包丁使って

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包丁使って

 びゅぅっと冷たい風が通り過ぎている。 季節は冬。春はまだ遠い。 このご時世なのにリモートワークという訳にもいかず、電車に乗ってやっと家の最寄り駅に着いたのだ。 (はぁ、腹減ったな。 今日は温かいおでんが食べたいな) 家では妻が待っている。 妻は今、妊娠中で産休をとっている。 初めての子だ。 そしてつわりに苦しんでいる。 (ご飯の匂いは駄目だったんだよな。 おでんの匂いは大丈夫だろうか) オレは冷蔵庫の中身を考える。 身重でつわりの妻に、ご飯を作らせるのは酷だ。冷凍のおでんの具材をおでんの素で 煮るぐらいならできる。ご飯も炊ける。 味噌汁はインスタントですまそう。 うん、それでいこう。 俺はそんなことを考えながら家へと着いた。 寒さのあまり、手がぶるぶると振るえる。 鍵穴に鍵を入れて回すのも億劫だ。 そしてやっと玄関に入ってドアを閉める。  家の中は真っ暗だった。 リビングに通じる廊下のドアの先も灯りが 点いていない。 「ただいまぁ」 返事もない。 もしかして、身重の妻に何か起きたのだろうか。 俺は廊下の灯りを点けて、ドアを開けた。 すると、ぼぉっと光っているところがある。 キッチンだ。 俺はリビングの灯りのスイッチを点ける。 そしてそこにいたのはーーー 「おい、お前。何やっているんだ」 ドスっ 何かが割れる音がして辺り一帯に飛び散る物があった。 俺はキッチンにかけよった。 そこには妻がいた。身重な妻が。 「あら、あなたお帰りなさい」 振り返った妻の胸は濡れていた。 キッチンには無残にも割られたスイカが転がっている。 妻は口の周りを真っ赤にして汁をしたたらせながらニィっと笑った。 俺は叫んだ。 「お前何しているんだ。 つわりでスイカしか食べられないのは分かるが、丸ごとを自分の巨乳をぶつけて割ったのか? 確かにお前の胸は普通より大きいが、 包丁でちゃんと切ってくれ」 すると妻はぐすんと泣いて 「だって切っている間にもつわりが酷いんだもん。冷たい人ね」 俺はスイカが飛び散ったキッチンに呆然とするのだった。 了
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