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領主はゆっくりと、言い聞かすように言った。
「お前は今までと何も変わらない」
「え?」
「私は何も知らない。何も聞いてない」
領主は鶴の瞳を見つめながら手を握った。きつくはないが、鶴の小さな手をしっかりと包み込む。そして悲しみと厳しさの入り混じった目で鶴を見つめた。
「鶴。これだけは正直に答えないといけない。そうでないと、私はお前に対して、とても厳しい決断をしなければならなくなる」
そして一呼吸置いて言った。
「ここに、誰が来た?」
鶴は最初黙っていた。言ったら母は罰を受けるということが分かっていたからだ。しかし領主の声には抗えない響きがあった。隠しても、いずればれてしまうということも。長い沈黙の後、鶴は言った。
「母です。でも許してください。わたしは何でもします」
領主は初めて、少しだけ驚いた表情をした。鶴はその場に土下座した。
「領主様。どうか。私は何でもしますから。母だけは助けてください。妹もいるんです」
鶴はまくしたてた。恐怖で喉がカラカラになっていた。声が震え、頬に大粒の涙が幾度もつたった。
「もう二度と家に帰りたいなんて言いません。元の生活に戻りたいとも言いません」
領主は悲しそうに鶴の目を見、息を吐いた。そして後ろを向き、誰かに声をかけた。鶴は気づかなかったが、領主の後ろに鶴の世話係の一人が、碗の持った盆を抱えて控えていた。領主はその碗を鶴に差し出した。
「これを飲みなさい」
鶴は反射的に身を震わせた。母の代わりに自分が死ななくてはいけないのではないか、と思ったからだ。しかしその考えを察したように領主は言った。
「鶴、お前は大切な巫女だ。殺すことはない。これはお前が今してしまったことを償うためのものだ。これを飲めば今したことはなかったことにできる」
「本当ですか。そしたら母も……」
領主師は頷いた。「ああ。お前の母のしたことは不問にする」
次は心からほっとして、それからその器に視線を戻した。嗅いだことのない臭いだった。煎じた草のような、樹木のようなにおいが、部屋中に充満していた。
「これを飲んだらどうなるのですか」
「忘れる」
「え」
「今日あったことを全て忘れるんだ」
すぐは絶句した。今日あったこと。それは今までの屋敷での生活が全て報われるような、出来事だった。今日初めて、鶴は母が自分を気遣ってくれていたことが分かったのだ。それをまた忘れてしまうことは、鶴にとって母をまた失うのと同じことだった。しかし、それを飲まないと母がひどい目にあうということも、鶴には分かっていた。
以前、鶴が溢れた汁物で火傷したことがあった。その時も、領主は鶴に傷を負わせたの者に処罰を与えていた。鶴と同じ場所に、火傷を負わせたのだ。次はそれを見て、今後自分が怪我をしようとも、人には言うまいと固く誓った。自分が誰かを辛い目に合わせるのは、もうまっぴらだと思った。
全てを忘れることになっても母に何か迷惑が及ぶよりはずっといい。そう鶴は結論付けた。
鶴は与えられたお椀の中の液体を、ゆっくりと口の中に流し込んだ。その瞬間強いめまいに襲われた。体の自由が利かなくなり、誰かが鶴の体を布団に寝かせた。鶴の意識はゆっくりと闇に落ちていった。
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