「第二章 魔女の集会」

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翌朝、私が目覚めたときにはすでにエルザは荷物をまとめているところだった。  私はエルザから昨日の昼食に摂った焼き菓子と冷めかけのお茶を受け取ると、手早く朝食を済ませた。  エルザは馬に荷物を括り付けると、手綱を引いて砦の出口へと向かった。  私はエルザの後を追いながら、一夜を過ごした砦跡を眺めた。日の光の下で見る廃墟には、暗い影があるわけでもなければ、獣の息遣いもせず、恐怖を感じさせるものは何もなかった。昨夜、山犬に襲われた後は気が動転していたが、エルザが明け方まで見張りをしてくれたこともあり、ようやく安心して眠りにつくことができた。  私は前を歩くエルザの背中を見つめながら、昨夜彼女が見せたこの世ならざる技を思い出していた。あれが魔法と呼ばれる神秘の力だとすれば、人々が恐れるのは無理からぬ話だと感じた。だが、昨夜の彼女は、私を守るためにその力を使った。その時私が抱いた気持ちは、魔女という存在に対する恐れではなく、エルザという一人の頼もしい女性に対する信頼だった。  砦の正門につくと、エルザは私を持ち上げて馬の上に乗せた。 「ここからの道程は鶯谷を抜けて、山の中に入っていく。夕方には集会の場所である『黄昏館』に到着するだろう。」  そういうと、エルザは私の体に巻かれた火傷の包帯を見やった。 「傷は痛まないか?」  私は腕の包帯をさすりながら、正直に答えた。 「少しだけ痛みます。」 「そうか。黄昏館についたら包帯を変えてやる。もう少し我慢しろ。」  エルザは軽やかに馬にまたがると、右手に手綱と杖をにぎり、左手に私を抱きかかえ、谷の方向へ馬を進めていった。  砦を出発してしばらくすると、次第に左右の山が迫ってくるような地形に変わっていった。鶯谷は、谷の底というには日当たりは良く、私たちは新緑に萌える若葉に彩られた木々のアーチの下を快調にくぐっていった。鶯谷という地名の由来になっているかはさておき、春の訪れを祝うように、鶯たちが彼ら独特の鳴き声の練習を始めているところだった。  私は馬上で揺られながら、口笛で鶯たちの鳴き真似をした。口笛の吹き方は早いころから父に習っており、大人になった今でも得意だった。 「ふーん、中々上手いじゃないか。」  頭上からエルザの声がした。エルザの話し方はいつも感情がこもっていない単調な印象だったが、この時は少しばかり上機嫌な声音だった。  エルザに褒められて気をよくした私は、しばらく鶯の鳴きまねに夢中になった。  谷の底は次第に幅が狭くなり、やがて傾斜のある山道へと変化していった。木々が密集し始めたあたりでエルザは馬を停めた。エルザは馬から降りると、私を乗せたまま、手綱を引いて山道を登りだした。山道を登っている間は、アンナの蹄の音や、木々の間を飛び回る鳥のさえずり以外には何も聞こえなかった。エルザは歩調を変えることなく、緩やかな山道を淡々と登り続けていった。  途中、山道近くを流れる沢の脇で休憩した時、私はエルザに訊ねてみた。 「昨日、エルザさんが使ったのって魔法ですよね?」  エルザは昼食代わりの焼き菓子を手渡しながら、私をジロリとにらみつけた。魔法のことを尋ねるとエルザは不機嫌になるとは予見していたが、意外にも素直に答えてくれた。 「…いや、昨夜私が使ったのは『呪術』と呼ばれるものだ。魔法よりも原始的で、主に炎を操る術のことだ。術式も簡単なものだし、種火さえあれば詠唱の必要もなく行使できる。まあ、魔女にとっては初級の術といったところだ。日常生活でも役に立つし、昨日みたいに獣を追い払う際にも使える。手の込んだ魔法術よりもよほど便利なものだ。」  私は焼き菓子をかじりながら、エルザの話に聞き入っていた。エルザの説明はおとぎ話の中のことのようにしか思えなかったが、彼女自身の所感が入ると、何故か身近なものとして感じられた。私は好奇心に任せて質問を重ねた。 「じゃあ、エルザさんが得意な魔法ってどんな魔法ですか?」  エルザは編んだ自分の髪を撫でながら(彼女の癖の一つだった)少しばかり宙を眺めた。 「そうだな、私のもつ魔法属性は『熱』と『光』だ。得意な魔法もそういった要素を生み出す炎の魔法、ということになるだろう。最も…」  そこまで言って、エルザはわずかに声の調子を落とした。 「私が造る炎はすでに暗く染まっているがな。」 「?それはどういう…」  さらに質問する前に、エルザは私の口元についた焼き菓子のかすを払い取ると、立ち上がって出発を告げた。  太陽が西に傾き始めたころ、私たちは魔女集会なるものの開催場所である『黄昏館』に到着した。  黄昏館の門の手前には谷を越えるための短い石造りの橋が架けられており、橋の欄干からは、小さな滝から伸びる渓流が見下ろせた。  エルザの説明によると、黄昏館とはかつてこの地を治めた小国の王の別荘として建てられたものを、魔女集会の長が改修したものらしい。むき出しのレンガ組の外壁や、ウロコ紋様の瓦ぶき屋根以外にはこれといった装飾はなく、その外観は王族の住まいとしては質素なものだった。おそらくお忍び的な用途でも使われていたためだろう。側近や護衛を含めて多数の滞在者を想定してか、建物の大きさはかなりのものであり、ちょっとした田舎の宿屋の様相を呈していた。黄昏館は、その名前の通り、黄昏時の夕闇に沈み始めた山林の中で、時が止まったかのように静かに佇んでいた。  