其の一

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其の一

宮下(みやした)ぁ。ビニールハウスの資材のやつ。先方が待ってるから、見積もり早めにな」 そんな事、分かっている。 「宮下さん。来週の会議、新しい資料が共有フォルダにあるので。資料をチェックするのって、宮下さんでしたよね?」 そんなもの、そっちでチェックしてくれ。 「宮下く~ん。つかや運送がさ、明日の肥糧の配送の件で連絡欲しいって。ちょっと遅れるかもって言ってた。担当が席外してるらしいから、三十分後ぐらいに電話よろしく」 は? 「お。つかやに電話するなら、ついでに板ガラスの件もよろしく」 おい。ふっざけんな。 体は一つしかないんだぞ! 同時に仕事を回してくれるな! んがぁっ! 宮下明人(みやしたあきひと)は、狭い営業所の中で、子供のように喚き散らす自分を想像した。 もう何もやりたくないし、何も知らない。 周囲の空気など読まずに、手足をばたつかせて。 涙も浮かべてやろうか! うぉぉぉぉぉ!! やだやだ!! このやろう! ……なんて。 なんてね。 明人は周囲に分からないように、そっとため息を吐いた。 もちろん、そんな事を実行する勇気はない。 ただの現実逃避だ。 出勤したら時空が歪んで職場が消滅してないかな、とか。 パラレルワールドへの冒険が始まって仕事どころではなくならないかな、とか。 そんな子供じみた想像シリーズ。 「……倉庫に行ってきます」 喉元までせり上がってきたムシャクシャを飲み込むと、明人は椅子を軋ませ立ち上った。 壁にかけている作業用の上着とヘルメットをのろのろと着用して。 アルミ製の安っぽい営業所のドアを開ければ、どこを向いても山、山、そして田んぼ。 のどかで牧歌的で空気がきれい。なんて言えば聞こえはいいが。 ようはド田舎。 山と田んぼと山と田んぼの間にある物流会社の小さな営業所。 それが明人の職場だった。 「さむっ……」 冷たい空気が体を撫で、営業所の向かいにある倉庫までの短い距離を肩を縮ませ歩く。 もう目をつむって進んでも支障がないと思うぐらい慣れた道のりだ。 気付けば社会人も三年目。 瞬く間という表現がぴったりの日々だった。 二十五歳。 年齢を明かせば、楽しい時期だと周囲の人は言う。 何でも挑戦できて、毎日が若さ溢れる素敵な年頃だと。 だが、明人はその言葉を実感した事はなかった。 毎日、家と職場の往復のみ。 特に趣味も、熱中している事もない。 人生=仕事。 自分でもどうかと思うほど、単純な等式。 これ程分かりやすいものはない。 ならば、人生そのものになっている仕事に、本気で取り組んでいるかと言われたら――。 YESと即答できない自分がいる。 嫌だ嫌だと現実逃避ばかり。 子供の頃にサラリーマンが主人公のドラマを観て調子よく思い描いていた――クールな姿勢で仕事に生きる男、宮下明人――というのはどこにもいない。 これから出会える気もしなかった。 「だめだなぁ~」 そんな胸中と同じようにくすんだ倉庫の窓の向こうでは、霧雨が山々を白くけぶらせている。 なかなか幻想的にも思える光景だったが、明人の心には新たなイラつきが湧いた。 今朝、目覚めた時は風雨だった。 そして、昨晩は土砂降り。 小雨が断続的に降り続く時もあったし、連日の宿雨なんて事もあった。 鬱陶しい湿気は雨と一緒に堅実に蓄えられ、全身が湿って濡れているような不快感が常につきまとう。 数日間はこの気持ち悪さと付き合っていた。 異常気象というやつだ。 梅雨時期でもないのに長雨が一週間ぐらい続いている。 天気予報は全く役に立たず、嫌気がさすほど雨ばかり。 梅雨の方が、まだ太陽を見る機会があると感じるぐらいだ。 今日も降り止む様子はない。 