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3
うちで起きてる異常に誰も気付いてない。
私以外は。
玄関の見知らぬ靴もお風呂場の人影も見間違いで片付けようと努力したけど、その後も怪現象は続いた。
夜、トイレに立った時。
廊下に人の気配を感じ、振り向いても誰もいない。
学校から帰宅時、1階の和室から音がする。襖を開けて覗き込めば、誰もいないのにテレビが付けっぱなしになっていた。
朝、3人家族の食卓。1脚余った席に、お母さんが自然な動作で箸をおく。
「お母さん。そこ、誰もいないよ」
「え?」
お母さんが目を見開き、なんとも複雑な表情を見せてから取り繕うように苦笑いする。
「ごめん、ぼんやりして」
「しっかりしてよね、うちは3人家族でしょ」
お父さんは新聞から顔を上げもしない。
お母さんは困惑げに無人の席を見詰めている。
何かがおかしい。
狂っている。
うちに知らない人がいる。
「あ」
手の中のたまごが脆くも砕け、殻の細片がフライパンに降り注ぐ。
「また失敗……」
「どんまい、次があるわよ」
お母さんは優しい。
なかなか半熟の目玉焼きが成功せず、くり返し挑戦するダメな娘に根気強く付き合ってくれる。
もし本当にうちに何かがいて、両親に悪さを企ててるのなら……。
喉元にまで不安のかたまりがこみ上げ、ドロリとした黄身が絡み付く手を見下ろす。
うちに知らない男の人がいるなんて、誰にも言えるわけがない。
頭がおかしくなったと思われる。
寝苦しい夜だった。
私は何か、夢を見ていた。とても嫌な夢だ。夢の中の私は泣いて泣いて、何かから逃げて逃げて、苦しみもがいてやっと息を吹き返す。
電気が消えた暗い部屋のベッドの上、毛布は半ば床にずり落ちていた。パジャマは寝汗を吸ってびっしょり濡れている。
「はあっ、はあっ、はあっ……」
怖かった、とっても。まだ心臓がドキドキしてる。
なのに目が覚めた途端、キレイさっぱり内容を忘れてしまった。
身体がべと付いて気持ち悪い。パジャマを取り替えたい。顔も洗ってこなきゃ。
ベッドの柵を掴み、いざ床に降り立とうとした瞬間、部屋の入口に佇む人影に気付いた。
ヒュッ、過呼吸の発作に似た短い悲鳴を漏らす。頼りなく床をさぐる爪先を引っ込め、ベッドの端まであとじさる。
「誰?」
背丈と肩幅からして男の人だ。猫背かと思ったらそうじゃない、腰が曲がったお爺さんだ。
深夜、知らないお爺さんが私の部屋に立っている。
「あ、あなた誰ですか。どうして私の部屋に?どっから忍び込んだの、戸締りちゃんとしてるのに……」
お爺さんは何も言わない。ただ黙って隅っこに突っ立っている。
思わずその足元を凝視する。サイズは例の靴とほぼ同じ。
お爺さんがゆるやかに一歩を踏み出す。
「こっ、来ないで!」
圧倒的な恐怖に尖った声で制す。身体の芯から震えが沸き起こり歯の根が合わない。お爺さんは立ち竦み、虚ろな表情でこっちを見る。
「玄関に靴忘れたのも、お風呂覗いてたのも、全部あなたなの」
一体誰。
なんでうちに上がりこんだの。
目的は何。
疑問は殺到すれどもまともに質問できず、遂に恐怖が臨界点を突破し、叫ぶ。
「でてって!」
力一杯腕を振り抜き、たまたま手元にあった本をお爺さんめがけて投げ付ける。宙を飛んだ枕はお爺さんの頭にあたり、影がよろめいた。
精一杯の威嚇と反撃が利いたのか、何をするでもなくベッドの足元に佇んでいたお爺さんが漸く部屋から出ていく。
ノブに手をかけて振り返る目には、寂寥の色が滲んでいた。
ドアが開いてまた閉じる音を背中で聞き、毛布を被ってベッドに突っ伏す。
幽霊?
妖怪?
どうしてなんにも言わないの、一体あの人は誰なの、お父さんとお母さんはなんで赤の他人が潜り込んでも知らんぷりでほっとくの……
機械的な動作で空席に箸を配るお母さんを回想、心臓が止まる。
あのお爺さんは、ひょっとして「そういうもの」なの?
家の人が知らない間にこっそり潜りこんで、ちゃっかり紛れ込んでしまうような……たとえるなら座敷童の親類みたいな、そんな存在?
「待って、確か……」
毛布を羽織ったまま本棚へ近付き、分厚い辞典をめくる。
あった。
目的の項目を開くと、左側に版画の挿絵が掲載されていた。禿げ頭で着流しの老人が、日本家屋の縁側で茶を啜っている絵だ。
「ぬらりと手をすり抜けひょんと浮き、知らず知らずのうちに家宅に上がりこむ事からこれをぬらりひょんと称す……」
間違いない、うちにぬらりひょんがいる。
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