「第三章 遠雷」

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翌朝、カニンガム教授宅での朝食の席にて、私は早速エルザ師匠を困らせる発言をしていた。 「僕も師匠の授業を見てみたいです。」  エルザ師匠は口元に運びかけていたカップの手を止めると、ジロリとこちらをにらみつけた。 「だめだ。大学の授業は遊びじゃないんだぞ。お前のような無関係の子供を講義室に入れるわけにはいかない。」  即答で断られることは予想していたが、私は食い下がることにした。 「でも、星の話なら、僕も聞いてみたいんです。授業中はおとなしくしていますから、お願いします。」  エルザはカップを下ろすとパンをちぎりながら、なおもそっけない返答をよこした。 「だめだと言っている。お前が子供だからとか、おとなしくしているからとかそういう問題ではない。王立大学は学内への入場規則が厳しいんだ。関係者でもない人間を学内に入れては、学長から何を言われるか分かったものではない。」  学校の規則を持ち出されたのでは、私もすぐに反論ができなかった。なおも食い下がるための答えを考えていた私だったが、ゆであがったばかりの卵の殻を剥くのに格闘していたカニンガム教授が口を開いた。 「エリザベス、別にラルフ君も関係者ではないというわけでもあるまい。今は君がラルフ君の保護者だし、君の監視下であれば、彼を講義室に入れることに問題はないとは思うがね。」  思いもかけない助け舟を得て、私は師匠へと視線を戻した。  エルザは微かに眉根を寄せながら、バターをパンに塗りたくっていた。 「エリック、私は学内で目立った行動をとりたくないのです。非常勤で務めているのも、極力学生たちと接触の機会を減らすためです。私が子供を連れていれば、間違いなく人目を引くことになる。」 「あら、でしたら私がラルフ君を引率しましょうか?私が彼を連れている分には問題ないでしょう。私が学内に入るときには夫に弁当を届けに来たとでもいえばいいし、ラルフ君のことも親戚の子供を預かっていて、大学をみせてやりたいとでもいえばいいでしょうから。」  婦人は満面の笑みを浮かべてエルザの方をみた。   それを受けて、カニンガム教授もうなずいた。 「それならラルフ君を学内に連れて歩いてもいいだろう。君が今日使う講義室には教員用の控室が隣接しているから、ラルフ君はそこでエリザベスの講義を聴講するといい。控室は講義室と小さなのぞき窓でつながっているから、最高の特等席でエリザベスの講義を聴けるぞ。ウィレーム学長には私の方から一言伝えておくとも。」  そういって、私に向けて片目をつぶってみせた。  強力な助っ人を得られたこともあり、私はさらにエルザに畳みかけることにした。 「師匠は今日の講義で僕が手伝った時の観測結果も出すのでしょう?なら、僕にも先生の授業を聴く…その…そうだ、『けんり』があるはずです!」  覚えたての単語を会心のタイミングで出すことができた。私の発言を聞いて、カニンガム夫妻はこらえきれない様子で笑い声をあげた。  さすがのエルザも反論する材料を見つけることができないのか、渋面でお茶を飲み干すと嘆息した。 「まったく、困った弟子を取ってしまったものだ。いいだろう、それほど私の講義を聴きたいのであればかまわない。ただし、」  エルザ師匠は右手の人差し指を私の額に当てた。 「絶対に、カニンガム婦人を困らせるようなことはするなよ。もし何か問題を起こすようなことがあれば、即刻校舎からつまみだすからな。」 「はい!ありがとうございます!エルザ師匠!」  なおも渋面をくずさない師匠に私は満面の笑みで答えていた。  朝イチから講義の準備があるとのことで、エルザとカニンガム教授は先に出勤していった。  エルザの講義は昼からのため、カニンガム婦人と共に午前中の家事を済ませた後、私たちは乗合馬車で王立大学へと向かった。  朝の出勤時間を外れているせいか、乗合馬車の中は私たちのほかに、主婦らしき女性と高齢の男性が数人だけだった。 「エリザベスの講義を聴くなんて、私も初めてだわ。楽しみね。」  カニンガム婦人は目じりにしわを寄せて嬉しそうにしていた。私も大きく頷きながら、昨夜から気になっていたことを質問することにした。 「教授も、ご婦人も、どうしてエルザ師匠のことを『エリザベス』と呼ぶのですか?」  私の質問に、カニンガム婦人はわずかに目を細めたが、私の頭をかるくなでながら独り言のようにつぶやいた。 「私たちがあの子を『エリザベス』と呼ぶのは、それが私たちにとって、あの子の本当の名前だからよ。