明日も。 それで、きっと明後日も。 何なんだよ。本気で。 雨に向かって真剣に悪態をつきたくなる。 明人は窓に背を向けて、手元の荷受伝票に視線を落とした。 これから倉庫に入荷予定の農薬の品名が並んでいる。 雨天の場合はいつもより荷卸しが面倒になるので、そろそろ準備が必要だ。 運搬に使うパレットを取りに行かねば。 数えきれないぐらい繰り返してきた荷受けの算段を頭に思い描きながら、フォークリフト置き場へと向かった。 良く言えば地域密着型、悪く言えば決して多くはない得意先との関係だけで経営を保っているような、弱小物流会社。 一応、営業職という立ち位置で仕事をしているが、そこは人員の足りない会社である。 経理業務の手伝いから倉庫番、それから発送物の梱包作業まで。あらゆる雑務が明人の仕事となっている。 理不尽だと思えばキリがない有様だが、空気を読まずに文句を言うのは子供の我儘と一緒だ。 安定した仕事に就けているのだから、有難く思わないと。 俗にいうブラック企業に勤めている訳ではない。 日常に空しさを感じるのは、贅沢というものだ。 そう。ただの贅沢な我儘。 明人は再び吐き出しそうになったため息を噛み殺した。 鬱々とした空模様と空気につられてか、この一週間は気分も湿っぽくなりがちだ。 早く晴れてしまえばいい。 しつこい雨も、曇る己の気持ちも。 せめて、空ぐらいは澄み渡って欲しかった。 「もう終わるか? 少しなら待つから、帰りは送るぞ」 パソコンの画面を見つめていると、同僚の重田から声がかかった。 定時に颯爽と帰宅する事務の女の子や、上司の背中を見送って数時間。 夜闇に包まれた窓の外は相変わらずの雨で、せまい事務所の中に残るのは重田と自分の二人だけになっていた。 徒歩通勤をしている明人にとって、車通勤である同僚の優しい申し出は普通なら有難いのだが。 「いいよ。まだ終わりそうにないし。声かけてくれて、ありがと」 明人は意識して顔を微笑ませ礼を言うと、パソコンの画面に集中するふりをした。 本当は、もう帰宅しようとしていたのだが。 「大丈夫か? いきなり雨足が強くなるだろ。この雨」 重田が嫌味なく気遣わし気な顔をした。 優しい男だ。 優しく、まっとうで誠実な同僚。 しかし、そのくったくのない優しさが、明人には直視できなくなっていた。 「平気。ひどい雨になっても、たいした距離じゃないし。まぁ、明日から晴れてくれるなら、土砂降りでずぶ濡れになるのも大歓迎だけど」 「晴れてくれるならな」 明人の軽口に重田が小さく笑う。 だが、実際は冗談を言っている場合ではなかった。 この異常な長雨。 来週もひどく降り続くようなら、県内のあらゆる交通機関に規制や遅滞が発生する可能性がある。 そうなれば多くの輸送計画が崩れ、対応に奔走する事となる。 クレーム処理に、輸送日程の調整。 考えるだけで、頭が痛くなる。 「来週から忙しくなるかもしれないし、早く帰れよ」 ドアに向かう重田に、明人は安堵した。 「了解。急いで終わらせる」 軽く手を振ると、重田は挨拶を残して夜雨の中に溶け込んでいった。 他人の目がなくなり、明人はぎゅっと背伸びをした。 ギシギシと年期の入った椅子が軋む。 今日は金曜日の夜。そして土曜日の当番出勤はなし。 本来なら、二連休の到来に気分が最高潮になるのだが。 長雨と休み明けの仕事を思えば、気が重くなる。 来週も続く雨を想定して、今の時点で対応可能な業務は粗方し終えたのだが。 それでも、しかし――。 だめだ。 天気なんて自分ではどうしようもない事を悩んでいても仕方がない。 今現在で出来る事はやった。 それでいい。 「よし、帰るか」 重田が言っていた通り、この謎の雨は強さを突然変える。 小雨で安定している内に一秒でも早く帰らねば。ずぶ濡れは冗談の中だけで結構だ。 