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私の独り言 【そき姉視点】
俺は夢を見ていた。誰かが俺の髪をすうっと撫でる夢――――。
かわいらしい頬が、腕に圧迫されてぷにっと外側にはみ出している。
邑楽花音は図書館のテーブルに突っ伏して、
組んだ腕の中に自分の顔を埋め、爆睡している。
彼女の隣は、私がすぐに入れるように椅子がどけてある。
私は車椅子をそこに移動させ、持ってきた本を静かに机に並べる。
それから、少し申し訳ない気持ちで彼女を眺めた。
私が長いこと本を選んでいたから、彼女は手持ち無沙汰になって寝てしまったのだろう。
私は図書館の入り口の方に視線を向けた。
入り口に面した壁は一面がガラス張りになっていて、とても明るい。
まして今日は天気も良いし、昼寝には丁度良い環境が整っている。
私はしげしげと彼女を見つめた。
ズボンのスエットは毛玉がたくさんついている。
赤いパーカの汚れた袖口。
組んだ腕から覗いている指の爪は、短すぎるくらいまで、
ぎりぎりまで切りそろえてある。
顔の皮膚は日焼けしていて頬はリンゴのように赤く、
額と眉間にうっすらと皺が寄っている。
目尻に小さな傷があるのは、赤ん坊の頃に犬に引っかかれたのだと、
彼女が言っていた。
私は彼女のまとう景色の一つ一つを見ることに、すっかり集中していた。
普段ならこうはいかない。
彼女は他人の視線に対し、強い拒否反応を持っているからだ。
私が少しでも彼女に目を向けようものなら、
「なんだよ」とばかりに舌打ちし、私をじっと睨み返してくる。
私は静かにため息をついた。
彼女の外見は、彼女のことを語りそうで語らない。
なぜなら私は彼女の生い立ちや生活について、ほとんど何も知らないからだ。
彼女の言う『クソみたいな暮らし』がどういうものなのかについて、
私の知識はあまりにも乏しい。
彼女と付き合いだしてから、私は彼女を知るのに役立ちそうな本を数冊読んだ。
もちろんそれぞれの本はためにはなったが、
彼女を知る手がかりとなったかどうかは、正直微妙なところだ。
めったに行かないコンビニにも行って、彼女が食べていた、
ピンクの色のついたゼリーも一口食べてみた。
だが一口で食べるのを止めた。
舌がしびれて、変わった後味がしたからだ。
だがまあ、彼女とは味の好みさえ、
ここまで違いがあるのだと言うことを体感できたことは、
無駄では無かったと思う。
あるとき、彼女がバイト先で言われたという
心ない言葉などに驚いて閉口していると、彼女は言った。
「そんなのよくあることだぜ。
そき姉ってさ、なんかどうでもいいことはよーく知ってんのに、
世の中の当たり前のことを知らないときあるよな」
私は正直、この言葉には若干腹が立った。
そんなことは無い。
私は私なりに世の中に関わっている、
と自己弁護が口まで出かけたが、そのときふと、
確かにそうだな、という気がした。
私は彼女の見ている世界につて、ほとんど何も知らないのだ。
ついこの前、障害を持った人同士のイベントに行ったときも、私はなんとも言えない気持ちになった。
イベントには自分よりはるかに重い障害を持った人達もいた。
働いている人もいたし、結婚して家庭を持っている人もいた。
皆沢山の悩みを抱えながら生きていた。
別に障害を比べるつもりはないし、
どう生きていたらえらい、ということは無いのだろうと私は常々思っている。
たが、皆と別れると、楽しい気持ちは鳴りを潜め、
焦燥感のようなものが胸にじわりと広がった。
私は自問していた。
私は今、本当に自分らしく生きていると言えるだろうか、と。
となりのテーブルに大きな体格の男性が座った。
新聞をばさりと捲る音がして、私は少しドキリとする。
だが、邑楽花音は微動だにせず目をつぶったままだった。
私はほっとして、また彼女を見つめた。
邑楽花音の前髪が、うっとうしそうに目にかかっているのを見ていたら、
私はだんだんと、それを除けたい衝動に駆られた。
私はそおっと彼女の顔の前に手を伸ばし、逡巡する。
触れたら彼女は起きてしまうだろうか。
やめろよって怒られるだろうか。
きもちわりいなって言われるだろうか。
柔らかい日差しの中で、私は前回会ったときの、
彼女との会話を思い出すともなく思い出していた。
彼女が「週に七日働いている時もある」と言った時だ。
私は目を丸くして、「すごいね」と言った。
彼女は「はあ?」と恥ずかしそうに言って、キャップを目深にかぶった。
そして怒りを含んだ声で言ったのだ。
「貧乏がそんなに面白いかよ」
「いや本当に尊敬する」
「馬鹿にすんなよ。金持ちの嫌みにしか聞こえねえよ」
「嫌みではない」
「本当かよ」
「本当だ」
「何度も言う方が白々しいって」
「そういう考え方もあるな。しかし、本当のことだ」
「あーもううっせえ!だからなんで何回も言うんだよ」
「わかってほしいからだ」
「だからうるせえって」
「そうか。でも本当だぞ」
正直、彼女と話していると、私はしょっちゅう途方に暮れるのだ。
普通に話しているつもりなのに、なぜか意図が微妙に伝わらない。
それは、君の周りの人間が全ての物事に対し、
そんな風に君に接しているせいなのだ、とわかるまで、私にも少し時間が必要だった。
彼女は黙って口をとがらせ、泥だらけのスニーカーをぶらぶらとゆらした。
それから私の方を見ずにぼそりと言った。
「わかったよ。もう言うなよ」
私は彼女の焼け付くような、それでいて熱っぽいような視線を想った。
ふいに、自分がこの子に特別な感情を持っているのだと言うことをはっきりと自覚する。
それは、裏路地でこの子に会ってからずっとだ。
同時に私は、少し申し訳ないような気持ちも感じた。
私は特別ではないし、偉そうにものを言えるような人間でも無い。
私は君に値する人間だろうか、と考えるのは逆におこがましい気もするが――――
私は彼女の髪を額からどけようと、手を伸ばした。
だが寸前で手を止めた。
寝ている間に触るのはフェアじゃない。
彼女が起きるまで、もう少し、この時間を楽しんでいよう。
わたしは静かに、テーブルに積み上げた本に手を伸ばした。
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