でもあの子はまだ、そう呼ばれることに慣れてはいないのかもしれないわね…」  夫人はしわの刻まれた両手で私の手を取ると、透き通った灰色の瞳でまっすぐに私の目をのぞき込んだ。 「ラルフ君。厳しい言い方をするときもあるかもしれないけれど、どうかあの子のことを理解してあげてね。エリザベスは自立した一人の人間だけど、それでも弱いところをかかえたままなの。長い時を独りで生きてきたあの子は心の中に大きく欠けた部分があるわ。どうか、それを埋めてあげて頂戴。」  口調は柔らかいものだったが、彼女が私を握る手にわずかに力がこもっていた。この時の私には、カニンガム婦人の言葉を理解することはできなかったが、ひとまず頷くことにした。  カニンガム婦人も安心したように頷くと、私の手を離した。  乗合馬車の御者が、間もなく王立大学の停留所に到着することを告げた。  馬車から降りた私たちは、王立大学の制服に身を包んだ学生たちの往来にまぎれつつ、数台分の馬車が同時に通り抜けらるほどの大きな正門をくぐった。王立大学は、市街地や、一般市民の居住区とも離れた位置にあり、王都の中とはいえ、閑静な雰囲気に包まれていた。デネソール王立記念大学、通称王立大学は、賢王と名高い2代目国王デネソールによって設立された。広大な敷地の中には学生たちが学ぶ講義棟をはじめ、研究分野ごとの様々な実験棟や、教員たちが職務に就く職員棟、食堂、王立記念図書館、王都以外の出身者向けの学生寮のほか、各種の運動競技のための設備を備えており、さながら一つの街のようだった。設立当初は王族や貴族家系の出身者を将来の国の幹部として養成することを目的としていたが、王国全体の教育水準が上がるにつれて、優秀な人材であれば、庶民階級出身者の入学も受け入れるようになった。  正門わきの守衛所で入校手続きを済ませた私たちは、緑豊かな中庭を横切って講義棟へと向かった。午後からの講義時間が近いためか、急ぎ足で講義棟へと向かう学生たちが多かった。カニンガム婦人は勝手知ったる様子で講義棟の中を進んでいくと、『天文学講義室 教員控室』と書かれた標識の扉を叩いた。扉が内側から開くと、教員服をまとったエルザ師匠が立っていた。 「ごめんなさい、ギリギリだったかしら?」 カニンガム婦人はエルザから勧められた椅子に座った。 「いえ、講義まではもう少し時間があります。ラルフ、お前はこっちだ。」  エルザは部屋の壁に設けられた小窓を開けた。窓の先を覗くと、すでに学生たちで満員となった講義室の後方から全景が見渡せた。 「お前はここで講義を聴講してかまわない。ただし、何があってもこの部屋から出ないと約束しろ。」 私は何度も頷きながらエルザを見上げた。  エルザは講義用の資料を片手に、控室の扉へと向かった。 「カニンガム婦人、それでは、ラルフをお願いします。」 「任されたわ、エリザべス。あなたは講義に集中しなさい。」 エルザ師匠は頷くと、扉をくぐるときにもう一度窘めるように私の方を振り返った。  間もなく、講義室の教壇にエルザが立つのが見えた。エルザは巨大な黒板を背にまっすぐ背筋を伸ばして立つと、普段よりもさらに落ち着いた声で講義を開始した。 「皆さん、今日は私の講義に参加いただきありがとうございます。大学自体が新学期に入ったこともあり、私の講義に参加するのが初めての方もいるでしょう。ですから、今回の講義では最初に私の研究の概要について説明した後に、最近の研究結果について皆さんに紹介したいと思います。」  講義の時のエルザの声には透明感があり、部屋の隅々にまで響き渡るようだった。 「まず、ほとんどの皆さんにとって…」 エルザは教壇の上をゆっくりと歩きながら、講義室をぐるりと見渡した。 「天文学、あるいは宇宙物理学の講義に参加するのは教養課程の単位稼ぎの一つに過ぎないでしょう。」  学生たちの間からわずかに笑い声が上がった。エルザも苦笑を浮かべながら、軽く頷いた。 「その点については私も異論はありません。宇宙の法則を解き明かしたところで、それが私たちの生活の役に立つことは無いでしょう。しかし…」 エルザは教壇の端で足を止めた。 「古来、多くの科学者は皆共通の命題のために探求を行ってきました。『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』この命題を解き明かそうとする試みの中で、今の私たちは宇宙と呼ばれる途方もない大きな空間の中で、奇跡的に誕生した地球という星の上で生活していることを知りました。そこに至る過程はある意味で神と呼ばれる存在を問うものであり、私たち人類の存在意義を問うものでもあったはずです。」 