急いで帰宅の準備をして立てつけの悪いドアに手をかけると、椅子と同じようにギシリと嫌な音が暗い中に響いた。 当社は建物も備品も筋金入りのポンコツだ。 「つめたっ……」 鍵を閉めて一歩外に踏み出すと、細かい雨粒が頬を刺した。 上着を着てくれば良かった。 薄っぺらい安物のスーツは、冷たい雨風の侵入を容易く許してしまう。 ぶるりと身震いをして視線を上げた。 雨足は今のところ弱いままだ。 自宅に辿り着くまで、どうかこのままで。 願いながらビニール傘を手にした。 近所のコンビニで買った、どこにでもある傘。 この数年で何本目だろうか。気付いたら壊れていたり、どこかに忘れたり。 ビニール傘を使うようになって、扱いが随分と雑になった気がする。 入社してしばらくは高校生の時に買った紺色の傘を使っていた。 特に思い入れがあった訳ではないが、大きくて丈夫で、色褪せてきても気にしていなかった。 ――そうなんだよなぁ。あの傘……全く何も考えずに使ってたのにな――。 田を横を通り過ぎ、外灯が少ない住宅街の路地を早足で進む。 水たまりを避けながら進んでいたのに、足さばきを誤り、靴とスラックスが派手に濡れた。 「あー。汚れたか……」 不快感が足元から湧きあがる。 車で帰った重田は、もう自宅に着いて家族に迎えられている頃だろうか。 温かく優しい妻に。 そう考えると、濡れた足先が一層冷たく感じた。 同期の重田とは高校も同じだった。 そこまで仲良くはなかったが、同じクラスになった事もある。 入社してすぐに本社で顔を会わせた時は驚いたものだ。 お互いにド田舎の弱小物流会社に就職して、都会に出る甲斐性はなかったなと笑い合った。 そもそも、大学も地元であった明人は都会に出る気はなかった。 友人は就職を機に上京する者も多かったが、それを横目で見ながら地元での就職活動に勤しんだ。 都会に憧れや好奇心がなかったと言えば嘘になる。 しかし、人々の雑踏の中で生きるのは性に合わないと思ったし、何より生活の拠点を大きく変えるのが億劫だった。 冒険に出るよりも、変わらない生活を守る事を選んだのだ。 そして、入社時に笑い合った重田とは同じような境遇なのだろうと、何となく思っていた。 けれど、それは全くの勘違いだった。 重田は高校生の時から交際していた病がちな恋人の為に、ずっと地元での生活を選択していたのだという。 大学時代はずっと彼女を支え続けて、その甲斐あって少しずつ病状が改善し、もうすぐ結婚の予定なのだと、入社後しばらくして人づてに聞いた。 驚いた。ショックだったと言ってもいい。 色々な事を億劫がって、流されるようにふわふわと明人が生きている間に、重田は大切な恋人を慈しみ、支え、丁寧に時間を積み重ねていたのだ。 自分の不甲斐なさを突き付けられたようで、それまでのように笑い合う事に抵抗を感じるようになった。 そんな時だ。重田に傘を貸したのは。 少し色褪せた紺色の傘。 それを見て重田が言ったのだ。 懐かしい、と。 明人は覚えていなかったが、高校生の時にも傘を貸した事があったようだ。 微笑みながら、本当に懐かしそうにしている重田を前に、明人はひどくみじめな気持ちになった。 重田はただ思い出を口にしただけだ。それは分かっている。 けれど、恋人をずっと大切にして結婚もして仕事だって懸命に取り組む誠実な同僚に対して、自分は高校生の時から傘一つ変わってない。 そう思えて情けなくなった。 別に、人生なんて人それぞれ。比較なんて無意味だ。 それも分かっている。 ただ、自分は毎日通う場所が学校から職場になっただけで何も進歩がないのに、重田は様々なものを積み重ねて人生を進んでいる。 どうしても差を感じてしまって、胸から苦いものがこみ上げてくるようだった。 馬鹿だ。本当に馬鹿。 