残暑と立秋

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残暑と立秋

ピンポーン、という間の抜けた音がして、フロアを示す数字が点滅する。 十二階。ちなみにここは一階だ。 いれはいらいらした。 おっせえよ。一階につき何時間止まってんだよ。 おれは耐えきれず階段を駆け上がった。 六階まで駆け上がると、おれはそのまま廊下を走ってそき姉のネームプレートを見つけ、急停止しながら病室に転がり込んだ。 「そき姉」 「花音。どうしたんだ」 カーテンは開いていて、そき姉は目を丸くしてた。 病院っぽいピンクの着物みたいなのを着て本を手に持ってる。 腕にくっついた点滴が痛々しい。 俺は咳き込みながら言った。 「どうしたって、ケータイに電話してもつながんねーから家に電話したんだよ。 そしたらここの病院に入院してるって ……つかそき姉クソ痩せたんじゃね? 大丈夫か?」 「大丈夫だ。だが体重は確かに落ちた。 しばらく何も食べられなかったからね」 「マジかよ」 顔が驚く程やつれてるし、青白い。 俺はそのまま視線を下げ、そき姉のおっぱいを見る。 マジかよ。俺はショックでそこから目が離せなくなった。 国宝級のおっぱいが小さくなっていた。 「確かに胸も小さくなったが、 ブラをしてないから下がって小さく見えているのだよ」 「は⁉見てねえし」 俺は側にあった丸椅子をギギギっとひっぱってきて、 そき姉のベッドに寄せた。 「つかなんだよ、どうしたの」 「別にたいしたことじゃない。熱中症だ。 ただ、自分で対処で対処できるレベルの見極めを誤った」 「はあ?熱中症ってあれだろ、 暑いときにクラクラするやつだろ?入院する程なの?」 「私の場合、自宅で意識を失っていたのだが、 そこまでいくと肝機能がやられる。 肝機能は一度落ちるとなかなか快復しない。 肝臓は解毒に関わる器官だから、ここがやられると体力もなくなるし食欲もなくなる。 数年前も同じような症状になったことがあったのだが、 ここ最近は平気だったから油断していた」 「はっ⁉意識失ってた?やばいじゃん。寝てろよ」 俺が布団を掛けようとすると、そき姉は弱々しく笑った。 「普通にしている分には大丈夫だ。 それより君の方こそ大丈夫かい。 外は暑かったろう。 何ももてなしができずに申し訳ないな。 そこにお菓子や果物があるから自由に食べてくれ」 「いらねーよ」 「まあまあ。リンゴでも剥くか?」 「いいから動くなって」 「じゃこれはどうだ? レーズンサンド、なかなかお高いやつだぞ」 俺はパッケージに包まれた分厚いクッキーを受け取った。 受け取らねえと永遠に勧められるパターンだと思ったからだ。 俺はちらりと土産物の山を見る。 そき姉は言う。 「ああ、他のものがよかったら何でも取っていいぞ」 「ちげえよ」 おれはコンビニのビニール袋を握りしめる。 クシャリと音がして、そき姉が俺の手元を見た。 「なんだいそれは」 「なんでもねえ」 「もしかして――――お土産かい」 おれはため息をついた。 観念して中のもんを取り出し、そき姉の膝の上にのせた。 ブラックサンダーと、ラップで包んだ白いおにぎり。 俺は投げやりに言った。 「そき姉が白米が好きって言ってたからさ。 家で適当に握ってきた。 ラップの上から握ったから腐ってねえと思うけど。 でも食欲ないならいいから――――」 そう俺が言い終わるか終わらないかのうちに、 そき姉はラップを開け、おにぎりを一口食べた。 「うむ。塩がしっかり利いていてうまいな」 「むりすんなよ」 そき姉はにこりと笑った。ありがとう、後で食べさせて貰うな、と言っておにぎりを棚に置く。 そして、ちょっと横になって良いか、と言った。 俺はあたりまえだろ、と言って身体の移動を手伝った。 横になってしばらく黙った後、そき姉がぽつりと言った。 「約束を守れずすまないね」 「いいって」 「手紙にも書いたが、また涼しくなったら――――」 「ああ。それなんだけどさ」 俺はそき姉の言葉を遮る。俺はごそごそと座り直して咳払いをした。 病室の外を誰かが歩く音がする。 「あのさ―――― 俺この前、おじさんとおばさんに会ったって手紙に書いたの覚えてる?」 俺は大きく息を吸って喋り始めた。 「ああ」 「その二人は田舎で工場やっててさ。 子供はいなくて。いいひとでさ。 小さい頃はけっこうしょっちゅう遊びに行ってた。 それでこの前会ったとき―――― 卒業したら、こっちに来てうちで働かないかって言われたんだ」 部屋の奥の大きな窓から、カーテンごしにも夏らしい強い光が差し込んできてる。 そき姉は半分閉じた目でこっちをじっと見つめている。 「なるほど。君はその申し出を受けたのかい」 俺はだまって頷いた。そんで言い訳するように早口で喋る。 「前から何度か言われてたんだ。 冗談みたいに、こっちに住んだらいいのにって。 でもずっと無理だって言ってた。母さん達いるしって。 でも気が変わったんだ」 そき姉は目を瞑った。 いつもつやつやの唇が今日は乾いてる。 そき姉はゆっくりと口を開いた。 「そうか。出発はいつだ?」 「八月にはあっちに行くんだ」 「すぐじゃないか。学校は?」 「あっちで卒業する」 「そうか。それは慌ただしいな。準備も大変だろう」 俺は曖昧に頷いた。 本当は荷物なんてないから、準備なんてすぐ終わる。 