エルザは門の前で立ち止まると、小さくため息をついてから私を見下ろした。 「黄昏館に入館する前に一つだけお前に言っておくことがある。いいか、館の中で誰に会おうと、絶対に聞かれたこと以外には答えるな。お前からほかの魔女たちへの質問も禁止だ。」  私はエルザの青い目を見上げながらこくりとうなずいた。 エルザは格子門の取っ手に手をかけたが、開ける前にまた私を見下ろして言った。 「要するに、お前は何もしゃべるなということだ。必要なことは私からすべて話す。約束できるな。」  私はまたはっきりと首を縦に動かした。  エルザはゆっくりと門を開けた。私はエルザのマントのはじを握り、ぴったりと彼女の横を歩きながら、館の敷地内へと入っていった。  門の先には石畳が敷かれ、館の正面玄関に向かって伸びていた。  エルザはアンナを引いて、門のわきにある厩舎の方へと向かった。すでにほかの参加者も到着しているのか、厩舎の中にはすでに何頭か馬がつながれていた。エルザはアンナを厩舎に収めると、私の手を引いて黄昏館の玄関へと向かった。  エルザは木彫りの装飾が施された大扉の足元を、杖の石突で二回叩いた。しばらくたっても返事はなく、扉が開かれる気配もなかった。エルザは慣れた様子で扉を押した。鍵はかかっておらず、古い扉は素直に私たちを迎え入れた。  扉をくぐると、その先には薄暗く、広い空間が広がっていた。外にはすでに夕闇が迫っているにも関わらず、館の正面広間の中を照らしているのは壁に備えられた蝋燭の灯だけだった。広間の天井は二階分の高さまであり、広間の中心に配置された階段が、二階の各部屋につながるバルコニーへと延びていた。心もとない灯が天井までわずかに届き、巨大なシャンデリアを浮かび上がらせていたが、使われなくなってから長い時間が経っているようだった。扉を閉める音を最後に、館の中は森閑とした静けさに沈んだ。  出迎えの者も待たないまま、エルザは私の手を引いて二階へとつながる階段を上ると、バルコニーを伝って、玄関から見て右側の棟へと足を踏み入れた。  右手にはめ込み窓、左手に宿泊者用の部屋と思われる扉が等間隔に並んだ薄暗い廊下を、私はエルザに手を引かれるまま進んでいった。館内には人の気配は感じられず、私とエルザの足音だけが響いていた。誰ともすれ違うこともないまま、長い廊下の先、行き止まりの手前にある角部屋の扉の前でエルザは足を止めた。 エルザは懐から小さなカギを取り出すと、扉を開錠した。  部屋の中は暗いままだったが、エルザは勝手知ったる様子で入り口わきに置いてある棚からマッチを取り出すと、部屋の中に配置された燭台に火を灯していった。ベッドや肘掛け椅子、洋服棚、化粧机など、宿泊に必要な最低限の家具以外には何もなかったが、一人用の部屋にしては広いと感じた。  エルザは荷物棚に鞄を収めると、マントと帽子を取って、洋服棚の中にかけ、私の方を振り返った。 「集会は明日の朝からだ。今夜はこの部屋で休むぞ。」  私はエルザの言葉に頷きながら、部屋の入り口で突っ立ったままだった。ようやくたどり着いた屋根の下での宿だったが、その時の私にとって、黄昏館全体の雰囲気は、居心地の良いものには感じられなかった。  エルザは小さくため息をつくと、ベッドの端に腰を下ろした。 「包帯を変えてやる。服を脱いでここに座りなさい。」  私は彼女の指示に従い、下着以外の衣類を脱ぐと、彼女の隣に座った。  エルザは私の体に巻かれた包帯を慎重にはずしていった。初めて包帯の下をのぞいた私だったが、水ぶくれや皮膚の変色に思わず声を上げた。腕や足を中心に大きくついた火傷の跡は大人になった今でも残っていた。  エルザは水で濡らした布で傷口の周囲を拭くと、手の平に収まるほどの大きさのガラス瓶に入った無色透明な液体を私に見せた。 「これから傷口を消毒する。痛むとは思うが、我慢しろ。」  この時の私は恐怖の表情を浮かべていたと思うが、エルザは一切気にする様子もなく、消毒液を清潔な布に染み込ませると、予告もなしに傷口にあてた。  自分でも情けなくなるような苦悶の声が出たが、私は歯を喰いしばって耐えた。  エルザは淡々とした手つきですべての傷口を消毒すると、今度は持参した軟膏薬を厚めに傷口に塗り、その上から新しい包帯を巻いてくれた。その間、何度か痛むことはあったが、私は目に涙を浮かべながらも耐えきった。 「これで終わりだ。よく我慢したな。」  そういって最後の包帯を巻き終えると、エルザは私の髪をクシャクシャと撫でた。  緊張から解放された私は、そのまま後ろ向きにベッドに倒れこんだ。壁にかけられた燭台の灯が揺らめき、壁に伸びたエルザの陰もかすかに揺れていた。  エルザは私に部屋でおとなしくしているように言い含めると、部屋を出て行った。  旅疲れのせいか、私の瞼はあらがえないほどの重さで閉じていった。  一時ほどして目が覚めると、エルザが部屋に戻ってきていた。いつの間にか彼女はゆったりとした黒のローブに着替え、窓際の椅子に腰かけて熱心な様子で本を読んでいた。私が目覚めたことに気づくと、彼女は目の前にある小さな机の上に乗せた盆を見やった。 「腹がすいているだろう。夕食をもらってきたぞ。」  そういって、また読書に没頭していった。  私はもう一つの椅子に腰かけた。盆の上の皿には、焼いた鶏肉と茹でた卵、野菜を挟んだ白麦パンのサンドと、冷めた玉ねぎスープ、小さなリンゴが一つとお茶の入った杯が載っていた。どう見てもひとり分しかなかった。 