言葉を切ると、エルザはもう一度講義室内を見渡した。 「この教室にあつまった皆さんは、これから国を、社会を発展させていく優秀な人材となっていくのでしょう。そのために、皆さんには、我々が立つこの世界の成り立ちについて、改めて認識していただきたいのです。今日の講義では、時間が許す限り、この世界の構造と、それをつかさどる法則を解説することにしましょう。」  そうして、緩やかにエルザ・ランディア教授の宇宙物理学の講義は始まった。残念ながら、幼い私にとってそこからのエルザ師匠の講義は難解で理解できなかった。ただ、講義中のある学生とのやり取りだけは鮮明に覚えていた。 「宇宙という空間は、」 エルザは黒板上に数式を書きながら解説を続けていた。 「誕生以来、今も膨脹を続けています。その膨脹のエネルギー源として提唱されているのが、『暗黒物質』あるいは『真空のエネルギー』と呼ばれる存在です。」 その話題になったとき、最前列に座る一人の学生が挑みかかるように勢いよく挙手した。 「先生の提唱される宇宙拡大論は論文で拝見しました。空に見える星が空間ごと地球から遠ざかり続けているという観測結果が出たとのことですが、その原因をいきなり目に見えない物質やエネルギーで説明しようとするのは短絡的ではありませんか?」  その質問を受けて、エルザは穏やかに頷いた。 「その意見は最もです。しかし、今私が口にした仮設の存在を示唆する観測結果が出ていることもまた事実なのです。時として、」  エルザは白墨を置くと、教壇に両手をついて講義室を見渡した。その時、一瞬だけ彼女と目が合った気がした。 「ありえないと思われていた仮説が事実であるということもあります。例えば、天動説も提唱された当初はでたらめな理論として学会から相手にされていませんでした。しかし、科学の発展とともに、いまや天動説は当たり前の事実として受け入れられています。まるで魔法のようにしか思えない事象も、科学によって記述されることがあるのです。他にも宇宙拡大説を裏付ける現象としては…」  エルザ師匠と学生たちとのやり取りは頻繁になり、講義室は熱を帯び始めた。その時の私にとっては、熱心に講義を進めるエルザ師匠は、教壇との距離以上に遠いところにいる存在に見えた。  講義の途中ではあったが、夕食の準備をするために私とカニンガム婦人は途中で帰宅した。私はカニンガム婦人の夕食の手伝いをしながら、彼女に自分がエルザの元で暮らしている理由を話した。私が両親を失ったいきさつについては単純に家が火事になったからだと説明した。それでもカニンガム婦人は私の体験に衝撃を受けたのか、目に涙を浮かべていた。  夕食の準備が一通り終わり、カニンガム教授とエルザを待つ間、私と婦人はお茶が乗った食卓を挟んでいた。 「大変な思いをしたわね。でも、エリザベスに救われたのは何よりの幸運だったわね。」  私は小さく頷きながら、あらためて自分が魔女と共に暮らしていることの奇妙さを感じていた。  カニンガム婦人は小さくため息をついた。 「実は昨夜、エリザベスから相談を受けたの。もし私たち夫妻も、そして本人も望むのなら、あなたをこの家に引き取ってくれないかとね。」  私は顔を上げてカニンガム婦人の顔を見た。  彼女は柔らかい笑顔を浮かべ、私の手を取った。 「どうかしら。あなたさえよければ、王都で、この家で私たちと一緒に暮らしてみない。」  正直なことを言えば、その時の私の気持ちにはわずかな迷いが生じていた。カニンガム夫妻の元であれば、平和で穏やかな暮らしが送れることは容易に想像できた。渡り烏への復讐を諦め、魔女の弟子としての鍛錬も辞め、エルザの元を去れば…だが、 「ごめんなさい、僕にはエルザ師匠の元にいなければならない理由があるのです。」  私はまっすぐカニンガム婦人の目を見て告げた。  彼女は私の視線に気圧されたのか、わずかに驚いたように目を開いた。だがすぐに穏やかな表情で頷いた。 「そう、ラルフ君、あなたはエリザベスのことを愛してくれているのね。きっとあの子も、あなたのことを…」  言葉の途中で玄関の扉を叩く音がした。カニンガム婦人は家主を迎えるために、立ち上がった。 「さあ、二人ともきっとお腹をすかしているわ。私たちで腕によりをかけたごはんで、二人を労ってあげましょう。」  そういって私の髪を穏やかに撫でた。  その夜もカニンガム教授とエルザは食卓上で熱心な議論を交わしていた。  私はエルザの横顔を眺めながら、先ほどカニンガム婦人に言われた言葉を思い返していた。  私がエルザの元にとどまると決めたのは、渡り烏に復讐するための力を得るためだった。それ以外にも理由があるとすれば、それは何なのか。