俺は努めて明るく言った。 「ああ。でもそんな遠くないしな。 そき姉にも、会おうと思えばいつでも会えるぜ」 「ああ、そうだな」 「ネギも送るよ」 そき姉が、ありがとう、と少し笑って、それから俺たちはしばらく黙った。 俺は言わなきゃいけない事を言ってほっとしたのもつかの間、 すげー落ち着かない気持ちになった。 そき姉がふう、とため息をついてから呟いた。 「君が引っ越してしまうことは寂しいが―――― 君が決めたことなら、それがいちばん良い道なんだろう。 応援するよ」 「ああ」 「ただ――――残念だな。 今私はこんな状態だし、君になにも餞別を用意できていない」 いらねえよそんなもん、といいかけて、俺はふと止まった。 「じゃさ、その代わりに……って言ったらアレだけど」 「なんだ?胸か?」 「ちげえよ」 「違うのかい」 そき姉が目を丸くする。 「驚きすぎだろ」 「いや、前回会ったとき、 君がすごく名残惜しそうな顔をしていたものだから」 俺はちょっと下向いて舌打ちしながら、ぽつりとつぶやく。 「……」 「ん?」 「キス……とか」 「……ほー」 そき姉は口を丸くぽかんと開けて、その『ほー』を発音した。 「なんだよ」 「いや、今頃そうきたか、と思ってね」 俺は椅子の上でもぞもぞと座り直す。 「いやだってさ。 よくわかんねえけど俺らずっと会ってて…… でもなんか全然あれじゃん。 なんか全然それっぽいことしてねえなって」 「それっぽいとはなんだ」 「恋人……っぽいことっていうか…… あー今のなし!やめ!つうか病人に触るとか無理だしな!」 俺は耳まで赤くなる。 そき姉が今どんな顔してんのか見るのも恥ずかしかった。 でも、そき姉から顔を背けた俺に向かって、彼女はぼそりと言った。 「そうか。それは残念だな」 「え?」 おれは頭をぐるっとそき姉の方に向けた。 「今……は?残念っつった?今」 「気のせいだ」 「言ったろ!!」 そき姉はやつれた顔で目を瞑りながら、くくく、と笑う。 やっぱ冗談かよ、と俺が半分安心、半分残念に思ったとき、 上半身が引っ張られる感じがして、おれはそっちを見た。 見るとそき姉が俺の服をつかみ、軽く引っ張っている。 おれは黙って、そき姉の顔の側に椅子を引いた。 椅子の脚の長さが違うのか、椅子はガタガタと揺れる。 俺はベッドの上に覆い被さるようにそき姉を見た。 そき姉の顔が毛穴まで見えそうなくらい近くにあった。 俺は興奮するより先に、やっぱ痩せたなあと思う。 肌が白いのとおり超して、目の周りとか青いもん。 俺が黙っていると、そき姉が目を開けていたずらっぽく笑った。 「なんだ。しないのか?」 おれは一瞬言葉に詰まってから言った。 「だって……いいのかよ」 「なにがだ?」 「だって、そき姉はストレートだろ」 そき姉も一瞬間を開けてから言った。 「いや、私が言うのも何だが。 このシチュエーションにおいて、その質問は若干野暮なのではないかい」 それにやはり今更という気がするよ、とそき姉は言う。 「でもさ。おれはそき姉の嫌がることはしたくねえし」 「ありがとう」 「……で、どうなんだよ」 「見ればわかるだろう」 「わからねえよ」 そき姉はしばらく黙って、くっくっく、と笑った。 「君、わざとだな」 おれも笑ってた。お互いに内緒話するときみたいに。 俺はそき姉の手を取った。その手がピクリと震える。 「目、瞑れよ」 そき姉は微笑みながら、おとなしく目を瞑った。 真っ白な肌にキリリと揚がった眉毛。 緊張しているのか、ちょっと赤い耳。噛みてえ。 俺はゆっくりとそき姉の頬に自分の頬を寄せた。 そんで頬が触れるか触れないかくらいの位置で、耳元で軽く音を立てる。 俺がそっと顔を離すと、そき姉も目を開けた。 「キスじゃないのか」 「キスだろ」 「まぁそれもそうか」 そき姉は、フランス式のキスだな、と独り言みたいに言う。 俺はその弱々しい声に気持ちが揺らいだ。 いま、そき姉をここに置いていきたくねえ。 でも俺はあえて視線を逸らした。 ダメだ。ここに居続けたら決心が揺らぐ。 「じゃ、おれそろそろ行くな」 俺がそう言って、立ち上がろうとした時だった。 そき姉が、俺の腕をすごい強さで引っ張った。 次の瞬間、歯になんかががつっと当たった。 俺は思わず目を瞑った。 それから目を開け、今の状況を鑑みた。 そき姉とキスしてた。 何度かしたと思う。 周りの時間は止まってた。 俺の心臓も。 わかんなかった。 何が起こってるのか。 そき姉の唇の感触は思ってたより全然熱かった。 いや、これは俺の地が沸騰してんのか? わかんねえ。 何もわかんねえ。 俺は必死でそき姉の唇の感触をむさぼった。 そき姉はしばらくして口を離したが、熱い息は余韻のように二人をつなぎ止めていた。 時間がゆっくりと、思い出したように動き出す。 「さみしくなるよ」 そき姉はキスの距離のままささやく。 湿っぽい息が俺の首筋を熱くした。 近すぎて表情は見えない。 いろんな感情が俺の胸を通り過ぎて、胸んなかは大穴が空いたみたいになる。 「……」 そき姉。ありがとう。 そう俺は言いたかったけど、泣くのをこらえてたから声は掠れて、 上手く伝わったかどうかはわかんねえ。 そき姉は俺の髪をゆっくりと、ずっと撫でていた。
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