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「それでは、三月に退職される先生方をご紹介します。矢花先生、前へ」
一年ぶりに立った檀上で、私は「はい」と歩を進めた。下世話な視線が無数に突き刺さる。そりゃあそうだろう。任期一年でよそへ飛ばされるのだから。職場内恋愛が発覚した時、片方がよそへ飛ばされるのは古き悪しき慣習だ。それもたいていが女性である。生徒も、私が飛ばされる理由を噂で聞き齧っているから、にやにやと不躾な視線を送ってくるのだろう。
「矢花先生は一身上の都合で、来年度より隣県の――」
ひやかしの視線じゃない。焦がれるような眼差しを感じて、目線をまっすぐにした。
体育館の扉が開いている。光の帯が伸びて、床が直線に発光している。ちょうど一年前にも見た光景だ。やはり彼は、我こそがこの場の中心だと言わんばかりに、光を背負って堂々と立っていた。逆光になって表情はよく見えない。それでも、骨の髄から焼き尽くすような視線は感じる。彼は指先の冷たさに反して、視線はたいそう熱っぽい。
彼が首を傾げたことで、光の影ができた。けらけらと笑っていたあの頃が嘘のように、色も温度もない顔をしている。能面のような顔に、熱っぽい視線を貼りつけて、焦がれるように私を見つめている。
ふいに彼の唇が動いた。
――――ゆうこ。
確かにそう紡いだ。あの頃と同じ、声の柔さで。
我妻君が無言で体育館を出て行く。彼の退出に、生徒も教員も気づかない。
校長の説明が終わったタイミングで、私は静かに頭を下げた。
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