土と鶴

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急に目の前が真っ白になった。腹を何かに思い切り締められ、岩場にたたきつけられる。 気が付くと鶴は、縄ひとつで宙に 浮いていた。なんとか首を上に向け、辺りを見回すと、最初にいた場所から数メートル下に鶴はぶら下がっていることに気が付いた。 鶴はその時ようやく、男が縄の反対側をまだ持っていたことを知った。 男は縄を持ち上げ、ゆっくりと鶴を引き上げた。その途中で、鶴は再度足場を探した。 「反対側からもう一度登る」 「もうやめろ」 そう言いながら、男が縄を引っ張った。鶴は自分の腰の縄と、男の顔を交互に見た  男はしっかりと縄の端を握って、鶴が動くのを許さないようだった。 鶴は少し考え、腰の縄を解こうとした。男は慌てて縄を緩める。 「おい外すな」 「じゃ黙って見ていろ」 そのまま死んだら元も子もないだろう、という男の声を、鶴は無視した。 鶴はまた足場を探しながら、苦痛に顔をゆがめた。岩に打ち付けられた四肢は、皮がずる剥け、そこらじゅう痛んだ。手足は震え、柔らかだった指先の皮は浮いていた。 しかし鶴は進むのを止めなかった。慣れてきたせいか、最初よりは登りやすいとさえ感じた。鶴は左に、右にと迂回しながらも、確実に斜面を進んでいた。 急に今までとは違う、強い風を感じた。上を向くと、鶴の目が断崖の終わりを捉えた。鶴ははやる気持ちを抑え、注意深く最後の段を上る手足に力を込めた。 目の前が開け、同時に風が勢いよく鶴の紙をたなびかせる。鶴は目を細めて周囲を確認する。兵士はいないようだった。 鶴は体を折るようにし、うつ伏せで稜線へと這いあがった。 体中から力が抜けていった。その途端、寒さと恐ろしさで体中が震えた。 鶴は、自分の考えが正しかったことに安堵した。反対側の斜面を登っている時、稜線は先の方が下がっていた。ということは、そちらの方に向かえば、平行に移動して行っても、いずれ稜線にはたどり着く、ということだ。 鶴は少し休んでから、二人が落ちた場所を探した。その場所は鶴が登ってきた場所から20 メートルほど離れていた。声をかけて確認すると、男はまだそこにいた。 次に鶴は大きな岩を探した。そこに縄を結びつけようと思ったのだ。目的のものはなかなか見つからなかったが、大きな岩と岩が重なっているの見つけた。 鶴はまず、小さな石に縄を結びつけた。そして次に大きな岩と岩の隙間にそれを引っ掛け、男のいる場所まで縄を引いていった。 縄は強風であおられ、男は縄を掴むのに苦戦しているようだった。だがなんとか縄をつかみ、斜面を登ってきた。 鶴は、男が登ってきているのを確かめて立ち上がった。縄がきちんと固定されているか確認するためだ。 男が頂上に登りきった時、風はまだ強かったが少しずつ弱まっていた。 「なんで俺を助けた」 「死にそうな人間がいたら助けるだろう」 「お前を殺そうとしている人間でもか」 「それはそうだが。お前は私が溺れた時助けてくれた」 「お前を利用するためだ」 鶴はふうとため息をついた。 「なんだ。感謝の一つも言ってみろ。私のおかげで助かったんだぞ」 男は一瞬ぽかんとし、その後、口の端を上げた。鶴は眉間に皺を寄せた。鶴には男がどういう表情をしているのかよくわからなかった。顔中が髪と髭でおおわれているからだ。 でも、もしかすると笑ったのかもしれないと鶴は思った。鶴も自然に笑っていた。 その時、何かが鶴の視線を横切った。次の瞬間、男は揺さぶられたかのように、地面に倒れ込んでいた。 それが放たれた矢のせいだと気が付いたのと、男が今登ってきた斜面へ落ちていったのは、ほぼ同時だった。 鶴は叫んで手を伸ばしたが、すべては手遅れだった。潜んでいた兵士が岩陰から現れ、鶴の腕をつかんで立たせても、鶴は呆然と 男が落ちた方向だけを見ていた。 「離せ」 鶴はそのまま担ぎあげられた。鶴は兵士の腕の中で、がむしゃらに体を動かした。しかし体はしっかりと捕まえられ、動かない。 兵士たちはゆっくりと山を下っていった。鶴は運ばれながら、目に涙がにじむのを感じた。やっと、やっと二人とも助かったと思ったのに。鶴は悔しさで呻いた。 暫く歩くと、視界の開けた場所に出た。そこには簡易的にだが、幕が張ってあった。鶴はいつの間にか、その中に通されていた。 「鶴」 背後から名を呼ぶ声に、鶴はびくりとした。 柔らかい、少し高い声。巫女として屋敷で生活するようになってから、鶴の名を呼ぶ人間は一人しかいなくなった。
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