「エルザさんの分は?」 「私はすでに済ませた。」  エルザは本から目を上げずに言った。  私は一人で黙々と食事にありついた。料理は冷めていたが美味しかった。食事をしながら、側の窓から外の景色をうかがったが、館の敷地は夜の闇に沈み、何も見えなかった。  冷めたお茶をすすりながら、私は読書に没頭するエルザの横顔を眺めた。湯浴みでもしてきたのか、エルザの髪は微かに湿り気を帯びており、三つ編みにしていた髪はほどいて、毛先をひもで簡素に結っていた。知的な青の瞳は本の文字を追うために上下に細かく動き、たまに眉根を寄せている表情から、何事か考えごとをしながら読み進めているらしかった。 「何を読んでいるんですか。」  手持無沙汰になった私は何気なくエルザに尋ねた。 「ああ、この本か。これは『現代天文術』という書だ。私の知り合いの天文学博士が書きあげたばかりの新書でな。星の観測に関する新たな手法の紹介と、その観測手法で得られた新しい発見が記されている。なかなかに興味深い書籍だ。」  エルザは嬉しそうにそういうと、私にその本を差し出してきた。開いてみると、何かしらの道具や、点と線、多くの記号で記された図以外はすべて小さな文字で記述されており、幼い私には到底理解できなかった。その時わかったことといえば、この魔女は本がとても好きだということだった。彼女の自宅を思い出せば明らかなことではあったが、本に関して語るエルザはとても楽しそうに見えた。 「エルザさんは本が好きなんですね。」  子供にとっては少しばかり重い学術書を返しながら、私は言った。  今までに見たことがないほど柔らかい表情でエルザは頷いた。 「長い時を生きる私にとって、読書は欠かせない趣味だ。坊やも賢くなりたければ多くの本を読むことだな。…どうかしたか?」  エルザが私の顔をのぞき込んできた。  気が付くと、私の頬は涙で濡れていた。胸が締め付けられるような感覚になりながら、私は我知らずつぶやいた。 「母さんがよく、絵本を読んでくれました。」  我慢しようとしたが、涙が止まらなかった。私は拳を強く握りしめ、嗚咽をこらえながら、今までにない感情が沸き上がってくるのを感じた。  ただ、悔しかった。家族を、村の人全員を殺されたこと、住む場所を失ったこと、そして、ただ一人取り残されたこと。これから先、どうやって生きていけばいいのか、その時の私は将来のことなど何もわからず、内臓が冷えていくような不安と焦燥に耐えるしかなかった。 「…夜も遅い。今夜はもう休みなさい。」 そういうと、エルザは私をベッドにいざなった。私はしゃくりあげながら、布団を胸元まで引き寄せた。薄暗い部屋の天井は涙で曇っていた。  枕元に座ったエルザはそっと右手の掌を私の額にかぶせてきた。途端に急激な眠気に襲われた私は、泥のように朝まで深い眠りについた。 朝霧に沈む黄昏館の敷地内には鳥のさえずりだけが響いていた。春先とはいえ、山上の空気は肌寒く、外の風に触れたとき私の体は微かに震えた。私たちが宿泊した本館から、集会が行われる「書庫」までは屋外の渡り廊下でつながっており、前を歩くエルザの靴音が丁寧に敷き詰められた回廊の石畳を響かせていた。  結局、今朝もほかの魔女には一度も会わなかった。書庫に続く回廊を歩きながら、私はこれから始まる魔女集会の風景を想像した。最初は、薄暗く埃っぽい部屋の中で、とんがり帽子を被った老婆たちが額を寄せ合うようにしてひそひそ話を延々と続ける景色が思い浮かんだ。その想像は絵本で眺めていた老魔女の挿絵から来るものだったが、エルザのように見た目が若く、動きも溌剌とした魔女を目の当たりにすると、実際の集会とはもっと活気のあるもののようにも思えた。例えば、女子向けの絵本に登場する派手好きな魔女の印象を元にすると、貴族のように華々しく着飾った幾名もの魔女たちが大きな長机を囲い、様々な肴や飲み物を片手に活発な議論にいそしむ、といった光景も想像できた。子供ながらにも、得体の知れない場所に連れてこられた身としてはずいぶんと呑気な妄想に浸っていたものだが、その時の私はエルザという保護者におおよそ心を許していたというのもあった。  回廊の先には、五階ほどの高さまである、円形の劇場のような大きな建物があった。外観は本館と同様にレンガ積みの壁だったが、表面にはつたがはい回り、古い建築物であることをうかがわせた。極端に窓が少ないためか、早朝の朝日の下でも、どことなく不気味な印象を与えていた。  建物の正面入り口は年季の入った木製の扉で閉じられており、扉の取っ手にはくすんだ金文字の文章が描かれた小さな札が下げられていた。  エルザはその札を手に取ると、囁くような小さい声でつぶやいた。 『我は神秘の担い手なり。夜明けの頃に生者の元に寄りて、その耳元に囁きかける者なり。あるいは、黄昏時に死者の元に寄りて、その口から言葉を拾う者なり。』  遠くでカチリと金属同士が合わさる音が響いた。ゆっくりと開かれた扉の奥から、風が吹いてきた。耳元で誰かが囁いたかのような感覚を覚え、私は思わず振り返っていた。朝霧に沈む黄昏館が途端に色あせて見え、私は背筋に寒気が走るのを感じた。その時、不意に右手に温かい感触を覚えた。 「昨日の約束は覚えているな。中に入ったらおしゃべりはなしだ。」  エルザの青い瞳が私を見下ろしていた。私は返事の代わりに、エルザを握る手にわずかに力を込めた。 「書庫」の中に足を踏み入れた瞬間、私は思わず頭上を見上げていた。