている水虎を見て、千徳が言う。
攻撃を避けながら水虎を追い詰めていく鵺の姿を、明人は祈るような気持ちで見つめた。
――どうか、これ以上怪我をしないで――。
視界が閉ざされそうな雨の下。
しつこく雷に打たれ続けていた水虎が、とうとう膝をついた。
「あ……水虎が……!」
地にへたり込みそうになった水虎を前に、峻生が一呼吸置く。
これで水虎は、もう動けまい。
明人も無意識に詰めていた息を、ゆっくりと吐きだそうとしたが――。
一瞬の隙を突いて、水虎が猛烈な勢いでこちらに向かってきた。
そんな――!
あんなに弱っているのに。
血をしたたらせながらの壮絶な様相に、明人は恐怖に体が硬直する。
瞬きすら出来ないほどの強い執念。
もう己の野望は潰えていると分かっているだろうに。
せめて人間の明人を命を巻き添えにと思っているのか。
最後の妖力を集中させ、こちらに突進してくる。
そのおぞましい水虎が、雨の中ではっきりと姿を現した時。
全てが光の中に消えた。
眩しい。
あまりの光量に目を細めた明人の前で轟音が響き、凄まじい雷が水虎を貫いた。
強い衝撃に、明人はその場で尻をつく。
こんな強烈な雷撃を受ければ、もう動く気力すらなくなるだろう。
落雷の余波が去り、辺りが雨一色になる。
「峻生さん!? 峻生さんっ!!」
立ち上り何度も呼びかけるが、何の返事もなく声が雨の中へ吸い込まれていく。
たまらず峻生のいた方に駆け出そうとした時、強く腕を掴まれた。
「ここを動くなって言っただろ?」
「峻生さんっ!」
振り返れば、人間の姿に戻った峻生が立っていた。
「怪我は……怪我はしてない?」
新しい怪我はないようだが、先程の出血で着物の腰辺りに染みている赤色が痛ましい。
「もちろん。あんなに熱心に見つめられたら、かすり傷一つ作れないしな」
「え……?」
強い雨に似合わず、茶目っ気たっぷりに笑む峻生。
あんな戦いの中で、明人の視線にも、ちゃんと気付いてくれていたのか。
「水虎はもう……?」
「ああ。毛一本動かせないぐらいにしてやったから、あとは供物にするだけだ」
峻生の視線を追って目を凝らすと、完全に意識を失った毛の塊が、地に伏して静かに雨に打たれていた。
今回の諸悪の根源である水虎が力尽きたのだ。
これで沢山の妖怪が餌食になる事も、櫛が悪用される事もなくなった。
けれど、まだ終わりからはほど遠い。
「そろそろか。雨師が降りようとしてきてるな……」
峻生は険しい表情で空を見上げた。
滝霊王は、一心に祝詞を唱え続けている。
水妖達は、長であろう水虎が倒された事に気付いていないのか。
こちらへの攻撃を緩める様子はなく、千徳達が変わらず雨の向こうで遮ってくれていた。
「これからが、あきの大仕事だ。辻の魔をおびき寄せて、闇から引きずり出せるぐらいになったら、俺が縛り上げる。その頃には雨師が降りて来てるだろうから、あきは空に向かって大声で願いを伝えてくれ。そうすれば、雨気と水虎達とは、永遠のお別れだ」
「うん……」
ついに、この時がやってきた。
全てが計画通りに進み、神降ろしも順調だ。
後は辻の魔を、この場に呼べば準備は完了する。
あの恐ろしい辻の魔を――。
最初に小さな辻で襲われてから、何度も明人を苛んだ不安と絶望。
闇から引きずり出せるぐらいにおびき寄せるには、どれだけの恐怖に身を投じないといけないのか――。
いや、考えてはだめだ。
皆がいてくれるのだ。
己は耐えればいいのだ。
ただそれだけ。
大丈夫。大丈夫。
心の中に広がる怯えを必死に抑えていると、峻生に優しく抱き寄せられた。
