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そき姉の好きな場所
「おお、よくぞ辿りついてくれた」
そう言われて視線を上げると、そき姉がいた。
ピカピカのうろこに覆われたみたいな、ドームが建物の前に、女は立っていた。
会う前はクソほど文句をぶつけてやろうって思ってたのに、車椅子の上で揺れるおっぱいと、すげー笑顔を見たら、口ん中まで出かかってた「ふざけんなよ」っていう文句が喉の奥に引っ込んじまった。
ずりい。
それと同時に、俺は一瞬面食らってた。
そき姉の視線が低い。
車椅子だから当たり前だけど。
俺は車椅子に乗ってその辺を移動するそき姉をまじまじと見たことが無かった。
いつも、そき姉はすでにテーブルについて俺のことを待ってたから。
でも、今真っ正面から見てみると、やっぱ変だ。
変って言うか、なんか見ちゃいけないもんを見たって感じ。
そういやそき姉はここまで何で来たんだ?金持ちだから自家用車?てか車椅子ってふつーの車に乗れんの?
俺がそんなことを考えながらぼーっとしていると、そき姉が車椅子を方向転換しながら言った。
「では行こう」
「ちょっと待てよ。待ち合わせ場所、図書館かよ。話が違え」
「お互いをよく知るための場所だと言ったろう」
「つうかさ。待ち合わせ場所を暗号にするのはマジでやめろよな。なんだよあの若葉マーク。時計のマークと番地はかろうじてわかったから来れたけど、普通わかんねえからな」
「あれは図書館の――――本のマークのつもりだったのだが。わかりやす過ぎてもつまらないだろう」
「そういう配慮はいらねえ」
「ここなら君の好きな本もきっと見つかるさ。それに、なにより私はこの場所が大好きなのだ」
そき姉はテンション高めにそう言いながら、さっさと入り口の自動ドアをくぐってく。俺は舌打ちしながらその後ろについてく。
そき姉が最初に車椅子を横付けしたのは推理小説の棚だった。
おれはそこからそき姉にいわれた本を何冊か本を取る。
そき姉はありがとう、と言って中をパラパラと確認し、それを次々とトートバッグの中に入れていく。
この女、本何冊借りるつもりだ?
そき姉といるとめんどくさいんだな、と俺は心の中で思う。
でもそんなにヤじゃない。
なんでだろう。
そき姉の言う「ありがとう」が、なんかエロいからかな。
そき姉はまた違う棚に移動した。俺はさっきと同じように本を渡した。
でもすでに図書館に飽きてきた。
俺は仕方なく、その辺にある本を手に取ってパラパラと捲った。
すると不意に、そき姉がのぞき込んで、小さな声で聞いた。
「へえ。君は和泉式部日記に興味があるのかい」
「ちげーよ、マンガだったから手に取っただけ」
俺はそう言って本を閉じたが、そき姉はそれを受け取り、なぜか嬉しそうにページをめくった。
「私は和歌も好きでね。彼女はこの時代、モテモテで色っぽいと評判の女性なんだ」
そう言ってそき姉はにこりと笑った。色っぽいのはそき姉だけど。
俺は今日もぱっつんぱっつんの胸元に目を遣る。
やっぱでけえ。いつもと違って、上から見るおっぱいもなかなかくるもんがある。
「和歌も女性らしい余白があって素敵だぞ。ほらこれとか」
「興味ねえ」
「君は私と親交を深めるために文通という手段を選択しているんだろう。
この時代は関係を持つまでは文通が唯一のやりとりだからな。
何か学ぶことがあるかも知れないぞ」
俺は片方の口を口を半分だけ持ち上げ、鼻を鳴らす。
「ねえよ」
「そうかい?私がその気になるかもしれないよ」
その手には乗らねえと思ってても、俺はつい話を続けてしまう。
「つか古典とか外国語と一緒だろ」
「いやいや君。
そうはいっても日本で作られた作品だから、今の風景と通じるところは確かにあるんだよ。
自分の知っている分野の英文は、単語をよく知らなくても内容がわかることがあったりするだろう。まさしくそれだ」
まさしくどれだよ。俺はあくびをかみ殺して身体の重心をずらす。
今日はそき姉の探偵ごっこに付き合ったせいで、無駄に歩いて足も疲れてる。
でもそき姉はそんなことお構いなしで目をキラキラさせ、ページを捲りながら言った。
「たとえばこれだ。
――――黒髪の 乱れも知らず打ち伏せば まず掻きやりし人ぞ恋しき――――な?」
「な、じゃねえよ。わかんねえし」
「この詩の主人公は、黒髪がぐちゃぐちゃになることもいとわずに突っ伏して泣いている。
その時ふと思い出すんだ。
以前この髪をかき上げてくれた人の手のぬくもりを」
「髪をかき上げてくれたって、セックスの時?」
「そうかもしれんな」
「ふーん。エロいな」
「だろう」
そき姉はいつもと変わらない笑顔で爽やかに頷く。
「これもなかなかだぞ。
――――今はとて 立つ霧さへぞあわれなる ありし朝の夜に似たれば――――」
「どういう意味だよ」
「今は霞を見るだけで、心に深く感じ入るものがある。それは逢瀬の後の朝に似てるから――――と、こんな意味だな」
「逢瀬って何だよ」
「現代的にはデートだが、古文的な意味では朝帰りというやつだな」
「昔も朝帰りしたのかよ」
「そうだ。男が女の家に夜行って朝帰ってくるのが作法だ」
「ふーん……なー、こんなエロい詩作ってどうすんの?」
「恋人に渡すのだ。
昔は電話もメールも無かったから、この詩のやりとりだけが恋のきっかけだったんだね。うまい詩を書いて初めて応じてもらえるのだ」
「へー。じゃ俺、平安時代絶対行きたくねえわ」
そう言うとそき姉はあはは、と笑った。そして本をまた俺に手渡す。
「よかったら君もこれを借りて読んでみたらどうだ」
「え?いーよ俺は。めんどいし。図書館なんて来ねえし」
「君が読み終わったら私が返しに来よう」
「いいって」
「私は君に好きな本を教えて欲しいと言ったね。
その質問を変えよう。
この中から好きな詩を3つ選んでくれ。そしたらそれを答えの代わりとしよう」
おれは渋々本を受け取った。
まぁ、マンガも書いてあるしその部分だけ読めば良いか。
そき姉はその後も本を見たいというので、俺は先に席を取っておくことにした。
おれは図書館の二階にある、吹き抜けに面したカウンター型の席を二人分取った。
ここなら椅子をどければ、そき姉も車椅子のまま座れる。
図書館なんてガキの頃以来だった。
静かだ。そんで暖けえ。
不思議な感覚だった。
保育園の時、バスを待ってるときにひとりで笹舟を水たまりに浮かべてたことをふっと思い出す。
この前路地裏で死にかけたとき、いっそこのまま死にてえって思ったけど、やっぱ取り消し。
死ぬときくらいこうやって暖かいとこで静かに死にてえわ。
でも俺にはデカすぎる夢かな。
おれは吹き抜けから一階を見下ろす。
白いシャツや黒いセーターを着た、全体的に真面目そうな奴らばっかりだ。
全員椅子やソファに座って、本を読んでるか勉強してる。
くっちゃべってるやつなんかいやしない。
俺はその光景を、動物園の動物を見るみたいにぼーっと見ていた。
あんまり暇すぎて、眼鏡をかけてる奴の人数を数えてると、だんだん気が遠くなっていった。
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