土と鶴

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「違う。でも、誰かが辛い思いをしているのを知っていながら、人は本当には幸せになれない」 領主は一瞬ぽかんとして、それから笑い出した。 「鶴。それは綺麗事でしかないと僕は思うよ。さ、おしゃべりはおしまいだ」 領主はそばにいる兵士に目配せした。兵士はまた、鶴に猿轡と目隠しをつけようとした。 鶴は必死に顔を背けたが無駄だった。領主は薄く笑いながら、こちらを見ている。 猿轡をはめられているとき、領主の声が降ってきた。 「お前は最初からこうなる運命だった。七年前からそれを知っていたはずだ。どうして今になって逃げられるなどと考えたのか。どうして今になって、そんな目をしてこちらを見るのだ」 兵士が鶴に目隠しをしたとたん、再び真っ暗になり、鶴は叫んだ。恐怖で呼吸が苦しくなる。やめろ、と思い切り叫んだはずなのに、聞こえるのは高い唸り声のような音だけだった。 「さようなら、鶴」 鶴は一生懸命頭を振った。目隠しは少しだけずれた。蓋が閉じられる瞬間、領主の顔がすこしだけ見えた。鶴は必死に口を動かし、首を振り回した。 「お前は間違ってる」 しかし鶴が言葉を言い終わる前に、 箱の蓋は閉められた。鶴は目を見開き、目に差し込む最後の光を絶望的な思いで見送った。 掛け声とともに、箱の頭のほうがぐいと上がった。同じように足の方も持ち上げられる。再度、鶴の体が平行になったと思った途端、箱は水の中に落とされた。 箱はゆっくりと空気を吐き出しながら、湖の底に沈んでいった。 * 水が四方八方の箱の隙間から滲み出て、ゆっくりと噴射するように箱を満たした。まず、背中が水に浸かった。すぐに水が鶴の体を囲み、侵食していく。髪が水に浸かり、顔に張り付いた。 鶴はもがいたが、もがけばもがくほど、箱は揺れ水が溢れた。鶴は恐怖に身悶え、 息が荒くした。しかし猿轡をはめられた状態では息も満足にすることができない。ついに箱の中は水でいっぱいになった。鶴は息を止めた。既に水を飲んでいて、咳き込みそうなのをぐっとこらえた。箱は湖底に向かい、どんどん沈んでいく。 その時だった。体を締め付けていた縄が少しだけ緩んだ気がした。数珠はそれを見逃さなかった。体をひねり、残った全ての力を使って暴れた。 まず目隠しが外れた。次に、右足を縛っていた縄が外れた。 鶴は自由になった足で、棺の蓋を思い切り蹴った。蓋は開かない。鶴は再度手足に力を込めた。今度は右手の縄が取れた。右手と右足で、蓋に対し思い切り力を込めた。それでも開かない。もう息が続かない。 三度目に力を込めた時、ようやく蓋が外れた。鶴はその隙間から無我夢中で外に出た。いつのまにか両手足が自由になっている。鶴は必死に水面を目指した。 空気が足りなくて、喉が焼けるように熱い。思わず口を開けそうになるが、必死にこらえる。体に酸素が行かず、筋肉が悲鳴をあげている。だが、水を掻かないわけにはいかない。ひとかきひとかきに、鶴は最後の力を賭した。 鶴の顔はついに水面に出た。咳き込み、水を飲みながらも、足のつく所まで泳いだ。岸にたどり着いた時には、体は鉛のように重くなっていた。渾身の力を振り絞って、自分の体を自ら引き上げた。 雲は厚く、今にも雨が降りそうだ。鶴は見つかりませんようにと祈りながら、這うようにして茂みへと進む。 鶴は寒さに歯を鳴らしながら、ふと不思議に思った。なぜあんなに簡単に縄が切れたのだろう。次は自分の服の中に入っていた、水を吸った黄色いものを取り上げた。それは縄の成れの果てのようだった。 縄は紙でできていた。 鶴は茂みの中へ倒れこんだ。 いつまでそうしていただろう。鶴は何かの気配を感じて顔を上げた。ガサガサという音が、こちらに近づいてきている。 鶴は茂みで目を凝らした。厚い雲が垂れこめた空からは、満月の光も届かない。 逃げられるだろうか。鶴の足は震えていた。体にも力が入らない。昨日飲んだ薬が影響しているのかもしれなかった。 その時、二人の人間が姿を現した。一人は縄でつながれている。 鶴は心の中で、あっと叫んだ。つながれて、猿轡をはめていたのは、鶴を攫った男だった。鶴は一瞬、心に明かりがともるのを感じた。生きていたのか。 もう一人は領主だった。 * 「鶴。ここにいるんだろう。出ておいで」 領主は朗々と言った。あたりを見回し、誰も出てこないのを確認する。 「では、この男は切り捨てる。よいか」 手に持った刃物が月の光がキラリと光った。 「……だめだ」
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