「明人……俺の体温、感じるか?」
ぎゅっと抱き締められて、二人の体に隙間がなくなる。
雨に濡れて体は冷えきっているが、その奥から峻生の温もりを確かに感じた。
「うん……感じるよ、峻生さん。温かい……」
己を包んでくれる温かく逞しい体に、明人は腕を回した。
「これだけは心の中心に置いておいてくれ。俺は絶対に明人を離さないし、一人にしない。ありえないが、もし辻の魔に喰われたとしても俺が一緒だ。いいな?」
明人は回した腕に力を込めながら頬を緩めた。
「大妖の峻生さんが辻の魔に食べられるなんて、それこそありえないよ」
「あきの隣は誰にも譲らないからな。それが魔物の腹の中なら喜んで飛び込むさ」
峻生が微笑み、紺碧の目が穏やかに細められる。
明人は、心がぎゅっと甘く絞られるような気持ちがした。
峻生の大きな優しさが、深い愛情が、明人の身体を満たしていく。
「峻生さんがずっと隣にいてくれるなんて、とても幸せだ……恐怖とか不安とか、感じてる暇なんてないね」
明人は鳶色の瞳を潤ませ微笑んだ。
峻生の傍ににいれば力が湧いてくる。
心が希望に包まれるのだ。
「当然だ」
そう言って優しい表情をすると、峻生は明人の両肩に手を置いた。
「じゃあ始めるか……腰を下ろして、ゆっくり目を閉じろ」
「はい……」
始まった。
これから自分は辻の魔をおびき寄せた後、雨師に願いを伝えねばならない。
絶対に失敗できない。
大切な役だ。
無力さに情けなさばかりが募っていた自分が、やっと皆の役に立てる時がきた。
――何が何でも成功させないと――!
明人は峻生と共にゆっくりと腰を下ろすと、目を閉じた。
軽く瞼を下ろしただけなのに、周囲が異様なまでの重い闇一色になる。
そう。知っている。
ずっと目を逸らしていたけれど、辻の魔の闇はいつも明人と共にあった。
これが呪だ。
明人の命を飲み込もうとする呪い。
少しだけ闇に意識を向けてみれば、急速に不安や恐怖に包み込まれる感覚がした。
「あ……ぅっ」
「あき。俺も感じる。大丈夫だ。おびき寄せる為に、少しずつ触れていくからな」
声もなく頷いて、峻生の腕にしがみつく。
峻生の温もりが、不自然に体から消えていくのを感じて、ぎゅっと唇を引き締めた。
不安が、恐怖が、死への絶望が、瞬く間に心を侵食していく。
「た、峻生さん……」
体が震える。
唐突に闇に突き落とされたような恐怖と孤独。
大丈夫だ。何も心配いらない。
峻生さんがいる。
どんな時も傍にいる。
約束したではないか。闇に堕ちても二人一緒だと。
分かっている。
分かっているのに。
――嫌だ、どうしよう。怖い、怖いよ――っ!
一人だ。誰もいない。
孤独で絶望しかない暗闇――。
違う。そうじゃない。
峻生はいつも隣にいてくれる。
ずっと傍に。
ああ、でも――。
「あき、明人。俺も闇の中にいるからな」
「たかおさ……くらいよ……くるしい……こわいよ」
「あき……っ」
涙を流して絶望の淵へ立つ明人を、峻生は強く抱き締めた。
辻の魔をこの地への顕現させるには、まだ闇に心を落さなければならない。
魂を削るような恐怖と絶望が続くのだ。
峻生は己の温もりを少しでも与えられたらと、震える背を撫でる。
流れる涙に唇を寄せたが、明人は気付かなかった。
「峻生さんいる……? ぼく……一人じゃない?」
「ずっと傍にいる。ずっとだ」
今までにない恐怖。
絶望が全身を包んでいく。
峻生の温もりは消えてしまったが、声だけは、はっきりと明人の元へと届いている。
――惑わされるな。怖くない。怖くないんだっ。峻生さんはすぐ隣にいてくれるんだ――!