頭の上にはまず、巨大な天窓が見えた。五階の天井の高さまで吹き抜けになった建物の中は、空からまっすぐに降り注ぐ光の中で、何もかもが柔らかく浮かび上がって見えた。次第に目線を下げていくと、この建築物が書庫と呼ばれる由来が分かった。壁という壁はすべて本棚で敷き詰められ、各階層のバルコニーにはあちらこちらに、本棚に架けられた脚立が見えた。棚の中には書物だけではなく、真鍮のように金色に光る、大小さまざまな道具らしきものがおさめられていた。後の人生においても、この「書庫」並みの規模の知識の集積場所としては、王都の中に建てられた王立記念図書館しか思い当たらなかった。  一通り、室内を眺めまわし、視線の高さを地階に戻した。そこにはエルザと同じ、神秘の担い手たちが既に集まっていた。  書庫の真ん中に、円形に配置された十二の椅子は、その一つ一つが王が腰かけるような玉座とも言える大きさだった。滑らかに磨き上げられ、繊細な彫刻が施された木製の巨大な座は、それぞれが一級の調度品に見えた。それらの上に納まる者たちは、一斉に私たちの方へと視線を向けていた。 「おはようエルザ。今回はちゃんと時間通りに来てくれたわね。」  それらの座の中でも、ひときわ大きなものから声が聞こえた。歌うように軽やかで、柔らかい声だった。  エルザは声がした座席とちょうど対面にある席の前に立つと、帽子を脱いで丁寧にお辞儀した。私はエルザの横で、彼女に習って一礼した。 「おはようございます、アストラエア。『灰のエルザ』集会への招きに応じ、参上いたしました。」  そういうと、エルザは席に着いた。エルザの席の左横には小さな椅子が設けられており、私はそれに腰を落ち着けた。  エルザと私が着席したことを確認すると、魔女集会の長、アストラエアはゆっくりと集会の参加者一同を眺めまわした。  アストラエアは、ゆったりとした純白のローブに身を包み、重ねた手を膝の上に置いていた。長く、癖のないまっすぐな髪は、身に着けている装束よりもさらに白く輝いていた。見た目の年齢はエルザと同じか、それよりも若いように見えた。肌は白く透き通り、口元には常に慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。長く伸びたまつげは目元の表情を柔らかく見せていたが、その奥に収められた深紅の宝石のような瞳は、深い谷のように底が見えなかった。  アストラエアと目が合った時、私は直感的に、この魔女には嘘をつけないと感じた。 「『深い森のエルマ』、『紅のロザリィ』、『白銀のフェルミ』、『石切りのミレーヌ』、『癒しのマリア』、『清流のレイン』、『竜狩りのエオウィン』、『糸紡ぎのケリー』、『灰のエルザ』。皆、突然の招集に応じてくれてありがとう。残念ながら『結晶のシーレ』、『深淵のヴェルヌ』は欠席だけど、集会員の大半が集まってくれて嬉しいわ。」  彼女の言う通り、十二の座のうち、二席だけ空席になっていた。集会の場には、エルザを含めて十人の魔女が参加していた。後にエルザから聞いたことだが、魔女は自分を表す二つ名を持つことが慣例になっているらしい。ちなみに、魔女集会の長は『光のアストラエア』と呼ばれていた。 「今回皆に集まってもらったのはほかでもない、エルザに担当してもらっている仕事のことについてよ。エルザから貰った伝書鳩によると、つい四日前にまた一つ人間の村が消されたらしいわ。私たちが「渡り烏」と呼ぶ者の手によってね。」  そう言うと、アストラエアは村人の死を悼むようにわずかな時間目を閉じた。 「これで三つも村がやられたわ。早急に手を打たないと、被害は拡大するばかりよ。渡り烏の件はエルザにだけ任せていたけど、今後はほかの皆にも、エルザを手伝ってもらいたいの。」  アストラエアは簡潔に議題を述べると、ほかの魔女の反応を見るように言葉を切った。  エルザの左隣、私が座っているすぐ横の席の魔女がわずかに手を挙げた。 「ロザリィ、どうぞ。」  アストラエアから指名されると、短髪で鷹のような鋭い目を持つその魔女は私をにらみつけてきた。 「渡り烏の件について話をする前に、何故エルザが人間の子供を連れてきているのか説明してもらいたい。この集会は始まって以来、人間の立ち入りを一切拒んできたのではなかったのか?」  ありありと敵意が浮かんだその視線に、私はすっかりおびえてしまった。 「その子は私がエルザに頼んで連れきてもらったのよ。そんな怖い顔で子供をにらみつけるものじゃないわ。」  アストラエアは柔らかい語調で、そのロザリィという魔女を窘めた。 「その子のことについては、エルザの口から説明してもらうわ。エルザ、今回の渡り烏の襲撃の件を説明してくれるかしら?」  エルザは頷くと、私が体験したあの地獄の夜のことについて話し出した。 「アストラエアから話があったように、四日前の夜、霧降山の東にある農村が襲撃されました。家屋は全焼、およそ二百人の村人は全員死亡しました。唯一この少年を除いて、ですが。」  魔女たちが隣同士でささやきあう声が聞こえた。エルザはほかの魔女の反応を意に介さずに報告を続けた。 「私は王都から自宅への帰路の途中、村の火事を発見し、焼け跡からこの少年を救助しました。この子の証言通り、今回の犯人もまた渡り烏とみて間違いありません。」  そのあとを引き継ぐように、アストラエアが補足した。 「その子は、渡り烏を直接目撃した唯一の生存者よ。