勝手に劣等感を覚えて、苦手意識を持つなんて。 心の底から馬鹿だと思うのに、重田と気軽に笑い合えなくなって。 あの傘も懐かしいと言われた日から使えずにいる。 色褪せていたからちょうど買い換えようとしていたのだと心の中で言い訳をして、それからずっとビニール傘だった。 「くっだらないなぁ……」 パラパラとビニールが雨を弾く音が続く。 少し雨足が強まっただろうか。 早く家に帰って、久しぶりに浴槽に湯を張ろう。 いつもはシャワーだけで済ませてしまうけど。 今日は冷えた体を芯から温めて、つまらない気持ちを溶かして消してしまいたい。 心がたっぷりと湯を湛えた風呂に捕らえられたと同時に、明人の足は路地の真ん中で止まった。 「あ……っ! お守り!」 雨に気を取られ、すっかり忘れていた。 明人は、慌てて通勤鞄の外ポケットから紅い小袋を取り出した。 所々が擦り切れた綿の紅い袋は、湿り気もなく掌に収まった。 良かった。祖母の大事にしているお守り。濡らしてしまっては一大事だ。 明人はスーツの内ポケットへと小袋を移した。 せっかく祖父母との関係は良好なのに。こんな事で不況をかうのはごめんだ。 幼い頃から盆と正月ぐらいしか顔を合わせなかった祖父母だが、ここ数年はよく会うようになった。 祖父母宅近くで明人が独り暮らしを始めたのがきっかけだ。 特に祖母は明人の事をよく気にかけてくれる。 親しい友人が都会へと去り、恋人なんて夢のまた夢というような地味なシングルライフを送っている明人にとって、身内が構ってくれるのは嬉しい事だったが。 どうしよう。 今晩、仕事帰りにお守りを返すつもりだったが、残業してしまった上に油断のならない雨。 祖父母宅までは歩いて十分もかからないが、もう気持ちは温かい風呂だ。 でも――。 明人は悩んだ末に、祖父母宅へと足を向けた。 少し心配事があったからだ。 この長雨の少し前ぐらいから祖父母がひどく気落ちしている。 それを明人が知ったのは数日前だった。 家の中で嫌な気配がしたり家鳴り続いたり。不穏な事が相次いでいるというのだ。 最初は気のせいと思っていたようだが、どうやら祖父母ともに感じているようで、明人宅に夕食を作りに来てくれた祖母はかなり怯えていた。 どうにかしてやりたいと思ったのだが、怪奇現象の対処方法なんて全く分からない明人には、神社でお払いというアドバイスしかできなかった。 それでどうにかなればいいが。 明人の家族はそろって霊感など皆無だ。 もちろん、祖父母も例外ではない。 全く感じないし分からないが、祖父母宅に霊的なものが居付いたという事だろうか。 そう考えると、背筋をゾクゾクと悪寒が這い上がってくる。 寝起きしている場所で、得体の知れない気配や音がする恐怖とはいか程だろうか。 ずっと祖母が大切にしているお守り。 不安な日々だからこそ身に付けていたいだろう。 前に小袋の中を見せてもらった事があるが、中には割れた桐の櫛の一片が入っている。 嫁入りする時に曾祖母から渡され、その時はすでに割れた欠片だったらしい。 大昔、雨乞いに使われていたとか何とか。 どうやら(いわ)れのある櫛のようだった。 欠片とはいえ歴史のある櫛だという事で、祖母はお守りにしてずっと身に付けていた。 それを明人の元に忘れるとは珍しい。きっと家での不気味な現象がよほど身に堪えているのだ。 謎の長雨と同じ頃に始まったらしい怪奇現象。雨が去れば消えてしまえばよいのだが。 続くようならば、本気で対策を考えねばなるまい。 祖父母宅に近付くにつれ、雨音が小さくなっていく。どうやら大雨に打たれずに到着できそうだ。 安心して点滅している外灯の下を通り、小さな辻を過ぎる。 ――あれ――? 明人は歩きながら強烈な違和感に襲われた。 汚れて蜘蛛の巣まみれの外灯の点滅。 