誰もいない暗闇の中で、明人は必死に己の心を叱咤する。
優しい峻生の声だけが、惑う明人の心を絶望からすくい上げていた。
「雨師様……!」
辻の魔の闇と相対している明人達の横で、神降ろしが続く。
清の声に、千徳と魃鬼が空を見上げた。
雨雲の奥がほのかに光り輝き、粒が痛いぐらいに雨が勢いを増していく。
もうすぐ雨師が降臨する。
水妖達は水虎が倒された事に気付き始めたのか、丘の周辺で混乱状態になっていた。
「た、峻生っ……あきは、辻の魔は――」
まだ諦めていない少数派の水妖達に妖力をぶつけながら、千徳は峻生に顔を向けた。
「……辻の魔も、もうすぐだ」
明人を抱きかかえながら、峻生は足元にある濃い影に意識を集中させた。
少しずつ闇が濃くなり、大きくなる。
「たかおさん……たかおさん……」
明人は奥歯を鳴らしながら、何度も峻生の名を呼んでいた。
孤独感に心を支配されそうになる。
闇が一層濃くなり、辻の魔が近付いてきているのを全身で感じた。
「つ……つじのまが……」
「明人。あと少しで辻の魔を捕まえられる。もう一歩、闇の中で俺と頑張ってくれ」
落ち着いた低い声が、冷えた心に沁みていく。
「うん、うん……がんばる……」
明人は峻生の体温を必死に感じようとした。
孤独感は、ただのまやかしだ。
僕の傍には、峻生さんがいてくれる。
そして、皆も一緒に頑張っているのだ。
だから、もう一歩。
勇気を出すんだ――。
大きく広がった恐怖を、明人は心の中で睨みつけた。
行くよ――!!
明人は、恐怖と絶望の濃い闇の中心に飛び込んだ。
「来たっ」
影が伸びて明人を喰らおうとする。
その瞬間を逃さず、峻生が妖気で辻の魔を縛り付けた。
闇に堕ちた元神達は悲鳴を上げ、必死にもがくが、鵺の強力な妖力には敵わない。
「明人。辻の魔は縛った。もう闇はない。目を開けてくれ……」
雨と涙に濡れる明人の頬を、峻生が何度も撫でる。
「た、かおさん……」
重い瞼をゆっくりと開ければ、間近に峻生の顔があった。
身体を覆っていた恐怖感が嘘のように消えて、大きな手が明人の頬に触れている。
そして、しっかりと逞しい体に支えられていた。
「あ……」
温もりが戻ってきた。
明人は、まだ上手く力の入らない腕で峻生に抱きついた。
「頑張ったな、あき」
「ありがとう……峻生さん」
明人は目の前の影を見た。
峻生の妖力で縛られ、草の上で、もがいている闇の塊。
明人の命を喰らおうとしていた魔物。
これで七日の命に怯える事はなくなったのだ。
怖かった。
覚悟をしたつもりでいたけど、そんな思いなど踏みつぶすような闇の力だった。
本当に死ぬかと思った。
でも、峻生が傍にいてくれたから、どうにか耐えられたのだ。
紺碧の瞳と見つめ合うと、達成感が胸に押し寄せてくる。
だが。
まだまだ安心している場合ではない。
「辻の魔は!? 雨師様、降臨されるよ!」
濃い雨の向こうから清が叫ぶ。
これからもう一仕事。
雨師に願いを伝える大事な役目が残っている。
「辻の魔は完全に縛ってある。あとは雨師待ちだ!」
峻生の言葉に、皆が空を見上げた。
水虎に、手下の水妖達に辻の魔。
そして異常な雨気。
準備は全て整った。
あとは雨師に雨気を払ってもらい、供物として水虎達を捧げるだけだ。
「峻生さん……僕、できるかな……」
ほんのりと光る空を見上げる。
立ち上る明人に手を貸して、峻生は隣に寄り添った。
「辻の魔に打ち勝てたあきに、出来ない事はないさ。絶対に成功する」
「……うん」
空が鳴る。
轟音と激しい雨が丘の上を駆け巡って、大きな存在の到来を知らしめた。
「来たな……。滝王っ! 櫛をこっちに」
「雨気……とんでもない事になったね」
土砂降りの雨に、滝霊王が苦笑する。
「とっとと終わらせて風呂に入るぞ」