この子が持っている情報は貴重だと判断したから、私はエルザにこの子を集会に連れてくるように頼んだの。」  横に座るロザリィが小さく鼻を鳴らすのが聞こえた。 「一つ、質問いいかしら。貴女は渡り烏が何者なのか予想はついているのかしら。」  アストラエアの右隣に座っている、『癒しのマリア』という魔女が質問した。  エルザは小さくため息をつくと、きっぱりと言い放った。 「渡り烏、やつの正体はおそらく、魔女です。」  書庫の中が一瞬しんと静まり返った。 「エルザ、貴女自分の言っていることが分かっているの?」  エルザの右二席横にいる魔女、『深い森のエルマ』が声を上げた。動揺を抑えようとしているのか、その声はかすかに震えていた。 「貴女、今この集会にいる魔女全員を容疑者だと宣言したも同然なのよ?」  エルザは淡々とした口調で返した。 「これまでの情報を集約した結果、そうなっただけだよ。現場に残されていた『人に致命傷を与える黒い槍』、焼かれた人間を殺す『呪詛の炎』。そんなものを扱えるのは、今の時代では魔女という存在しかありえない。」  エルマは何か言いたげに口を開きかけたが、アストラエアの発言に遮られた。 「私も、エルザと同意見よ。たった一人で二百人もの村人全員を虐殺するなんてことは、普通の人間には至難の業ね。それと、エルマが言ったことは間違っているわ。私はこの集会を開いて以来、地上に残った魔女全員を集めてきたつもりだった。だけど、まだ私が認知していない魔女が世の中にいるという可能性も捨てきれないもの。渡り烏への対処は、やつが魔女であるという前提の下で進めるべきね。」  アストラエアが言い切ったことで、ほかの魔女も渋々頷いた。 「大丈夫、今この場に『渡り烏』はいないわ。私の『千里眼』には邪なものは何も見えていないもの。」  アストラエアの言葉に、神経質そうな見た目の、『糸紡ぎのケリー』がつぶやいた。 「ですが、シーレとヴェルヌはどうなのですか?あの二人はもう何年も集会を欠席していますよ。」 「シーレは北の城壁の中で好きなように暮らしているのだろうね。ヴェルヌは…彼女のことは詳しくはわからないな。あまり他人とは付き合いがよくない方だからね。今もどこをほっつき歩いているのやら。」  頬杖をつき、退屈そうな表情をしていたが、『白銀のフェルミ』の目には鋭い光が宿っていた。 「エルザの言葉を信じるなら、シーレとヴェルヌには直接話を聞くべきね。もっとも、あの二人を捕まえられれば、だけど。」  『清流のレイン』も眉を寄せて深刻な表情をしていた。  集会の魔女たちの話しぶりからすると、『結晶のシーレ』、『深淵のヴェルヌ』と呼ばれる魔女たちは、あまりほかの魔女とは接点を持っていないようだった。そのどちらかが、私の村を焼いたあの渡り烏なのだとしたら…私は胸の奥でどす黒い感情が蠢きだすのをはっきりと感じた。 「皆、少し冷静になって頂戴。エルザの報告した『黒い槍』も『呪詛の炎』も、あの二人が使う魔法属性とは大きく異なるものだわ。それに…」 アストラエアはわずかに言いよどんだが、言葉を続けた。 「…それに、もしあの二人ならきっと、自分の正体を隠すようなことはしないでしょう。なにより、わざわざ時間をおいて村を一つ一つ焼いていく動機がわからないわ。渡り烏の正体が魔女というのはともかく、やつには何か目的があるように思えるわね。」 「エルザはどう思うの?渡り烏の目的について。」  浅黒い肌をした『石切りのミレーヌ』が質問を投げてきた。  エルザは首を横に振った。 「正直なところ、やつの目的はわからない。過去三件の襲撃場所、時間、殺害人数などを照らし合わせても、目だった共通点と言えるものはない。だが一つ言えることは、やつは必ず村の人間を全員殺すことに執着しているようだ。使っている魔法の痕跡も、人間を殺すことに特化したものばかりだしな。」 「つまり、渡り烏というやつはよほど人間のことを憎んでいるというわけだ。誰かさんのように。」  横に座るロザリィがエルザに目を向けた。 「…私が人間を憎むのは魔女の中では例外ではないだろう、ロザリィ。それに、私の中の憎しみはすでに遠い過去のものだ。」  エルザも珍しく感情を声に滲ませた。どうやらこの二人はあまり仲が良くないらしい。 「どうだか、その人間の子供も、本当は奴隷か慰みものにでもしたくて拾ってきたんじゃないのか?」  ロザリィは口の端をつり上げながら、私を見下ろした。幼い私にも、それがずいぶんと下卑た視線のように感じられた。  エルザは唐突に杖を手に取ると、立ち上がって無言でロザリィを見下ろした。書庫の中の温度が一気に下がり、天窓からの光が急に陰ったように感じた。ロザリィを見下ろすエルザの身長がいつの間にか二倍にも大きくなり、顔の見えない巨大な影が覆いかぶさってきた。 「いい加減にしなさい、二人とも。あなたたちを喧嘩させるためにここに呼んだのではないのよ。」  アストラエアの口調は柔らかかったが、得も言われぬ圧力があった。途端に書庫の中には温かい春の日差しが戻ってきた。  エルザはいつも通りの冷静な表情のまま、椅子に座りなおした。  「現場を見たエルザの所感をもとにするなら、渡り烏が人間をひどく憎んでいるというのは分かるわ。だとしたら…」  アストラエアの深紅の瞳が私の方を向いた。 「どうやってその少年は生き残ったのかしら?」  書庫内の視線が一斉に私に集まった。 「この少年も、発見した時にはすでにかなり傷つき、消耗していました。私の解呪と治療が遅ければ、この子もまた命を落としていたでしょう。」  