ひび割れたコンクリートがわずかに盛り上がった辻。 おかしい。 今。たった今、辻を通り過ぎたはずなのに。 自分の足は、再び小さな辻の真ん中を踏んでいた。 胸の辺りが、すっと冷たくなった。疲れていて勘違いでもしてしまったのか。 しかし、まるでデジャブのような思い違い。ありえるのか。 激しい心臓の音に全身を支配されながら、足を進める。 「な、何で……?」 もう一度、辻を通り過ぎたのに――。 明人は信じられない気持ちで周囲を見回した。 「嘘……」 掠れた声が口から漏れる。 頭がぐらりと軽く眩暈を起こした。 まただ。 頭上には点滅する外灯。足元にはコンクリートのひび割れ。 今度こそ、きちんと辻を通り過ぎた。確実にだ。だが、明人は辻の真ん中に立っていた。 一体、どういう事なのか。 祖父母宅はもう目と鼻の先。 明人は恐怖を紛らわせるように走り始めたが、どれだけ行っても小さな辻から逃れられなかった。 何度も何度も。真っ直ぐ行っても、曲がっても。常に辻がある。 分からない。何が起こっているのか。 とうとう走る気もなくして、その場に立ち尽くした。 体が震え、足から力が抜けそうになる。 どうして、どうして――? 何故、突然こんな事に。 祖父母の家だけではなく、周辺でも怪奇現象が起こっているとでもいうのか。 分からない。何が起こっているのか。 どうすれば、どうしたら――。 「……助けをっ……!」 そうだ。周りは住宅だ。 大声を出せば届くかもしれない。 変人に思われてもいい。ここから抜け出せるのであれば何だって。 そう思い顔を上げて、明人は息を吸うのを忘れた。 真っ黒。 外灯以外、周囲の景色がなくなっていた。 「そ、んな……」 恐怖に歯が鳴る。 体が上手く動かなくなって、明人は震える手で顔を覆った。 「なに? なんで??」 住宅街にいたのに。 周りは人の気配がする家々でひしめいていたのに。 全ては何の痕跡もなく闇に消えていた。 辻に残された明人を、外灯の点滅が危うげに照らす。 ろくに動かない足で、もう一度辻を出る。 しかし、結果は同じだった。 「まさか……」 小さな辻に閉じ込められてしまったのか。 もう死ぬまで出られないのだろうか。 分からない。何も分からない。 自然と零れる涙に闇色の視界がにじむ。 怖くてたまらない。 拭う事を忘れた涙の滴が頬を伝い、地に落ちる。 その瞬間。 何の前触れもなく誰かが明人の足首を掴んだ。 「ひ……っ!?」 短い悲鳴と共に足元を見ると、黒い影、いや、黒い手が地から伸びて足首に絡んでいる。 「や、やめ、っ!」 振り払いたいのに、金縛りに遭ったように体が動かない。 だめだ。逃げたい。逃げたいのに。 ぞふり、と今度は地面から黒い顔が出る。 「……っ! っ!」 何度も何度も叫ぼうとするが、とうとう声まで出なくなった。 頬をとめどなく涙が流れる。 もう、やめてくれ。自分が一体、何をしたというのか。 「あ……っ」 しがみついてくる化け物が、ゆっくりと明人の体を上ってくる。 ――こわい、いやだ、誰か――っ!! あまりの恐怖に、思考が停止する。 「大丈夫かっ?」 「……!?」 闇の中、どこからか声がした。 女、いや男だろうか。老いて性別を忘れたような。 つまりは、お爺さんかお婆さんか判別がつかない声が耳に届いた。 「まずい事になっておるの」 不思議な声が近付いてきたかと思うと、ずしりと肩に重みを感じた。 柔らかい毛が首から頬に触れ、視界の隅に茶色の生物が現れる。 それに反応するように、黒い化け物が明人から手を離した。 「あ……」 きっと、この不思議な動物が助けてくれたのだ。 体も自由になり、声の主に目を向けると、肩に乗っているのは狸のような犬のような。 茶色い動物だった。 普通なら、しゃべる動物なんて悲鳴を上げて驚く所だが、今は状況がこれである。 