青白い光を放っている櫛を、滝霊王から託される。
明人は両手で、それで包み込んだ。
「これで全部終わるな。あと、もうひと頑張りだ」
「峻生さん、滝霊王さん……。一番最後の大事な役目……頑張るよ……!」
櫛を強く握って、明人は気合を入れた。
これで全ての禍事とはお別れだ。
「あきっ! 微力ながら、わしもついておるからの!」
「千徳さん……っ!!」
雨で見えないが、千徳から声が届く。
まだ丘の上にいる無数の水妖達を、魃鬼と清も懸命に退けてくれている。
皆の為にも、きれいに全て終わらせなければ。
「さぁ、あき。雨師に願え。あきの言葉でいい」
「はい……」
峻生がしっかりと明人の背を支えた。
緊張で体が震える。
雨師への願いを。
飾らなくていい、自分の言葉で――。
土砂降りの空をゆっくりと見上げる。
空一面が何となく光っているが、雨師の存在は明人には感知できない。
けれど、大きな存在がこちらを見下ろしているような気がした。
明人は一度目をつぶると、大きく息を吸い込んだ。
「雨師様っ! お願いです。この大きな雨気を取り去って下さい。供物として、ここにいる水虎と水妖と河童、そして辻の魔を捧げますっ!」
空に向かって全力で叫ぶ。
これで正しかったのか。
不安になりながら峻生を見ると、微笑みながら頷かれた。
きっと通じたのだろう。
急に強風が吹き荒れ始め、横なぶりの雨になる。
「あっ!」
濁る視界の中で、倒れていた水虎が、もがいていた辻の魔が、吸い込まれるように空に上っていく。
願いが届き、供物として受け取ってもらえたのだ。
激しい風雨に立っていられなくなってしゃがみ込むと、峻生が明人の体を包み込んだ。
「よくやったな。全部引き取ってくれたようだ」
耳の横で峻生が囁く。
「周りの水妖や河童達も?」
「ああ。大丈夫だ」
「良かった……」
溢れる安堵に、明人は峻生の胸の中で脱力してしまった。
「みんな、無事かな……?」
激しい雨と風が丘を襲っているが、明人は峻生に守られ温もりの中にいる。
「こんな風雨、何でもないさ。全員、無傷のようだしな。無事に終わったな」
明人は小さく頷いた。
「……怖かったけど、ずっと峻生さんが隣にいてくれたから頑張れたんだ。本当にありがとう」
「俺は傍で見守る事しかしてない。上手くいったのは、あきの強い意思のおかげだ」
低く穏やかな声。
肩を撫でる大きな手。
峻生の優しさに包まれて思う存分喜びを感じていると、あらゆるものが力を弱めていった。
強風が消え、雨が徐々に止んで。
全てを連れ去って、雨師が天へと帰って行く。
「お。やっと雨が止んだな」
峻生の胸の中から顔を出すと、丁度、木の葉から滴が落ちてきた。
明人の心を悩ませ続けてきた雨は、きれいに止んで。
滴を落としてきた木の向こうには、美しい青い空が広がっていた。
「雲一つない青空……久しぶりだね」
「そうだな」
明人と峻生は眩しい太陽に目を眇めながら、静かに空を見上げた。
全てが終わったのだ。
「あきっ、峻生! 無事か!? すごい風雨だったのぅ」
雨上がり。
空気の澄みきった丘の上を千徳が駆けて来る。
「千徳さん! 僕達は無事だよ!」
飛び込んできた茶色い体を慣れた手つきで受け止める。
濡れた千徳は随分と重く感じたが、それはお互い様だ。
「あき……よく頑張ったな。もう、おぬしの命を狙う者はおらん……良かった……っ」
「うん、うん……千徳さんも無事で安心したよ……」
「わしの事など、気にせずともよいのじゃ。わしは、あきの命が守れて……それだけでっ」
「ありがとう……千徳さんが助けてくれたおかげで、僕は生きてるよ」
感極まっている千徳をぎゅっと抱き締めていると、急に千徳の体が軽くなり、柔らかい毛が明人の手をくすぐった。