エルザは説明しながら、私に目を向けていた。その表情は「何も話すな」と言っているようだった。  アストラエアは視線を私に投げたままさらに語調を柔らかくして私に話しかけてきた。 「坊や、あなたの名前は?」  吸い込まれるような彼女の視線に私はつい口を開きかけたが、先にエルザが返答していた。 「この子の名前はラルフ・ラングレン。村の農夫の一人息子です。渡り烏に襲われた夜に、目の前で両親を殺されたそうです。」 「目の前で、ですって?だったらこの子も殺されていてもおかしくはなかったのではなくて?」  癒しのマリアも私を観察するように目を向けてきた。 「渡り烏が彼の家に押し入ってきたとき、彼の母親が庇ってくれたそうです。母親の身体の陰になったこともあり、渡り烏はこの子を殺したと思い込んだのでしょう。」  エルザの語る状況は私が自分で彼女に話したことだった。だが、エルザの説明を聞いていて、私はある違和感を感じていた。渡り烏は私を見落としたのではなく、見逃したのだと、何故かその考えが私の頭をもたげた。だが、何も話さないと約束している以上、私はエルザの説明に口を挟むつもりはなかった。なにより、その時の私には魔女たちの話し合いに割って入るほどの度胸も勇気もなかった。  『白銀のフェルミ』は頬杖をついて私を見た。 「つまり、その子が生き残ったのはたまたま、ということかい?」 「それはどうかな。その子供は、もしかしたら私と同じかも知れないよ。」  今まで一度も発言しなかった『竜狩りのエオウィン』が口を開いた。精悍な話し方とは裏腹に、少年のように活発な幼い光を帯びた目が印象的な魔女だった。 「呪詛の炎による傷を一晩耐えきってみせた。この少年は普通の人間とは違う強さを持っているのかもしれないね。」  彼女は興味深そうに私を眺めていた。その視線に、私はなんとなく居心地の悪さを感じた。 「エルザ、もしよければ、その少年を私にゆずってくれない?少し調べたいことがあるし、その子にとっても、決して悪いようにはしないわよ。」  エオウィンからの意外な言葉に、私は戸惑いを感じながらも、自分にはすでに帰る家が無いことを改めて認識した。エオウィンは見た目は闊達で優しそうな女性に見えたが、何故か、エルザの青い目を見た時ほどの安心感は得られなかった。  私はうつむいて誰とも視線を合わせないようにしていたが、エルザが肩に手を乗せたのがわかった。 「この少年は今は私が預かっています。貴女にこの子を譲ることはできません。それに、傷が癒えたら、私はラルフを人里に返すつもりです。」  私はエルザの顔を見上げた。彼女の視線はエオウィンに向けられていたが、その時、私はエルザの瞳が私の方を向いていなかったことにひどく孤独感を覚えた。 「人里に返す、ね。だけどエルザ、この子は魔女のことを知りすぎたんじゃないかしら?あまつさえ、始まって以来人間禁制だった、この集会にまで立ち入ってしまったんだもの。もうこの少年は人間の元に素直に戻すわけにはいかないと思うのだけれど。」  一瞬、集会の空気が不穏なものになった。私は魔女に対して抱いていた、初期の想像を改めて思い出していた。 「この子の行く先は、この子自身が決めることです。ほかの誰かが決めることはできません。それに、今更この子が魔女の存在を外に漏らしたところで、一体誰が信じるというのですか。」  それを聞いてエオウィンがわずかに目を細めた。集会の空気はさらに剣呑な雰囲気になりかけていたが、アストラエアが穏やかに手を打ち鳴らした。 「ちょっと、また議論が脱線してるわ。最初に私が言ったのは、誰かにエルザの仕事を手伝ってほしいということよ。誰か協力してくれる者はいるかしら。」  アストラエアの呼びかけに、糸紡ぎのケリーが質問した。 「手伝う、と言っても、何をどうやって手伝うのですか?渡り烏の目的が分からなければ、やつが次にいつ、どこに現れるかも予想できないのでしょう?」  アストラエアは考え事をするように少し首をかしげてから答えた。 「そうね、ここからは人海戦術でいくしかないわね。協力してくれる魔女は、ある程度の範囲の地域に分散して使い魔を放ってもらうわ。そうやって人が住む主要な村を監視しておいて、有事の際に手近な魔女に知らせる、というのはどうかしら。ここにいる何人かはすでにそういう仕事についてくれてるし、複数で監視網を広げれば、それなりの地域は抑えられると思うのだけれど。」 「だけど、その方法だと、私たち全員で監視網を敷いたとしても、それで網羅できる範囲は、せいぜい王都周辺の主要な村に限られるでしょうね。範囲を広げたとしても、たぶん、渡り烏が住民を虐殺し終えるまでには、現場への急行は難しいかも知れないし。」  清流のレインは顎に手をあてて宙を眺めながら呟いた。  深い森のエルマは出席者を眺めまわしてアストラエアの意見に賛同した。 「それでも、なにもしないよりはましよ。もしかしたら、渡り烏の出現場所によっては、複数の魔女で包囲できる可能性もあるわけだしね。私はエルザに協力するわ。」  そういって、エルザに向けて片目をつぶってみせた。エルザは感謝するように頷いた。その後は、少しづつながら、エルザへの協力者は増えていき、最終的には全員の協力を取り付けることができた。 「ありがとう皆。エルザは過去の襲撃の記録を洗いなおして、もう一度共通点を探ってみてくれないかしら。直感だけど、やっぱり渡り烏は何かしらの意図をもって村を襲っていると、私はそう感じるの。」  