何の抵抗もなく不可思議な動物の存在を受け入れた明人の前で、困ったような声が続いた。 「やっかいじゃのう。こやつらは辻の魔じゃ。おぬしを喰おうとしておる」 「つ、辻の魔? 僕を、喰う……?」 辻の魔。喰われる。 あまりにも耳慣れない言葉に、動物の声が頭に入ってこない。 「な、何で、そんなっ……うわっ!」 質問する前に、離れていた黒い手が再び伸びてくる。 化け物は一体だけではなくなり、明人と動物を囲むように地から出てきた。 「こんなに大量にっ!」 数えきれない黒い影。 辻の魔とは一体何なんだ。魔物なのか。 「喰われる心当たりは?」 「ないですよっ。つ、辻の魔? そんなものに関わりようがないですから!」 「ならば、たまたま、おぬしを気に入ったのか」 「き、気に入ったって、僕の何が……うわっ!」 足首に何本もの手が絡みついて、明人は声を上擦らせた。 動物が化け物を威嚇するが全く利いてない。 この動物に、本格的に辻の魔を退ける力はないようだ。 「まてよっ。えっと、そうじゃな……何か、何かあれば」 「わっ、手がっ……ど、どうすればいいんですかっ!」 「どうすればって……そんな事を言われてもじゃな……頭が真っ白じゃ!」 明人の肩に乗ったまま、茶色い動物が明朗に答えた。 「えぇ!? 真っ白って」 黒い影達はどんどん明人に迫ってくる。 「は、早くしないとっ」 「分かっておる」 動物がのんきに熟考しているように見えて、明人は声を大きくした。 助けてくれる気なのは嬉しいが、このままでは考えている間に喰われてしまうではないか。 「力では敵わんから、何か策を考えねばならんのじゃっ」 「それは分かってますけどっ! ひっ!」 黒い手が腰に絡みつく。 払い退けようとしたが、明人の手は化け物をすり抜けた。 「そうじゃっ!」 茶色い動物は肩から飛び跳ねると、宙にふわりと浮いた。 毛並のよいモフモフの尻尾が明人の目前でゆらりと揺れる。 「非時香果(ときじくのかくのみ)じゃ!」 ときじくのかくのみ? 何だそれは。 「この子の代わりに非時香果はいらんか? わしは在り()を知っておる。喰えば、人なんぞとは比べものにならんぐらいの精がつくぞ。どうじゃ?」 動物の提案に、化け物の動きがぴたりと止まった。 さっぱり分からないが「ときじくのかくのみ」というやつは明人を喰らうよりも価値があるようだ。 「人の子より非時香果の方が良いと思わんか? 今、この子を喰うのをやめれば、そうじゃな……七日以内にこの辻に持ってきてやろう。もし、わしが約束を違えれば、その時はこの子を喰えばいい」 逡巡している気配がある。 「この機の逃せば、二度と手には入らんぞ?」 動物の言葉に呼応したように、周りの空気が少し揺らいだ。 「あ……手が」 明人にまとわりついていた黒い手が消えた。 そして、急速に周囲の景色が戻ってくる。 古びた家々。 ひび割れたコンクリートの先に続く道。 側に転がる傘と鞄。 点滅する汚い外灯はそのままに、明人は歩きなれた住宅街の小さな辻の真ん中に立っていた。 「交渉は成立したぞ! さっすが、わしじゃ」 動物が宙に浮いたまま胸を張った。 「あ……ありがとうございます……」 小雨が明人の体をしっとりと濡らしていく。 その感覚にとてつもなく安心して、思わずしゃがみ込んだ。 良かった。本当に、本当に良かった。 あの恐怖の黒い影達から、逃れられたのだ。 「怪我はしておらんか?」 「大丈夫……です」 明人はふわりとアスファルトの上に着地した動物を見つめた。 やはり、たぬきのような、犬のような。立派な尻尾はたぬき寄りか。 全身艶やかな茶色い毛に覆われた丸っこい体は、とても愛らしい。 そういえば。 突然の恐怖体験を前にすんなりと受け入れてしまったが、動物がしゃべっている。そして浮いている。 