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鶴は急かされるままに進んだ。しかし早足で進みながらも、不安が湧き上がってくるのを感じた。鶴は、ずぶ濡れになりながら自分の手を引く少年に聞いた。
「お前は誰だ」
少年は歩を緩めずに、ちらりとこちらを見た。
「幼馴染だよ。名前は菊太。鶴は、もう忘れちゃったかもしれないけど」
幼馴染。鶴は言われたことを反芻した。鶴が、屋敷に巫女として迎え入れ7歳の時だ。それより前のことは、あやふやな記憶でしかない。巫女として屋敷に入った当時のことでさえ、はっきりとは思い出せないのだ。屋敷に来た当初は、毎日家族を思って泣いていたというのに。
しかし、彼の顔に見覚えがある気がしたのは確かだった。いいようのない懐かしさと不安が、胸に広がる。
二人は泥に足を取られながらも、できるだけ急いで、草木を踏みしめながら選んで進んでいった。鶴は菊太を試すように言った。
「幼馴染なら、私の家族のことも知ってるだろう」
菊太は少しだけ間を置いてから答えた。
「もちろん。鶴のお母さんは美人で、優しくて、明るくて。声が大きくてよく笑う人だった。お父さんは大工さんだったよね。屋根を直してくれた。僕も壁を塗るのを手伝ったよ」
「父はどうしている」
「鶴が六歳の時、橋の工事で亡くなった。それも忘れてしまった?」
菊太は苦笑した後、そう淀みなく答えた。鶴の胸は熱くなった。この少年は鶴の家族のことを知っている。家族の話をするのは久しぶりだ。鶴は思わず聞いた。
「今、妹と母はどうしているか知っているか」
菊太は黙々と泥だらけの斜面を進んだ。鶴は答えが返ってこないことに不安を感じた。鶴はもう一度聞いた。
「なあ今二人は」
「しっ」
菊太は鶴を振り向き、人差し指を自分の唇に当てた。
「いろいろ聞きたいこともあるかもしれないけど今は黙ってて」
「でも」
「見つかったら元も子もないだろう」
鶴は言いたいことをぐっとこらえた。この雨の中、兵士たちが鶴たちを見つけるのは難しいはずだが、移動が困難なのは鶴たちも一緒だ。今はとにかく遠くへ逃げなければ、という菊太の考えも分かった。
一方菊太は慣れた様子で、真っ暗な森の中を進んでいった。その身のこなしは軽く、雨や泥はあまり障害にならない様子だった。
斜面を登り、そして下る。獣道をかき分けかき分けて数時間ほど歩き、菊太はまた急な斜面を下った。鶴は何度も転んだが、なんとか菊太について行った。
ようやく菊太が立ち止まった場所には、大きな岩がふたつ鎮座していた。岩は、山の斜面に隠れ、支えあうように重なっていた。その重なりの中には空洞があり、洞窟のようになっている。
次は少年に促されて先に洞窟の中を覗き込んだ。中に火が焚かれているのが見える。そしてそこに、小さな塊が丸まっているのが見えた。
「誰だ」
「僕のおばあちゃん。おばあちゃん、鶴だよ」
その塊はゆっくりと振り向き、目を細めてこちらに焦点を合わせる。老婆の薄くなった白髪が、松明の光で赤く染まっている。老婆は立ち上がり、ゆっくりと鶴に近づいてきた。そしてそのしわしわの手で、鶴の手を包んだ。
老婆はそれきり何も言わず、ずっと鶴の手を握っていた。鶴は何と言っていいのかわからず、されるがままになっていた。老婆の手の皮の感触が鶴を不安にさせた。
確かに菊太は、鶴を土砂から助けてくれた。でも、言われるがままに、ここに来たのは正しかったのだろうか。彼らは私に、一体何を求めて私を逃したのか。
「鶴」
鶴はビクリとして振り向いた。
「今日はここで休んで。明後日に出発しよう。満月の日を外れてしまえば、鶴が生贄になる必要性はなくなる」
菊太は水の入った碗をふたつ持っている。松明の光で水面が赤く揺れた。ふいに強烈な眠気が襲ってきた。鶴は疲れ切っていた。鶴はかろうじて言う。
「どうしてこんなによくしてくれるんだ。見つかったらお前もただでは済まないんだぞ」
「分かってるよ。はい、これを飲んで。少し苦いけど、傷に効く」
少年は碗のひとつを鶴に渡し、自分の分の水を飲み干した。鶴はその独特の匂いに一瞬躊躇したが、一口飲んだ後、すぐに一気に飲み干した。喉が渇いて仕方なかったのだ。
鶴は、空になった碗を見つめた。
「私に何を望んでいるんだ」
菊田は鶴を見ながら目を細め、口元を緩めた。
「何がおかしいんだ」
「いや、鶴とこんな風にしゃべってるのが、なんだか不思議で。何も望んでないよ。しいて言えば」
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