そう言うと、アストラエアは席を立った。  「今までに何度も言ってきたことだけど、私たち魔女という存在は、根源的には人間のために存在するものよ。皆抱えている思いは色々とあるだろうけれど、今回は渡り烏の凶行を何としても阻止しましょう。改めて、皆の力を貸して頂戴。」  アストラエアの言葉に、ほかの九人の魔女全員が一斉に立ち上がり、丁寧にお辞儀した。  ほかの魔女達が、書庫から引き揚げていく中で、アストラエアが滑るように私とエルザに近づいてきた。 「家に帰る前に、私の部屋に寄ってくれるかしら?この少年も一緒にね。」  エルザにそう耳打ちすると、アストラエアは私に微笑みかけて書庫の出口へと向かっていった。  他の魔女が全員退出したのを見届けると、エルザは私を見下ろして言った。 「他の魔女に何かされなかったか?」  私は何を聞かれているのかわからなった。  エルザは膝を落とすと、私の目を食い入るようにのぞきこんできた。さらに私の全身をくまなく触診すると、安心したように頷いた。 「呪いの類はかけられていないようだな。安心しろ、坊や。」  立ち上がってそう言うと、エルザはクシャクシャと私の頭を撫でた。 「なんで、呪いの心配なんかするんですか?」  私は久々に口を開くことができた。 「もし集会の参加者の中に『渡り烏』がいれば、お前は口封じのために殺されていたかもしれない。そう思っただけだ。」  エルザは被った帽子を整えながら、事も無げに恐ろしいことを言った。 「お前に『何も話すな』と言ったのもそのためだ。お前が渡り烏の正体について余計なことを感づいているとほかの魔女に知られたくなかった。まあ、結局は今日の出席者の中に渡り烏がいるとは考えにくいがな。」  つまり、エルザは私を口留めすることで身を守ってくれていたらしい。だが、その事実よりも、私は先ほどの集会でのエルザの発言が気になっていた。 「エルザさんは、僕を返してくれるんですか。人のいるところへ。」  エルザは私の質問には答えずに私の手を取ると、書庫の出口へと足を向けた。 「アストラエアが私たちをお呼びだ。家に帰る前に何か小言を聞かされるかもな。」  黄昏館の本館に戻ると、エルザは宿泊棟とは反対側の建物へと私を誘った。本館からつながる扉をくぐると、目の前には長い回廊が続いていた。  魔女集会の長、アストラエアは普段は黄昏館を住まいとしており、集会を開くときだけ、館の門戸を開放するらしい。通常、黄昏館へと繋がる山道への入り口には人払いの魔法がかけられており、魔女でもなければ、この館に近づくものはいないとのことだった。  アストラエアが住まいとする別棟は当時の王の家族だけを滞在させる目的で作られたものであり、廊下に飾られた調度品や、壁に掛けられた古い絵はどれも豪勢な品ばかりに見えた。  エルザは回廊の真ん中ほどにある扉の前で足をとめると、その扉を二回叩いた。奥から声が聞こえたのを聞いてから、エルザは扉を押した。  扉の先は書斎のようだった。東側の窓からは明るい光が差し込み、薄いカーテンからは山の緑が見渡せた。エルザの家もそうだったが、壁は天井まで届く本棚で埋められ、部屋の真ん中に置かれた机の上には、様々な形状をした奇怪な道具が並べられていた。  書棚の側に立っていたアストラエアは、手にもっていた本を棚に戻し、私たちを迎えた。 「お疲れ様、エルザ。今回は急な招集だったのに来てくれてありがとう。そして…」  アストラエアは私を見下ろすと、にっこりと微笑んだ。 「改めて黄昏館にようこそ、小さなお客様。名前は、確かラルフ君だったかしら。退屈な話し合いに付き合わされて疲れたでしょう。さあ、座って。今お茶を用意するから。」  アストラエアは嬉しそうにそういうと、来客用のひじ掛け椅子を示した。  エルザと私は、豪華な金紗の縫製が施されたクッションに身を沈めた。  アストラエアは、純白の陶器でできたティーポットとカップを乗せた盆を運んできて目の前の机に置いた。アストラエアが陶器のポットに手を触れると、途端にポットの注ぎ口から湯気が立ち上り始めた。 「どう、エルザ。今日の集会の中に『渡り烏』はいた?」  お茶をカップに注ぎながら、アストラエアは何気ない口調で言った。 「いえ、おそらく今日の出席者のなかにやつはいなかったと思います。貴女の言う通り、シーレもヴェルヌもおそらくシロでしょう。」 「そう…ラルフ君、あなたはどう感じた?あの中に、あなたの村を襲った犯人はいたと思う?」  アストラエアはお茶の入ったカップを私に手渡しながら、質問してきた。  私にはそれを判断するだけの材料はなかったが、ただ直感で首を横に振った。  アストラエアはカップに一口つけると、小さくため息をついた。 「参ったわね。渡り烏というのは、やっぱり私の知らない魔女のようね。これは捕まえるのに苦労しそうだわ。」  エルザはお茶には口をつけずに、アストラエアをにらみつけていた。 「アストラエア、それを確認するために、この子を集会に連れてこさせたのですか。わざわざほかの魔女の前に晒してまで。」 「危険だった、と言いたいのね、エルザ。それについては私もラルフ君に悪かったと思ってる。だけど、これしか確認のしようがないと思ったのよ。おかげで集会員の中に渡り烏はいないとあたりをつけられたわけだしね。それに…」  アストラエアの深紅の目が私を見ていた。 「私も少しこの子に興味を持ったの。ただ一人生き残った人間の子にね。」  