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落下。
暗い水の底へ。
真っ逆さまに、吸い込まれるように、真っ暗な渦の中に落ちていく。
恐怖で呼吸ができない。
自分の声にならない叫びが聞こえる。
このまま落ちたら、自分は粉々になって、もとあった形さえなくなってしまう。
そういう確信と、恐怖だけが体を支配している。
「巫女様」
帳越しに声をかけられてはっとして目覚めた。つめたい地面の感触に安堵する。
うたたねをしていたみたいだ。鶴は起き上がろうとしたが、両手をつないである縄のせいでバランスを崩した。鶴は顔をゆがめながら、もう一度体勢を治し、冷えた足をさすった。
洞窟に敷物を敷いたとはいえ、たいした防寒は見込めない。夏の夜でも、山は冷え込む。
鶴はなげやりに答えた。
「はい」
「お食事をお持ちしました」
食器を台に見立てた石の上に置くカタンという音が響いた。
「ちゃんと食べてくださいね」
「わかってる」
相手の心配そうな、少し高い声に、鶴は苦笑した。本当に心配しているのだろう、と感じさせる声だった。
彼は鶴が屋敷からこの洞窟に移動させられてから、見張りをしてくれている兵士の一人だ。鶴と同じくらいの年だからだろうか。鶴はなんとなく彼に親しみを感じていた。
でも、これからのことを考えて、たくさん食べられる人間がいたらお目にかかりたいものだ。
鶴はこれから、人柱として、川に捧げられるのだ。
外で何人かの人間の声がした。
「兵士が何人もいるんだな」鶴は、そんなにたくさんの人間が見張る必要もないのに、というニュアンスを込める。
「巫女様のためです。最近は物騒なので。巫女様を狙っているものもいるとか」
「まさか。どうしてだ」
少年は小さな声で言った。他のものに聞かれたらまずいと言うように。
「儀式に労力や費用がかかりすぎる、ということをよく思っていない人間がいるそうなんです」
「なるほど」
鶴はできるだけ軽い口調で言ったが、儀式という言葉を聞いて、胸に大きな石を載せられたような気分になった。
村の皆が、この儀式を重く見ていることは、7年間の巫女生活の中で、領主様が度々話してくれた。
鶴の生まれた時、村はまだ貧しかった。しかし今の領主に変わってからは生産性が増し、豊かになったと聞いている。そしてそれは、領主が川の治水に力を入れているからだと、つるのお付きの者が話してくれた。しかしここ数年、雨が多くなり、工事が滞るようになった。それに比例して死人や怪我人も増えた。
そこで、皆の安らかな生活のために、定期的に儀式が行われることになった。1年に一度家畜を捧げる儀式と15年に1度のより規模の大きい儀式だ。
今回はその15年に1度の大歳だった。今回の生贄に選ばれたのが鶴だった。
鶴は自分の役割を重々承知していた。でも、これからの自分の行く末を思うと、どうしても平常心ではいられない。
鶴は首をぶんぶんと左右に振った。いや、こんなふうじゃだめだ。
領主様は以前、わたしに勇気を持つように言った。領主様のやさしさに恥じない巫女でありたかった。
でもそれはむずかしい。
ここにいる兵士たちも、鶴が逃げ出すのを見張っているのかもしれない。そう思うと、自分の弱さを見透かされているようで落ち着かなくなった。
鶴が一人で考えに耽っていると、外で短い、くぐもった声がした気がした。
鶴は、寒いから誰か咳き込んだのだろうかと、頭の隅で考えた。
鶴は何度も拭って赤くはれた目じりを、もう一度拭って息をひとつ吐いた。
また皿に食べ物が残っていたら心配をかけるだろう。領主様の耳にも入るかもしれない。
それに、これは村人が一生懸命作った作物なのだから、気分が悪かろうと、きちんと食べなくては。
鶴はそう自分に言い聞かせ、帳を持ち上げた。
そこにはいつもの皿に、いつもの品目が載っているはずだった。
炊いたコメ、塩で漬けた山菜、果物や木の実。
しかし皿の半分が無くなっていた。
しかもその半分には、泥のようなものがべったりとついている。それと同時に、獣のような臭いが鼻をつく。
鶴は身をこわばらせた。さらに耳をすませると、荒い息遣いが聞こえた。
何かが、この中にいる。
鶴は帳をさっと下ろし、隙間からあたりを伺った。
鶴の周りのろうそくが照らす範囲は1メートル半ほど。
鶴はその向こうに目を凝らした。ろうそくの明かりが影を小刻みに揺らしている。
と、その影が大きく動いた。
鶴は息をのみ、機長からのけぞるようにして後ろに倒れた。 後ろに置いてあった衣類や身支度の道具が床に散る。
鶴は倒れながらも、黒くうごめくものから目が離せない。恐ろしくて、声が出ない。
その塊はぐるりとねじれたかと思うと、ぎょろりと飛び出た、赤く光る目を見せた。
鶴はその場で動けなくなった。体中がこわばり、血の気が引く。
生臭い匂いが鼻をつく。
それは鶴と目が合うと、するすると起き上がった。
とんでもなく大きく、猫背の背中。目以外は伸び放題の毛でおおわれている。
人間が、熊のぬらりとした毛皮をまとっているのだ、と鶴が気が付いたころには、ゆっくりとした速度で、それは鶴の目の前に迫っていた。
ぎょろりとした、どこを見ているのかわからないその生き物は、声もなく鶴に手を伸ばした。
黒光りする、鍬のような大きく長細い指が、鶴の顔にぬらりと触れた。
同時に獣の血のにおいが鼻腔をつく。
鶴はおぞましさに息をすることも忘れた。肌が粟立つのを感じた。
男が頬に触れたのは、ほんの一瞬だったかもしれない。しかし鶴にはそれが、永遠の時間のように感じられた。
「何者だ!」
見張りの声に、鶴ははじかれたように入り口を見た。
見張りが二人、洞窟の中に入ってくる。さっき食事を届けてくれた少年と、もう一人もっと年長の男だ。
年長の男は、巫女にへばりついた黒い大きな塊を見て、ぎょっとした顔で叫んだ。
「巫女様を放せ!巫女様、こちらに!」
鶴ははっとして、急いで立ち上がろうとした。しかし恐怖で足がもつれ、立ち上がれない。
次の瞬間、目線がぐうんと上昇した。目の前にぎらついた鉈が目に入る。
鶴は男に抱えあげられ、首筋に鉈を貼り付けられていた。
「動くな。動いたら斬る」
ギスギスした、思ったより高い声だった。
自分を抱える男の腕の強さに、鶴は体がきしむのを感じた。
涙をこらえながら必死に息をすると、ひゅうと細い空気とともに、男の生ごみのような匂い吸い込んでしまった。鶴は悪臭にあわてて息を止める。
見張りは巫女を盾にされて、手が出せないようだった。男は壁に背をぴったりとつけ、入り口のほうに一歩一歩にじり寄った。そして洞窟の入り口で、周りに他の見張りがいないことを確認すると、一目散に走り出した。
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