土と鶴

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その瞬間、鶴の視界がぐにゃりと歪んだ。立っていられず、その場に座り込む。強烈な吐き気を感じ、冷や汗が全身から吹き出した。 「これは何だ」 鶴は全身の震えを両手で抱え込むように抑えた。しかし寒気は収まらず、視界がだんだん白く霞んでいく。鶴は自分を覗き込む少年の顔を見つめ返した。しかしその顔はぼやけて歪み、どんな表情をしているのかよくわからない。 「おまえは……」 「ごめんね。でもこうする以外に方法がないんだ」 呟くような声が、頭の中にこだまのように響く。鶴は朦朧とした意識の中で胃の中のものを吐いた。今まで見たことのないような、チカチカとした光が頭の中を回っている。 消え行く無意識の中で、彼が洞窟で、領主に反対する奴らがいると言ったことを思い出した。あれは自分たちのことだったのか。 鶴は自分の浅はかさを恥じた。どこかで見たことがある、という単純な理由で人を信じて、あげく毒を盛られて悶絶している。 鶴は自分をなじり、少年をなじった。しかしそれは言葉として発せられることはなかった。混濁した意識はますますその流れを速め、思考の濁流が意識の渦の中に飲み込まれていった。 * 静かだった。 天井の隅が見えた。くぐもった鳥の鳴き声が聞こえる。 鶴は自分が屋敷の部屋の中にいることに気が付いた。見慣れた白ぶちに赤の布団。七年間ほとんど外に出ることはなかった部屋。鶴は一瞬、自分が屋敷に戻ったのかと思った。しかし 何かが違った。まるで自分の体の中にもう一人の自分が入ったようだ。 その時ふいに声が聞こえた。 「鶴」 かすれた小さな声だった。それは格子のはめられた窓の外から聞こえた。 鶴は一瞬不思議に思った。ここは屋敷の中でも隔離された場所にある。普段訪ねてくるのは、鶴の身の回りの世話をする人間だけだ。その場合だって声をかけて襖を開けて入ってくる。 しかし鶴の体は迷うことなく窓に向かった。その足取りは急いて、鶴は危うく転びそうになった。 ありえない、と思うと同時に。その声は誰のものなのか、鶴はある種確信していた。 「母様」 窓は高い位置にあり、母の姿は見えなかったが、鶴は叫んだ。それを見ている意識の中の鶴も、思わずそう言っていた。 久しぶりに聞く母の声は少しかすれていて、涙声だった。そしてそれは鶴も同じだった。 「かあさま。かあさま」 鶴は窓に向かい、何度も跳ねながら呼びかけた。 何年会っていないだろう。何年触れていないだろう。最後に会った日から、既に五年がたち、鶴はすでに十二になっていた。 鶴はつま先立ちになり、窓から半分だけ出ている母の白い手を握った。傷だらけで、指の皮膚は硬い。水仕事をする母親の手に触れ、鶴の目にはますます涙が溢れた。 苦労したのかもしれない。悲しい思いをさせたかもしれない。でもその申し訳なさ以上に、会えたことが嬉しかった。 「どうしてずっと来てくれなかったの」 鶴は悲痛な声でそう言った。母も同じように悲し気な声で、ごめんねと繰り返した。 「ちょっと待ってて」 鶴は何とかして母を部屋に入れようとした。でも鶴の部屋は外側から鍵がかかっていた。 「扉が開かない。ごめんねお母さん」 鶴は泣きながらそう言うと、また母の手に縋った。しかし母は落ち着いた声で言った。 「いいの鶴。私がここに来たのはそのためじゃない。これを」 そう言って母は一度手を引っ込めた。再度差し出された手には、白い紙に包まれた何かが載っていた。母は格子の隙間からそれを鶴に手渡した。鶴は不思議に思って包みを開けた。その中に入っていたのは、赤黒い塊だった。 「これは……」 鶴は絶句した。それは干し肉の塊だった。鶴が5年前屋敷に入ってから一度も食べたことはないものだった。巫女であるには、清浄な身体が必要だったからだ。 「お母さん、私は肉は食べれないの」 「食べなさい」 母は有無を言わさぬ口調で言った。鶴はその意味をゆっくりと理解した。そして同時にぞっとした。 「そんなの無理だよ。これを食べたら私は」 「だからよ」 「でもそんなことしたら」 鶴はいいかけて黙った。そんなことをしたらお母さんと妹は、どうなるかわからない。
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