先ほどの竜狩りのエオウィンほどではなかったが、アストラエアの目の中にも好奇の色が見て取れた。 「この少年はごく普通の人間です。あなたやエオウィンが興味を持つのは、あくまで『竜狩りの騎士』の末裔のことでしょう。」  エルザの声には少しばかりいら立ちが滲んでいた。何故かわからないが、エルザは私のことをあまり話題にしてほしくないようだった。 「そうね。見た感じ、この子は普通の人間ね。生き残ったのも、きっとお母さまが必死にあなたを守ってくれたおかげだと思うわ。だけど…」  アストラエアはカップを置くと、じっと私の目を見つめてきた。彼女の瞳の奥の闇から何かがせりあがってくるように見えた。私は崖の淵に立ち、底が見えない深い谷を見下ろしているような感覚に襲われた。 「この子の目の奥に暗い魂の炎が見える。かつてこの地上を闊歩した、あの忌まわしい竜たちが宿していたような炎が…」  私の視界には、アストラエアの瞳が放つ深紅の闇しか見えていなかった。闇の底からはい出した黒い影は私の喉元に手をそえ、耳元でささやき始めた。 『あなたは誰?どこから来たの?何をするの?どこに行くの?誰を生かすの?誰を殺すの?誰を…愛するの?』  喉がしまり息ができなくなった。私は手足の自由のきかない夢の中で、覚醒しようと必死に抗った。 「やめてください!この子に『千里眼』を使うのは!!」  耳元でエルザの叫び声がした。  目の前はまだ真っ暗なままだったが、意識ははっきりと戻っていた。私は肩で息をしながら、寒さで体を震わせた。 「ごめんなさい。まさかこの子がこんなに私の術に抵抗できるとは思わなくて。普通の人間だったら幸せな夢の中で漂い続けるのが普通なのだけれど…どうやらラルフ君はよほど強い精神と意志を持っているようね。」  エルザは私の目を覆っていた手をはなした。目の前にはすまなさそうに両手を握り合わせたアストラエアが私を見つめていた。アストラエアの目からはもう何の圧力も感じず、謝罪の色が見てとれた。  エルザはなおもかばうように私を胸の中に抱きかかえたまま固い声で言った。 「この子がどんな人間だろうと、私はラルフを人里に返します。この子は人間として、自分の意志で選択した人生を歩いていくべきです。」  アストラエアは窓の外の山林の景色に目をやった。 「そうね、この子が私たちにかかわってしまったのは不幸なことかもしれないけれど、この子はまだ生きているものね。だけど…」  アストラエアはちらりと私を一瞥した。 「この子を人間の元に戻す前に、ちゃんとこの子自身の意思を確認しないとだめよ。どうやらラルフ君は、あなたのことをずいぶんと慕っているようだから。」  そういうと、魔女集会の長はいたずっぽく、くすっと笑ってみせた。  私はエルザの顔を見上げた。彼女は眉根を寄せ、少し怒ったような表情で青い瞳をアストラエアに向けていたが、やがて腕の中の私を見下ろした。灰色の焼け跡の中で初めてその青い瞳を見上げた時、私は生きていることの実感と、生家の中で過ごすかのような安心感を覚えたことを思い出した。  エルザは私を抱擁から解放すると、わざとらしくひとつ咳ばらいをした。 「ともかく、私は引き続き、渡り烏の足取りを追います。新たなことが分かればまたお知らせしますので。今日はこれで失礼します。」  そういうと、エルザは私の手を取って立ち上がった。 「ああ、待って頂戴。帰る前にラルフ君に渡したい物があるわ。」  アストラエアは部屋の奥の仕事机に近寄ると、引き出しを開けて何か光るものを取り出した。 「はい、どうぞ。さきほどは怖い思いをさせてごめんなさいね。これは私からあなたへの仲直りの思いをこめた、ささやかな贈り物よ。」  そういうと、彼女は銀色に輝く細い鎖を私の首にかけた。鎖には金色に光る指輪がつながれていた。これといった彫り物もなく、簡素な形状をした指輪は、滑らかに磨き上げられた表面に、歪んだ私の顔を映し出していた。 「もし困ったことがあったら、その指輪を握りしめて強く祈りなさい。そうすれば、必ず救い手が現れて、あなたを導いてくれるわ。」  しげしげと指輪を眺める私を尻目に、エルザの声は少し不機嫌だった。 「アストラエア、この子に魔法の装身具を与えないでくれませんか。この子はもうあまり魔法と関わらせたくは…」 「あら、いいじゃない。これはお守りだもの。きっと、今後のこの子にとって大きな助けになるはずよ。」  目を細めて私を見下ろしながら、アストラエアは私の髪を柔らかく撫でつけた。  エルザはそれ以上なにも言わず、私の手を取りなおすと、アストラエアにお辞儀した。私もすぐにエルザに習って頭を下げた。  黄昏館の正門の前で、私とエルザは馬上からアストラエアを見下ろしていた。 「お昼ごはんくらい御馳走したのに。そんなに急いで帰らないとダメかしら?」 「私にもほかに仕事があります。あまりのんびりとここには滞在できません。」 「そう、じゃあ、道中気をつけてね、それと…」  いままで柔らかいだけだったアストラエアの表情がわずかに固くなったように感じた 「もし渡り烏の所在をつかんだなら、接触するときはくれぐれも気をつけてね。きっと、一筋縄ではいかない相手よ。」  エルザが私をつかむ手に少し力がこもったように感じた。 「心得ています。それでは、失礼します。」  それだけ言うと、エルザは馬の頭を帰路へと向けた。
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