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ケンカ
「どうしたんだ」
「何が」
「何かあったのか」
「なんもねえよ」
沈黙。
俺は遊歩道には桜が植わっていたが、桜はまだ咲きそうにない。
俺はそき姉の車椅子を押しながら、
ほとんど何も喋らずに駅から公民館への遊歩道を歩いていた。
最初はそき姉も、梅はもう散ってしまったなとか、
平安時代と言えば桜より梅だったとかなんとか言ってたが、次第に話すのをやめた。
公民館の一室に着くと、俺は無言で乱暴に椅子に座った。
今日は花札をする予定だった。そき姉は前回カードゲームをしたのが新鮮で楽しかったらしい。
そこは大きな窓がある、何もねえ会議室みたいなところだった。
そき姉は無言で花札を鞄から出して机に置くと、ため息とともに言った。
「なあ」
「何だよ」
「君は先ほど、何もないと言ったが――――
何もないということはないだろう。
二月から三月に予定が伸びてしまったことについて、不満があるのか?もしそうなら謝るよ」
「そんなんじゃねえよ」
そき姉は札を箱から出し、机に並べている。
「ならば理由を教えてくれないか。
知っているかい。
ゲーテは人間の最大の罪は不機嫌であることだと定義したのだよ」
「じゃあセックスしてよ」
そき姉はゆっくりと目線を上げた。俺と目が合う。
「それはもっとお互いを知ってからと答えたはず――――」
そき姉がそう言い終わらないうちに、俺は椅子を思いきり蹴った。
「あっほらし。ばかみてえ。帰る」
「どうしたんだ」
俺は立ち上がってドアに向かった。
そき姉が車椅子を方向転換しながら俺を追いかける。
「花音」
名前呼ぶなよこんな時に。
俺は頭をガシガシ掻いた。
胸ん中は台風みたいに荒れてますますぐちゃぐちゃで、マジで惨めな気持ちになった。
本当は、今日も断るつもりだった。
けど会いたい気持ちにどーしても勝てなかった。でもいま、俺は過去の自分を殴ってやりてえと思ってる。
そき姉は出口のところ立ち塞がった。
「どけよ」
「別に帰るのならそれでもいい。
ただ、理由を教えてくれと言っている」
俺はそき姉のまっすぐな目にイラつきながら答える。
「もうイヤになったんだよ。それだけだよ」
「本当か?」
俺は目を背けた。
俺が本心ではそき姉に執着してるのがばれてるみたいで恥ずかしかった。
「いいからどけよ」
俺はそき姉をドアからどかそうと、車椅子の肘掛けを押した。
同時にそき姉が車輪を握る。
手で車輪を止めて、車椅子が動かないようにしてるのだ。
「バカやめろよ倒れるぞ」
「それはこっちの台詞だ」
俺たちは押し合ったままにらみ合った。
「理由を言え」
「ねえよんなもん」
「言うつもりないのか」
「だから何もねえっつってんだろ‼」
俺は叫んだ。
長い沈黙があって、いつのまにかそき姉は車輪を押さえる手を緩めた。
そき姉の車椅子がずるずると遠のく。
「わかった」
そう言ってそき姉は俯いた。
俺はドアノブに手を伸ばした。
そのときふと、今このままここを出て行ったら、もう一生そき姉には会わねえような気がした。
でもそれもどうしようもなかった。
そき姉はさっきからずっとこっちを見ない。
俺は唇を噛んだ。引き留められることもムカつくが、逆に止められないのは歯がゆいくらい悲しい。
何だよ。さっきまであんなに言ってたのに。
やっぱ本心では俺の事なんてどーでもいいんだこいつは。
俺はめちゃくちゃな気持ちでガチャリとドアを開けた。
外に踏み出し、扉を閉めようとした。
その時、そき姉の顔がちらりと見えて、俺は思わずドアを閉める手を止めた。
そき姉は眉間にしわを寄せ、口を引き結んで壁の一点を見つめてる。
いつも綺麗にまとまってる髪がぐちゃぐちゃになってる。
俺はその顔をよく知っていた。それは『寂しい』って時の顔だった。
俺は脱力した。
訳がわかんねえ。
なんだよ、なんでそんな顔すんだよ。
「ずりいだろ」
「何がずるいんだ」
そき姉の声は掠れてた。
「ずるいのは君じゃないか私には結局、君を強制的に立ち止まらせるすべはないんだ。
だからこうして私は君に懇願するしかない。
行かないでくれ、訳を言ってくれって頼むしかない。
それなのに君は一向に耳を貸さない。
もし答えてくれれば、私にも釈明の余地も改善も余地もあるかもしれない。
でも君はそのチャンスさえ私から奪う」
そき姉の頬は紅潮し、眉間には力がこもっていた。
こんなに必死で俺に何か言うそき姉を、俺は初めて見た。
おれは呻き、呟くような声で言う。
「……車椅子、押したのは悪かったよ。だから……」
もう懇願に近かった。これ以上そき姉と喋ったら、俺は――――。
「なあ」
そき姉の声が、俺の心臓をさわりと撫でる。
「きみと会うのが楽しいと思っていたのは、私だけだったのかい」
何かがぷっつりと切れた。マジでもう限界だった。
「何だよ。何なんだよ――――マジであんた何考えてんのかわかんねえ」
そき姉は怪訝な顔をした。
「それはこっちの台詞だが」
「だって!」
俺は震える声で叫んだ。
「そき姉は俺のこと無視したじゃねえか!
ぜったいあのとき目合ったのに。
同僚がいたからだろ。
俺なんかと知り合いってばれるのがイヤだったからだろ」
そき姉は目を見開いてこっちを見てた。多分呆れてるんだろう。
でももう止まんねえ。
「だいたい俺の事なんて本心ではキモいって思ってんだろ!?
女なのにそき姉とセックスしたいとか、
男の格好してることとか、
きもちわりい、死ねよって思ってたんだろ?
馬鹿にしてたんだろずっと!
言えよ、ちゃんと!」
息を切らしながら最後の言葉を言い終わると、今度は土石流みたいに涙がこみ上げてきた。
俺は嗚咽とともにぼたぼたと涙を流した。
マジでさいあくださいあくださいあくだ。
俺はフリースの袖で顔を乱暴に拭った。
そき姉はしばらく黙っていた。
そして俺の嗚咽が収まってきたタイミングで、ゆっくりと口を開いた。
「花音君」
「名前で呼ぶな豚女」
俺が睨むと、そき姉は真剣な目で見つめ返してきた。
「言ったはずだ。自分のことを傷つけるようなことを言うなと」
「はぁ?」
「気持ち悪いとか、死ねとか。頼むから、そういう言葉の刃を自分に向けるな」
「うるせえ。なんであんたにそんなこと言われなきゃなんねえんだよ」
「それは――――私が悲しくなるからだ」
そうそき姉は言うと、そき姉は春の日差しみたく微笑んだ。
そき姉は車椅子をカラカラと前に進めながら言った。
「君の言い分はわかった。
とりあえず外へ出よう。
ここは息が詰まる」
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