「ん?」
一瞬にして、己と千徳の体が乾いている。
それはもう濡れていたのが信じられないぐらいカラカラに。
この素敵な力は――。
「魃鬼っ!」
「お疲れ、あき」
声の方に視線を向けると、着ている水干は随分とボロボロになっていたが、太陽より眩しい笑顔を見せる魃鬼が立っていた。
その後ろには、同じく白張をドロドロに変色させた清が、柔和な表情でこちらを見ていた。
「清もっ!」
明人は千徳を胸に抱いたまま、二人に駆け寄った。
「明人くん、お手柄だね!」
「うん。って、ずっと峻生さんや滝霊王さんに助けてもらってたけどね。成功して安心したよ」
明人は、魃鬼と清にも深く礼をした。
二人がいなかったら、明人の命はなかった。
とっくの昔に、水虎に捕まっていた事だろう。
「二人が命懸けで逃がしてくれたから……僕、一人じゃ何も……っ」
明人は震える唇を手で押さえた。
皆が無事だった安心感と、全てが成功した安堵感に胸が詰まり、涙が溢れてくる。
峻生と滝霊王が水虎と戦っていた時。
明人の為に全力で盾になり、妖力を使い果たしていく魃鬼達に、何もできなかった時。
悲しくて辛くて、自分を責める事しかできなかった。
でも、どうにか無事に全てを終わらせて、己の役目を全うできた。
皆の曇りない笑顔に囲まれ、己の命はもう脅かされない。
「ほ、ほんとに……よかった……っ」
嗚咽を漏らしながら言葉を紡ぐ明人に、皆が穏やかな表情を浮かべた。
「激しい嬉し泣きだね」
滝霊王が笑いながら言う。
「あきは泣き虫なんじゃ」
「ち、ちがっ……」
普段は、そんなに泣かない。
この騒動が、そして優しい皆が、明人の感情を揺さぶるのだ。
そんな事を口にしようとするが、涙が邪魔をして上手く話せない。
ああ無理だ。
泣き止めない。
これでは完全に泣き虫だ。
自分の今までの認識を改めねばなるまい。
そう思いながら感情のままに泣き続けていると、頭がぐらりと傾いた。
「んっ……!?」
軽い眩暈がして峻生に体を支えられた。
「体に負担がかかり過ぎたな」
そう言われると、体の芯が非常に重くなってくる。
この感覚には覚えがある。
千徳と魃鬼と共に、滝霊王の屋敷に行った時の疲労感だ。
「ま、また……。ごめん、峻生さん」
「これだけの事をして疲れない訳ないだろ。俺達だって疲労困憊なんだから」
「でも……」
眉根を寄せて落ち込む明人の胸から飛び出ると、千徳は宙に浮いた。
「何も気にせず、ゆっくり休め。おぬしの活躍で水虎の野望を阻止できた上に、異常な雨気も消せた。さすがは、わしが目を止めた人の子じゃ!」
「いやいやいや。何で、爺のお目が高いみたいになってんだよ」
魃鬼が、千徳の尾をモフモフといじりながら言う。
「明人くんが他の人と違うのは、大概の妖怪なら分かるよね」
清も一緒に尾をいじり始める。
「わ、分かっておるわ! けど、最初にあきを助けたのも、目を惹かれたのも、わしじゃ!」
千徳は尻尾を振って、二つの手を振りほどいた。
「あき。しっかり休んだら、わしと温泉じゃ!」
「いやいやいや。何で、お徳ちゃんとあきが二人で温泉になってんだ」
今度は、峻生が千徳の尾をモフモフといじる。
絶対に温泉に行くと騒ぐ千徳に、明人は笑った。
「楽しみだね。皆で行こうよ」
「行きたい」
「は!? 滝王もかよ」
滝霊王までもが涼しい顔で参加を表明して、峻生は苦々しい表情になった。
そんな文句を言いたげな峻生の手を、明人はそっと握った。
これから先、二人で温泉なんて幾らでも行けるのだ。
七日の命ではなくなった今、明人の時間は、これから先も続いていくのだから。
千徳がどこの温泉がおすすめだの、効能が最高だのと話しているのを聞いていたら、お馴染みの眠気が明人を襲ってきた。
嫌だ。