答えの出ない思考を繰り返しながら、ふと、窓の外で何かが動いているのを見つけた。 「あら、猫かしら?」  私の視線に気づいたカニンガム婦人よりも先に、エルザは窓に駆け寄った。開いた窓から入ってきたのは、魔女集会への招待状を運んできた、あの目の大きな鳥だった。  エルザはすぐさま梟の足に括り付けられていた書簡に目を通すと、表情を一変させた。 「エリック、すまない。急用ができてしまって、今すぐ発たないといけなくなった。」  カニンガム教授はワインの杯を置くと、穏やかな声で返答した。 「気にすることはない、エリザベス。必要なことであれば、君の責務を果たすことだ。」  エルザは頷くと、大急ぎで荷物をまとめ始めた。私も着替えをまとめると、玄関を開けようとするエルザの後に続こうとした。 「だめだ。お前は残れ。」  エルザの固い声に、思わず私は足を止めていた。だが、その言葉で先ほどの知らせが何だったのかを確信した。 「渡り烏ですね。僕も行きます。」  扉の取っ手に手をかけたまま、エルザはまっすぐに私を見下ろした。 「そうだ。だが、今回は子供の出る幕じゃない。おとなしくこの家で待っていろ。片付いたらまた迎えに来る。」  そう言って、玄関の扉をくぐろうとした。その後姿を見た時、私は思わず、渡り烏が村を襲撃した夜、外の様子を見に行くと言って家を出ていった父親の背中を思い出した。 「いやです!僕も行きます!」  玄関を飛びだした私は、通りを早足で歩きだしたエルザの上着のすそを掴んで必死に着いて行こうとした。  エルザは足を止めると、膝を落として私の目をのぞき込んだ。 「渡り烏は危険だ。もしやつに遭遇しても、私はお前を守り切れないかもしれない。今のお前は、自らの力で自分の身を守れるのか?やつと、戦うことができるのか?」  エルザの口調は恐ろしいほど落ち着いていた。私はまっすぐエルザの目を見返しながら、震える声で答えた。 「できません、自分を守ることも、渡り烏と戦うことも。でもあいつは僕の両親を殺した…殺したんです!」  私をのぞき込むエルザの青い瞳が困惑するように揺れた。 「またちらついているのか…暗い魂の炎が。お前は、やはり…」 「ラルフ君!エリザベス!」  私を心配したのか、カニンガム婦人も家の外に出てきた。  エルザは立ち上がると、私をカニンガム夫妻の方へ向き直らせた。 「すみません、やはり、ラルフをしばらく預かってくださ…」 「連れて行きなさい。」 「…はい?」  婦人の意外な語調に、エルザは驚いているようだった。 「ラルフ君を連れて行きなさい。それが本人の望みよ。」 「しかし、今から向かう先は危険な場所で…」  婦人は手を上げてエルザの言葉を制した。 「正直、私はあなたがこれから向かう場所のことは知らないし、そこで待っている危険がどんなものなのかもわからないわ。だけど、ラルフ君にとってはとても重大なことだとわかる。だからエリザベス、あなたが守りなさい。それがあなたの務めよ。そして、」  婦人は今度は私の方を見下ろした。 「ラルフ ラングレン。あなたも男なら、自分の身は自分で守るように努力しなさい。いつかあなたの望みが遂げられるように、そして、」 彼女はしゃがみこんで私の手を取った。 「いつか、エリザベスのことも守れるくらい強くなりなさい。お互いがお互いを守りあえるようにね。」  私はその言葉を聞いて強く頷いた。  エルザはというと困惑しきっていたようだった。そこに、馬を引くカニンガム教授がやってきた。 「さすがのエリザベスも我が偉大なる妻クリス カニンガムの剣幕には形無しだったかな?私も妻と同意見だ。大人か子供か、力を持つか持たないかの判断ではない。本人にとっての問題か否かが最も重大なことだ。」  そう言うと、手綱をエルザに手渡した。 「子を持たない私たちには、親になる苦労は分からない。だが、この子は”自分の生き方を決める”ということに関しては、すでに立派な大人だと思うがね。」 「エリック、クリス…」  二人の名を口にしながら、エルザは手綱を強く握りしめると、意を決したように鞍にひらりとまたがった。 「着いてこい、聞き分けの悪い弟子め。渡り烏を追うぞ!」 「はい!エルザ師匠!」  私は緊張で身を固くしながらも、エルザの手に掴まった。  エルザはカニンガム夫妻に滞在の礼を告げると、馬に鞭を入れた。私たちを乗せた馬は夜の闇に沈む王都の通りを矢のごとく駆けていった。  後ろを振り返ると、坂の起伏で見えなくなるまで、カニンガム夫妻が私たちを見送り続けていた。
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