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 背後から人が近づいて来る気配がして、少しの期待が頭をもたげた。  旭川課長――?  だったらいいのにとありもしない事を思いゆっくりと振り向くと、そこには俺が今朝ビンタした元恋人が立っていた。  え? 「ユキ。よくも大勢の前で恥をかかせてくれたな」  ぱしっという乾いた音の後頬に痛みが走る。  ――――俺――今叩かれた?  いきなりの事にびっくりして動けないでいると、元恋人はもう一発とばかりに手を振り上げているのが見えた。  俺は武闘派ではないし、殴り合う事なんてできそうもなかった。  怖くて身体が竦み逃げ出す事も叶わず、ぎゅっと目を瞑った。  が、いつまで経っても覚悟した衝撃はなく、薄っすらと開けた目に元恋人が腕を捻りあげられて地面に押さえつけられている姿が映った。 「え?」  元恋人を押さえていたのは課長だった。 「離せっ! 俺はユキとよりを戻したいだけだっ! 他人のあんたが口出すな!」 「――よりをと言うにはいささか乱暴じゃないか? 愛する人に手をあげるなんて……ありえない。これ以上ぐだぐだと言うんだったら警察を呼んでもいいが、それが嫌だったら二度と安藤くんに近づかないと約束しなさい」  静かな口調であったが、ぞっとするくらい冷ややかな目で元恋人を見る課長。  相当怖かったのか元恋人の顔は真っ青になっていた。 「――わ、分かった! 分かったから離せっ」  解放された元恋人は悔しそうに唇を噛むと、俺の事をひと睨みして逃げていった。 「安藤くん、ケガはないか?」  相手を気遣う優しい声だ。俺に向けられる課長のこんな声は初めてで戸惑う。 「……」 「あ……頬が――」  課長の冷たい手が叩かれて熱を持ってしまった頬にそっと触れた。  痛みにびくりと震えるが、課長の冷たい手の気持ちよさに思わずすりりと頬ずりをした。  ぴくりと震える課長の手。斎藤の頭を撫でていた大きくて骨ばった手。  心配してくれた事が嬉しくて、初めて触れてくれた事が嬉しくて、逃げていかない課長の手に僅かばかりの希望を抱く。  頬に触れている手を取りその手の平にそっとキスをした。  すると課長は素早く手を引っ込めてぎゅっと拳を握った。  俺からのキスが嫌だと言うように――。  ふいに現実に引き戻されてしまった。  男同士で痴情の縺れだとか……。ただでさえ嫌われているというのに、こんなところを見せた上に調子にのって手の平にキスするとか――。  課長が今どんな顔をしているのか、怖くて見る事ができない。  ビンタされたとこが痛む事より自分を拒絶された事の方がショックで顔が苦痛に歪む。 「――――安藤……くん?」  分かっていた事なのに……何で俺は――――。  課長の優しさにもしかして? なんて――。  勘違いして期待した俺がバカだったんだ。  俺は俯いたまま課長に助けてもらったお礼を言って、逃げるようにその場を後にした。  こんな事になって初めて自分の気持ちに気づく。  思えば最初から課長の事が気になっていた。  だけど最初から俺は理由も分からず嫌われていたから極力関わらないようにしてきた。  それなのに気が付くと課長の事を目で追っている俺がいて。  頭を撫でられる斎藤に心がざわついたり、自分にも笑いかけて欲しいって思ったり、もっと触れて欲しい――――なんて。  今日の事がなければ自分の気持ちにも、絶対に課長に受け入れられないのだと気づく事はなかったのに。  ――――本当、今日はついてない一日だった。
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