先程の化け物に比べれば可愛いものだが、それでも不気味な事には変わりない。 「わしは奴らのような悪い魔物ではないぞ?」 今更ながら不信感に目覚めた明人の視線に気付いたのか、動物は黒々とした目で明人を見ながら言う。 「い、いえいえ、そんな。魔物だなんて思ってないですよ。ただ、その、しゃべる動物は初めてで」 「しゃべる動物? そんなチンケなものではない! わしは(むじな)じゃ。知っておるか?」 「むじな……えっと……」 貉。 忘れ去られようとしている遠い記憶を探る。 子供の頃、何かの本で読んだ覚えがあった。 「あ、確か……アナグマかたぬきの別名だったような」 「何じゃと!? 全く違ぁう! その辺の動物と一緒にするな! 貉は妖怪じゃ!」 艶のある体毛を逆立てながら、動物は体を震わせ怒鳴った。 アナグマやたぬきと一緒にされた事が、かなり癪に障ったらしい。 「すみませんっ。まさか、妖怪とは思わず……」 というか、妖怪って実在するのか。 辻の魔に貉。 完全に別の世界の扉を開いてしまったような気持ちだ。 「わしは齢五百を数える大貉の千徳(せんとく)じゃ。わしほどの妖力を持った貉は、そうはおらんぞ」 「五百歳……すごいですね」 長すぎてピンとこない。 五百年前といえば戦国時代ぐらいか。 そんな五百年分の力を持ってしても敵わないという辻の魔は、一体どれだけ強いのか。 「おぬしの名は?」 千徳が尻尾を優雅に揺らしながら聞いてくる。 「僕は宮下明人といいます」 「明人か。ならば、あきと呼ぼうかの!」 「はい。好きに呼んで下さい」 「そんな堅苦しい喋り方をせんでもいいぞ? 大貉の千徳といえば気さくで優しい大妖と評判なのじゃ! 気軽に話してくれ」 「……わ、分かりました」 敬語を外して話せという事だろうか。 いかに評判がよかろうとも、五百歳の妖怪に対して気軽さなんて少しもないが。 しかし、態度を変えないままだと、この自称気さくな大貉は怒りそうだ。 「あの……さっきの辻の魔っていう化け物も、妖怪?」 少し悩んだが、要望通りに敬語を抜いて話してみる。 すると、千徳は満足そうな顔をした。 「妖怪とは違う。魔物、闇の塊とでも言おうかの。力の弱い、まつろわぬ神達が闇に堕ちた末路じゃ」 「まつろわぬ神……」 弱いと言っても元は神。 並み以上の妖怪でも相手ができないのだと千徳は続けた。 なるほど。それで五百歳の大貉でも無理だったのか。 「辻には悪いモノが棲みつきやすい。弱った神が自然と集まって、いつしか大きな魔物と化したのじゃ」 「神様が魔物になんて……」 「神というても立場も力も様々じゃ。魔に堕ちても仕方ないという神もおる」 いつまでも抜けられない辻に、怖ろしい影達。 あれらが、かつては人々に崇められた神だったのかと思うと、悲しい気持ちになる。 「元神様の魔物が何で僕なんかを襲ったのか分からないけど……。千徳さんがトキ、なんとかっていうものと交換条件を出してくれなかったら、今頃命がなかったよ……本当にありがとう」 「あー……」 明人が改めて礼を言うと、千徳が気まずそうに顔を伏せた。 「あのな……その事でな……」 「うん?」 「わしが話したのは非時香果(ときじくのかくのみ)というてな。人が口にすれば不老不死となる霊力のある果実で、妖怪や魔が食うても妖力や精力の増強ぐらいにはなる」 「非時香果……そんなすごい果実があるんだ」 「(いにしえ)の神話にも出てくる伝説の果実じゃ」 不老不死になれる果実なんて。 ファンタジーの世界か。 「辻の魔は、何故か力がかなり落ちておった。ゆえに、お前を喰うて少しでも力を増やそうとしておるのだろうと思うてな。代わりに非時香果をどうかと言うてみたのじゃ。しかしなぁ……」 言葉の先を言いづらそうに、千徳は尻尾を一振りした。 