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鶴はゆっくりと振り向いた。そこには見たことのある顔が並んでいた。領主の側近の兵士たちだ。その中に、一際目立つ人物がいた。透き通るように白い肌と、滑らかに光る分厚い着物を纏っている。
「領主様……」
鶴そう言って絶句した。領主が祭事ごと以外で外に出てくるのを、鶴は初めて見た。
領主は鶴を一目見て、一瞬だけ顔をゆがめた。
「鶴。お前を心配していたよ」
領主が自分の姿にむける視線に、鶴は急に恥ずかしくなった。着物は破れてほつれ、真っ黒に汚れている。そこから飛び出る四肢は痣と擦り傷だらけだ。
自分では見られないが、顔や髪もさぞ見苦しい状態なのだろうと、領主の態度を見ていて思った。しかし領主はそれに言及せず、ただにっこりと笑った。
「大変だったね。疲れているところ、悪いんだが、もう儀式の地へ向かわなければならない。まず体を清めて、それから」
「領主様。村人はみな幸せに暮らしているのではないんですか」
「え?」
「私に、嘘をついていたのですか」
領主はきょとんとした顔を向けた。
「嘘じゃない。お前にそう言った人がいたのか?可哀そうに」
「私は……もう騙されたくないんです」
「もう騙されているじゃないか」
領主は眉をひそめながら可笑しそうに笑う。そして鶴の顔を覗き込んだ。
「村人の暮らしが辛いと言ったものがいたのか。なるほど。辛いのは確かにそうかもしれない。しかし、他の村ではそうではないのか?どこか別の場所に行けば、畑を耕すのが楽になるとでも?それを彼らは確かめてみたのか?」
「それは……」
「お前は遠出して、嘘ばかりを集めただけだよ、鶴」
「でも」
鶴の声はだんだんと小さくなった。鶴は絞り出すように言った。
「でも……私はいけにえになんてなりたくない」
「鶴」
領主はゆっくりとため息をついた。鶴の肩を両手でつかみ前後に揺らすようにして、諭すように言う。
「私はお前がかわいい。大切に思っている。でも、お前が死ななかったら皆がひどい目に会う。水害にあってたくさんの人が死ぬ。川を鎮めるのはお前の役目だ」
鶴は涙をためて、領主の目を見た。領主は目をそらさずに言った。
「私はお前を殺したくない。でも、それにお前が役割を放棄したと言ったら、村のものが黙っていないのではないか?」
鶴はびくりと震えた。
「村のものは毎日毎日血豆がつぶれるまで鍬を振り、お前の半分以下の食料を食べて生きている。
お前は今までろくに外にも出ず、毎日たらふく食べ、良いものを着て祭りに参加するだけだった。それが許されているのはなぜかわかるか?」
領主がもう一度、鶴を強く揺さぶった。鶴は喉が詰まったように何も言えなくなる。
「それは鶴、今日お前が死ぬと思ってきたから、みんなは受け入れてきたんだよ。
お前がそれで生きるとなったら、皆はどう思うと思う?母親はどうなると思う?酷なことを言うようだけど、お前のために本当のことを言おう。鶴。お前を受け入れてくれる場所などもうどこにもないんだよ」
鶴は話を聞きながら、だんだんと体が重く動かなくなっていくのを感じていた。鶴は下を向きながらぽつりと言った。
「男は死んだんでしょうか」
領主は意外そうな顔で鶴を見た。
「確かめてはいないが、そうだろうね。それがどうかしたのか」
鶴は涙があふれそうになるのをぐっとこらえた。ここで泣いても何にもならないのはわかっていた。領主は鶴の様子を見、助け舟を出すように言った。
「お前は優しいのだね。ではあとで兵士に確認してもらおう。死んでいたら、 その場合はきちんと土に埋めてあげるから。さ、早く着替えて、輿に乗りなさい」
鶴は兵士たちに促されるまま、領主の言葉に従った。相変わらず風は強く、灰色の大きな雲が空を覆い、次々と流れていく。雨もぽつぽつと降り始めたようだった。
鶴は簡単に体を清め、着替えさせられた後、小さな輿へと詰め込まれた。洞窟に運ばれた時の豪華な輿とは違い、小さい輿に簡単な装飾を施しただけのものだった。
体のすぐ横で、小さな扉が閉じられ、中は暗くなった。外から閂が差し込まれる音がした。
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