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6
「いってきます」
翌朝、ご飯を食べずに家を出た。
お母さんの制止を振り切り、お父さんが何か言いかけるのを無視し、玄関を出る。
小鳥の囀りが響く爽やかな朝、家の前を掃いていたご近所さんに笑顔で挨拶。
「おはようございます」
「おはようございます、今日もお元気ですね」
不自然なほどの愛想笑い。何故か敬語。
うちにはぬらりひょんがいる。お父さんとお母さんは隠しごとをしている。何でアルバムにぬらりひょんの写真があったのか、あのお婆さんは誰なのか、聞きたいけど聞くのが怖い。
早く学校へ行きたい、少しでも家を離れたい。学校に行けば大好きな彼に会える、もう少しで最高においしい半熟の目玉焼きができるから……
門の向こうの犬がうるさく吠え立て、集団登校の小学生たちがこっちを指さして笑いだす。
「ねー、あの人変ー」
「やだ、なんで制服着てるの気持ち悪い」
「頭おかしいんじゃねェの」
「孫の服借りパクしたの?」
中高生のグループが忍び笑い、あるいは気味悪そうに遠巻きにして囁き交わす。
私が歩くだけでみんなが避けていく、白い目で見る、ざわめきとどよめきが広がっていく……。
「あっ」
急によろけてその場に転ぶ。
咄嗟に手を付くものの右手首に激痛が走った。捻挫。
通学路の真ん中で転倒した私の耳を大音量のクラクションが劈く。
すかさず目の前に影が躍り出て両手を広げた。頭部のシルエットはたまごのように滑らかで―
ー「危ない!」ー
視界が暗転する。
玄関にあった男物の靴。
お風呂場の磨りガラスの人影。
空席におかれた箸。
ベッドの足元で私を見守っていた人。
ゆっくり瞼を上げると、懐かしい天井が視界に広がっていく。
「ここは……」
私は自室のベッドに寝かされていた。階下からお母さんの声がする。受け答えしているのは男の人だ。
「……ということは、お宅のお母様で間違いないんですね」
「ええ、はい。本当にありがとうございます、ご丁寧に送ってくださって」
「大分進んでる感じですが、施設にお預けになる気はないんでしょうか」
「夫と検討中ですけど、できるかぎりはうちで見てあげたくて」
「差し出がましいことを言いました。いえね、私の家内もそっちのケがありまして、なんだか他人事とは思えなくって」
「警察の方にまでご迷惑おかけして申し訳ございません」
「ご近所さんから通報がきたんですよ、子どもたちの登校時刻になると制服姿のお婆さんが公園でボーッとしてるって」
「学校までは行かないんです、途中でスイッチが切れるみたいで」
「あの服は?」
「娘のです。数年前に家を出た」
変なの、私はまだ家を出てないのに。
ベッドに仰向けて殺風景な天井を眺めている。鎮静剤でも飲まされたのだろうか、気分は落ち着いている。右手には清潔な包帯が巻かれていた。
「目が覚めたかい」
枯れた声にゆるゆる視線を向ければ、隣にぬらりひょんが座っていた。膝に例のアルバムが開かれている。
皺ばんだ手がページを滑り、どこかの展望台で撮ったらしい、仲睦まじい老夫婦の写真を指す。
「覚えてるかい。一昨年旅行した時の」
「……お爺さん、誰なの」
ぬらりひょんが静かに瞠目、感傷的に微笑む。
「下駄箱に靴をしまい忘れたせいで怖がらせてしまったね」
私は中学生だ。
こんな人知らない。
結婚なんてしてない。
してないんだから、いない。
存在を否定すれば、その人は見えなくなる。
「すまない」
お爺さんが湿った声で謝罪し、かさかさに乾いた私の手を包みこむ。
「どうして謝るの」
「君は悪くない。見えないのは君のせいじゃない」
階下から切れ切れに会話が響く。
お母さんが……あの子が泣いている。
「母はもうわからないんです。私の事も夫の事も……」
「付き添ってる旦那さんも?」
「父が一番可哀想です、存在まるごと忘れられてしまうなんて」
「まるごと、ですか」
「……恥ずかしい話ですが、父は以前浮気したんです。何十年も前に一度っきりですけど……自分を裏切った父のこと、母はまだ心のどこかで恨んでるんじゃないかって思うんです。父の浮気がバレるまでは本当に仲のいい夫婦だったんですよ、毎朝父の好物の目玉焼きを出して、きちんと半熟で」
ああ、そうだ。
半熟の目玉焼きをおいしく作れる子が好きだってあの人が言ったから、お料理頑張ったんだっけ。
「父に頼まれたんです。自分はいないことにして、お芝居に付き合ってくれって」
どれ位前だろうか、頭の中に盲点ができて大切なものを見失った。
忘れたくないことまで忘れてしまいことに飲み込まれて、私は迷子になった。
「食事は別にしてもらった。風呂の時間もずらした。なのにどうしても気になって、君を付け回した」
たまごの割れ目から透明な膜に包まれた中身が零れ落ちるように。
悪夢にうなされた夜に駆け付けてくれたのは、一番近くで見守ってくれたのは、私の記憶が手前勝手に取り零したこの人だった。
「お爺さん。私ね、本当は固焼きの方が好きなのよ」
この人のお嫁さんになりたくて、半熟の目玉焼きを一生懸命練習した日々を思い出す。
たった一度の裏切りで一生愛した人を消してしまうなんて、忘れっぽいにもほどがある。
「少しくたびれちゃった……」
「いいよ。眠るまでそばにいる」
眠りに落ちたら同じ事のくり返しだ。私は何度でも彼を忘れ、中学生に戻り、少女時代をやり直す。ただ無邪気に恋していられた、一番幸せだった頃に戻るのだ。
今そばにいる夫の事も、玄関先で啜り泣く娘の事も手放して。
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