「……わしは非時香果の在り処を知らんのだ」 「え? 知らない?」 明人は自分の耳を疑った。 知っていると言ったのは、完全なハッタリだったのか。 「あの時は、非時香果しか思い浮かばなくてのう」 「へぇ……」 「いや、でも、この世のどこかにはあるんじゃ! 絶対にあるのは知っておる!」 明人の固い視線を受けて、千徳が茶色い体を揺らして言い募った。 「……助けてもらって文句なんか言える立場じゃないけど、この世のどこかって範囲が広すぎない?」 それにだ。 ここからが最重要確認項目だ。 「それに……早く探さないと、僕、死んじゃうよね……?」 千徳は確か、七日以内に非時香果を持ってくると約束していた。 それを破れば、明人を喰えばいいとも。 「……いや、それは、そうじゃな……その……」 茶色いモコモコの体が明人の足元で器用に頭を下げた。 「すまぬっ! 確かに、七日で非時香果を見つけないと、あきは死んでしまう」 「だ、だよね……」 体が心臓から冷えていく思いがした。 自分の命は、まだ助かってないのだ。 「心配は無用じゃ! わしが全身全霊で探し出してやるからな! 知っておりそうな奴を虱潰(しらみつぶ)しじゃ! きっとすぐに見つかるぞ」 丸く茶色い体が足元でくるくると動き回る。 仕草、見た目は非常に可愛らしいが、言っている事はなかなかに大雑把だ。 しかし、本来なら明人はすでに死んでいたのだ。 例え七日であろうとも、助けてもらえて延命できたのだから。 感謝だ。そう感謝。 明人は湧き上がる不安を懸命に心の奥底に押し込んだ。 「うん。ありがとう……。果実のある場所って、だいたいの見当もつかない?」 「ううむ。わしは、この世に非時香果が幾つかあるという事しか知らんのじゃ。元々、この実は常世の国に生っているものでな。この世のものではない」 「常世の国に直接採りに行く事はできないかな?」 「無理じゃ。常世の国は遠い神の国だからの。わしらが行けるような所ではない」 「そうなんだ……」 「種が人の世に根付いて(たちばな)になったなんて話もあるが、残念ながら霊力があるのは常世の国に生っているものだけじゃ」 当然だ。 橘にそんな霊力があったら、今頃、とんでもない事になっている。 「幾度か非時香果が、この世にもたらされたという話を耳にした記憶がある。そのうちの幾つかは、まだ食われずにあるはずなんじゃ」 「腐ってなくなったりはしないの?」 「常世の国のものは腐らんから、その辺の心配は無用じゃ」 千徳は明人を静かに見上げた。 「あき。こうして会えたのも何かの縁じゃ。わしは絶対におぬしを助けたい。とっさに非時香果と言ってしもうて、いらん不安を抱える事になったが、この七日のうちに絶対見つけてやるから。だから、わしを信じて、一緒に来てくれんか?」 明人の命はあと七日。 非時香果なんて夢みたいなものを探しださないと、喰われて死んでしまうのだ。 七日など瞬く間だ。 細かい事を考えている暇なんてない。 当たって砕けろというやつだ。もちろん、砕けたくはないけれど。 「本当なら、今頃、死んでたんだ。いらない不安なんかじゃないよ。僕の方こそお願いする。連れて行って欲しい」 明人はしっかりと頷いた。 「あきぃ~!!」 千徳が明人の胸に飛び込んできた。 抱き止めると、茶色のモフモフが柔らかく腕に馴染んだ。 その温かい感触に、少しだけ不安が和らいだ気がした。 「おぬしなら、そう言うてくれると思っておったぞ! よし、早速行くとしよう! 最初から大本命の方にお会いしに行くぞ! その御方なら、絶対に在り処を教えて下さる。安心しておれ! よし、よし、出発じゃ!」 千徳は明人の胸の中で上機嫌に笑った。
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