土と鶴

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男は顔を着物の袖で拭った。敵を退けているにしても、だんだんと体力は底をつき始めている。体から滴り落ちる雨に、生暖かい血が少量ではなく混じっていることに、男は気づいていた。男は息を整えながら、周りの気配に、意識を集中させた。 領主はじっと、今まで自分の身代わりであった男を見た。 「お前は七つの時に、俺から刀の振り方を教わったな」 「お前から教わった事なんて初歩の初歩だ」 「そうかもしれない」 領主が間合いに入った途端、男は間髪入れずに鉈を振り下ろした。領主はそれをするりとかわす。男が大きく動いたことで、橋がぐあんと揺れた。男と領主は、中腰になって橋のつるを掴んだ。 「でもお前は、私の身代わりとして、剣を習ったんだよ」 領主の声は相変わらず冷静だった。男は体を起こし、片手で吊り橋の手すりをにぎり、もう片方の手に鉈を持って、ひたと領主を見つめている。領主は男をつまらなそうな目で見つめている。 男は咆哮を上げながら、何度も領主に向かって鉈を振り下ろした。男が刃物を振り下ろすたび、空を切る鈍い音がし、血と汗と雨の混じった水滴が飛び散る。しかし領主は、そこがまるで吊り橋の上ではないかのように悠々と鉈から身をかわした。 「つまらないな」 漁師はそう呟いた。と同時に男の振り下ろした鉈を剣で受け流し、その勢いのまま、心臓を脇からえぐるように剣を振り上げた。男は間一髪のところで領主の剣の切っ先から逃れたが、間合いを取った瞬間に、背中が冷水を浴びせられたようにぞくりとした。 「お前は剣の振り方が大きい。太刀筋が単純だ。私の身代わりにしては、少々お粗末ではないか」 「今はもう身代わりじゃねえよ」 男は鉈を振るい続ける。まるでそうするしか選択肢がないように。しかし領主が反撃し始めると、形勢はだんだんと逆転した。 領主はまるで細い木の枝を握っているかのように、かるがると刀を振る。しかし、その太刀筋は鋭く、雨も二人の間の空気も切り裂き、男を圧倒する。 領主の刀が、男の目の上を掠めた。刀を受ける鉈の動きが少しずつ鈍くなる。一瞬ずつ拍がずれる。男は自分がギリギリのところで洋酒の刀をかわしていることを自覚していた。さっきから領主の太刀筋をさばくのが精一杯だった。あとどのくらいもつか。男は頭の隅で鶴と雛が逃げる時間を計算していた。 しかしその瞬間はすぐにやってきた。男が次の動作に入ろうとした時、男の肩に鋭い痛みが走った。男はそれに怯まず、最初の勢いのまま、領主の 刀を薙ぎ払い、反撃を続ける。ここで集中力を切らしたら、そのままやられる、と思った。集中力が戻り、また形成が均衡し始めた男は思った。 領主の前に一歩踏み出した時、視界が曇った。一瞬意識がやると、額が生ぬるい。額が真一文字に来られ、血が出ていたのだということに気がついた。しかしその一瞬が勝敗を決した。領主は男を蹴り倒し、馬乗りになった。そして肩の傷の上をもう一度刺す。 男は叫び声をあげた。 領主は今度は男の 手のひらに刀を突き立てた。男は苦痛に体を痙攣させ、言葉とも叫びともつかぬ声を上げた。それを猟師は面白くなさそうに見下ろしている。 「身代わり。お前は今、何者でもないそうだな。 それならば、誰からも必要とされないはずだ。心置きなく殺せるよ」 男は荒い息をしながら、口の端だけ上げて、笑って見せた。 「なぜ笑っている」 「じゃあ聞くが、お前は何者なんだ」 領主は少し間をおいてから言う。 「領主じゃないか」 「それは役割でしかないだろ」 領主は片眉を上げた。男は踏まれた傷口の痛みに喘ぎながら言う。 「お前は孤独だ。でもお前には支配することしかできない」 「……それが支配者だ」 「支配することでは繋がりは生まれない。誰からも必要とされてないのはお前だってそうだ。俺が何者でもないんだったら、お前だって何者でもない」 領主は虚ろな瞳で男を見ていた。まるで朽ちた枯れ木のように、体中から雨が滴るのに任せている。白い着物は枯れ葉や泥で汚れていた。 その時、領主の足に何かがぶつかった。 領主は男の向こう側に視線をやった そこには鶴が仁王立ちになり、土砂の中から拾った石を投げていた。 「おまえ……」 男は領主が鶴に気を取られた、その一瞬を見逃さなかった。男は鉈を思いきり投げた。鉈は刀を弾き、そのまま刀も鉈も吊り橋からこぼれ落ち、川の中に消えていく。 男は体を起こし、領主の足にしがみついて夢中で持ち上げる。男は雄叫びをあげながら領主を吊り橋の外へ出そうとする。
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