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春の陽気
小学生の私はすでに感情の抑制に成功していた。なのに、私は春巳の言動に反応してしまう。
「ここから見える空は真っ青だけど、視界に入らないところも雲がないと思いますか」
アシスタントとしてやってきた日のこと。春巳がそう言ったせいで、休憩がてらお茶をすすっていた私は吹き出しそうになった。
なんとなしに「今日は快晴ね」と話しかけたら、春巳にまどろっこしく返されて、なぜか私のツボに入ってしまったのだ。
不意討ちをくらって無念の死を遂げる武士のごとく恨みが沸き起こった。
「なら、確認しに行こう」
憤る感情も抑えられないまま、私は春巳をしたがえてマンションの屋上に向かった。
外に出ると、陽光に目がくらんだ。
まるで恋にときめく乙女のようなまぶしさで、目を反らしたくなる。
「雲、ありましたね」
春巳は霞んでいる遠くの山を指差した。丸っこい目を輝かせている。
心の波がふいに立ち上がった。子どもみたいに喜ぶ彼に私はサラカミくんを見た気がしたのだ。
「快晴の定義は雲の量が一割以下。だから快晴だよ」
私は指摘して、速やかに部屋へと戻る。これ以上心の波を荒立てたくなかった。あのバレンタインの日に凪の心を完遂した私は、感情を乱したことを信じたくなかった。春の陽気に狂っただけかもしれないとおもった。
でも、それからも、私は春巳の発言に揺さぶられることになる。始めは不快だった。今日こそはと敵に勝つつもりで相対しても、隙を突かれて崩れてしまうことが続いて悔しかった。
そんな嫌な相手と結婚してしまうのだから人生わからないものだ。嫌よ嫌よも好きのうち、なのか。春巳と闘う日々がいつしか――、私の楽しみに変わっていて、離れられなくなっていた。今日はどんな爆弾を投げてくるのだろうか、私はどんな反応をしてしまうのか、と期待せずにはいられなかった。春の陽気で頭がおかしくなったままだったのかもしれない。
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