全て解決したとはいえ、こんな中途半端な所で寝たくはない。
また、迷惑をかけてしまうではないか。
お風呂なんて贅沢は言わないから、せめて横臥できる場所まで持ち堪えたい。
そう思うのに、ゆったりと意識は解けていく。
「眠くなってきたか?」
峻生の問いに、明人は首を横に振って抵抗する。
顔をしかめて眠気と戦う明人に、峻生はうららかに笑った。
「抵抗しても無駄だって。いいから眠れよ。俺がちゃんと運んでやるから」
「……そ、んな……めいわ、く……」
全く滝霊王の屋敷の時と同じだ。
寝たくない。
少なくとも、ここでは寝たくないのに――。
内心の抵抗空しく、明人の瞼は落ちていく。
峻生に横抱きにされた事にも気付かずに、明人は再び眠りの谷の底へと旅立って行った。
「しばらく起きないだろうね」
峻生の腕の中で、可愛らしい寝顔を見せて眠り始めた明人を、滝霊王が上からのぞき込む。
「水妖達に追われ続けて、明人くん、ずっと頑張ってくれてたから……」
「邪気にも当てられて、かなりしんどかっただろうにな」
清と魃鬼も、明人の寝顔を見て安心したように続けた。
「上手く事が運んで……何より、あきが無事に命を繋げたのも皆のおかげじゃ。礼を言うぞ」
宙に浮いたまま、千徳が頭を下げる。
「一時はどうなる事かと思うたが。非時香果も不要になって助かった」
「だろうな。普通に非時香果を探す事になってたら、誰かさんのせいで、あきが絶望する所だったし」
ニヤニヤしながら、九百年も前に非時香果を食べてしまっていた峻生を見る魃鬼。
「まさか九百年後にこんな流れになるなんて想像できないだろっ。結果的には不要だったし、終わりよければ全てよしってやつだ」
峻生は明人を抱えなおしながら言葉を続けた。
「最初はあきの命を救うって話だったが、こんな大事になるとはなぁ。久しぶりだ。これだけ妖力を使ったのは」
「うむ。水虎がこんな馬鹿げた事をしでかすとは思わんかった。本当にどうかしておったのぅ。あの肥大した妖力では満足せずに、神降ろしまでしようとしたとは……異常な欲じゃ」
「理性が飛んでたしな。そもそも、あいつは妖力を肥大させて耐えられる器じゃない。そうとう初期の段階で、思考停止になってたはずだ。本人は予想外だっただろうが」
「うわっ。じゃあ、本気で妖力お化けになってたって事か。本当、無事で良かったわ~」
「雨師様は、変なものを押し付けられたって、今頃困惑してるかも」
清が苦笑した。
「供物として捧げられた後はどうなるのじゃ?」
「ん~。その時々で違うけど、悪い魂だと雨師様の元で更正させられたり、死者の国に送られたり。水虎は死者の国へ飛ばされちゃいそうだね。辻の魔は……どうだろう。元神様だしね。その辺は、ぼくもよく分からないな」
「死者の国か……。まぁ、あんなもん、自分の側には置きたくないよな」
峻生が汚い毛むくじゃらを思い出して、気持ち悪そうに言う。
その言葉に反応するように、明人が眉根を寄せて身じろぎした。
「おっと。いい加減、あきをちゃんと寝かせてやらないとな」
「オレも、さすがに体がもたねぇわ」
「うちの近くに、癒しの効果がある霊泉が湧いてるよ。浸かれば?」
「マジ!? 行く行く!」
滝霊王の言葉に、疲れを見せている面々は頬を緩ませた。
「あきはうちで休ませる。俺もだが、集中して癒してやらないと、かなり体力を消耗してる」
「なんじゃと!? じゃあ、わしもついて行こう」
「やめてくれよっ! お徳ちゃんは滝王の方に行けって!」
本気で嫌がる峻生に、一斉に笑いが起きる。
それにつられて、明人の寝顔も一段と穏やかなものになったようだった。
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