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ただでさえ、働き頭の父親がおらず肩身の狭い思いをしているのだ。さらに、鶴は自分が村人にどう思われているか、薄々知っていた。毎日いい着物を着て、お腹一杯ご飯を食べて、楽をして暮らしていると思われていることを。そういう話を聞くと、鶴は歯噛みした。今の暮らしを捨てて家族の元に戻れるなら、喜んでそうしたかった。
でも、鶴が巫女をやめるようなことがあれば、家族はますます村人たちに意地悪をされるかもしれない。
鶴は震えていた。母がその向こうにいるはずの格子と、手に持った肉を交互に見た。鶴が何も言えなくなっていると、母の声がした。
「私はね。ずっと後悔していたんだ。お前をここに引き渡してしまったこと」
「じゃなんで……」
母は少し黙ってから言った。
「家に来た領主様に、巫女にならないなら、鶴と雛とを殺すと言われた」
鶴は背筋がひやりと寒くなった。しかし、領主がそんなことを言ったというのは、にわかには信じられなかった。
「最初からこうすればよかった。鶴。早くそれを食べて、ここから解放されなさい。家族のことは何も考えなくていいから」
鶴は混乱した。恐ろしさと嬉しさで、感情がめちゃくちゃだった。母が言ってくれたことが嬉しいような悲しいような、でも確かに、母が自分を気にかけてくれたのだということが鶴の心に小さな明かりをともした。
鶴は恐る恐る、手の中の赤いものを取り上げた。久しぶりに見るそれは生臭く、まるで人の食べるものには見えなかった。触れるだけで手に匂いがつくような気がして、鶴は戸惑った。
「さあ早く」
鶴はじっと手の中のものを見つめた。そして息を止め、一気に飲み込んだ。
口の中が獣臭さでいっぱいになる。頭では目をぎゅっと瞑った。数回だけ噛みしめ、唾液で流し込む。
「食べたよ」
「そう。よくやったね」
母の声には安堵が滲んでいた。それを聞いて、混乱していた鶴も、どこかほっとした。格子から出た手を、鶴はしっかりと握った。それは暖かく柔らかく、懐かしい手触りだった。
「何者だ」
その時だった。壁の向こうで、見張りの鋭い声がした。鶴の体は雷に打たれたようにびくりと震え、母の手が鶴のてからぱっと離れた。すぐに草の上を走る音と、鎧の擦れる重々しい音がした。
「待て」
「お母さん逃げて」
鶴は叫んだ。しかしその言葉が聞こえたかどうかさえ、鶴にはわからない。 二人が足音が遠のいていく。
鶴は足が床にへばりついたように、壁に向かって立ち尽くした。
母さんは掟を破った。見つかったのならただではすまないだろう。鶴は狂った犬のように部屋の中をうろうろと歩き回った。さっきと打って変わり、焦りと不安と悲しみが鶴の胸の中に渦巻いていた。
「だれか。私を外に出してくれ」
鶴は、そう部屋の中から叫んだ。しかし離れの周りは依然として静かなままだ。次は焦った。そんなこと普段はなかった。鶴が人を呼べば、お付きの者が必ず来てくれた。鶴は叫び続けたが、あたりからは鳥の声が聞こえるだけだった。
何時間ぐらい経っただろうか。声はすでに枯れ、鶴は膝を抱え座り込んでいた。扉がぎしりと音を立てて開き、外の光が鶴の足元に差し込んだ。
鶴は光に慣れていない目を瞬かせながら、顔を上げ、冷え切った足でよろよろと扉へ走り寄った。
そこにいたのは領主だった。お付きのものをつけず、一人で扉の入り口に立ち尽くしている。逆光で表情はよく見えない。
最近、領主は滅多に鶴のいる離れまで顔を出すことはなくなっていた。しかし、半年前までは度々顔を出しては、鶴に饅頭をくれたり、遊び道具を持ってくれていた。領主が話す村の様子を聞くのも、鶴の少ない楽しみの一つだった。村の話を聞くたびに、鶴は少しだけ慰められたものだ。
「領主さま。あの、ここに来た者はどうなりましたか」
「逃げたよ」
鶴は全身の力が抜けた気がした。
「そうですか」
しかし、鶴は領主の目線に気が付いてはっとした。部屋の隅に、肉を包んでいた紙が転がっていた。鶴は頭が真っ白になった。私は領主様を裏切ったのだ。鶴は血の気が引いていくのを感じた。
二人の間に沈黙があった。領主が何も言わず、無表情のままだということが、ますます鶴の気持ちを不安にさせた。急に鶴は、自分がとんでもないことをしてしまったということを自覚した。
領主は鶴の前に歩み寄り、膝をおった。領主が鶴に手を差し出すと、次はびくっと震えた。ぶたれると思ったのだ。
しかし領主は差し出した手を戻し、ゆっくりと言った。
「鶴。大丈夫」
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