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領主は一旦はバランスを崩し持ち上げられたが、吊り橋の手すりをしっかり握りこみ、押さえつけられた足を男の顎に命中させた。男は目眩を感じながらも、意識を必死に保つ。その間も、手は決して領主の足を離さなかった。
周りは暗く、雨でよく見えない。しかし、何かただならぬ恐ろしさを感じて、男は全身が総毛立つのを感じた。
朦朧とする意識の中で、男は地響きのような音を聞いた気がした。
と同時に、男はその地響きの正体を直感的に知った。鉄砲水、という単語が頭の中に反芻した時、誰かが大声を上げた。男はその声に従った。その瞬間、恐ろしい勢いで、大量の濁流が川に流れ込んでくるのを見た。
それは水と言うにはあまりも凶暴で、木や泥や石、全てを飲み込み、橋に襲いかかってきた。
男の体はものすごい勢いで、ぐんと引っ張られた。
*
男はまぶたに光を感じて、薄目を開けた。顔の一部分が暖かい。太陽の光がキラキラと、木の隙間から降り注いでいる。
「おい」
何かがおかしい、と男は思った。死んだ割には、体は冷たいし、そこらじゅうが痛い。
鶴は寝ぼけている男の顔を叩いた。
「おい。お前はまだ死んじゃいない」
「あ?」
鶴に心を読まれたようで、男は顔をしかめた。顔の筋肉を動かすと、額がツンと引き攣れる。鶴は男の横に、膝を抱えて座っていた。泥だらけで疲れきってはいるが、大きな傷はなさそうだ。男は安堵し、起き上がりかけて、男は苦痛に呻き声を上げた。
「まだ起きない方がいいぞ」
「そういうことは早く言ってくれ」
「お前が勝手に起きたんだろう」
男はまた横になりながらつぶやいた。
「妹はどうした」
「今水を処理してる。汚泥ばかりだから、飲み水を作っているんだ」
男はまた、しばらく黙ってから言った。
「何で俺は生きているんだっけ」
「私たちがお前を引き上げた」
そう言って鶴は、橋のたもとに倒れている木を指差した。
「あそこに縄を引っ掛けて、お前を引き上げたんだ」
「よく持ち上がったな」
「お前に教わったやり方だ」
なるほどと男は思った。岩場で縄を使っていた時に、鶴に数種類の縄の結び方を教えていた。重さが1/4になる縄の使い方も、鶴はその時に学んだ。
「どうりで腹が痛いわけだ」
男は最後の最後で、領主を掴んでいた手を離し、鶴が叫んだ声にしたがって、縄を輪にしたものに体を突っ込んだのだった。
男は腹から長くため息を吐いた。
目線の先には、水を含んだ葉が擦れて揺れるさまと、ゆっくりと雲が過ぎ去っていく空があった。
台風が去った後の空は雲ひとつなく、水溜まりに太陽が反射してきらめいている。世界はどこまでも明るく、澄み切っていた。
「お前はこれからどうするんだ」
「さあな。村に戻って領主の代わりでもするか」
「案外良いかもしれんな」
鶴はさらりと答える。男は鶴の顔をげんなりと見た。
「反対しろよ。殺されちまうよ」
鶴は男をちらりと見下ろす。そして、少し間をおいてから言った。
「私たちと一緒なら大丈夫じゃないか」
男は目を見開いた。
「お前たち村に戻るのか」
「ああ」
「快く受け入れてくれる奴らばっかりじゃないと思うが」
「そうだな。でも今、村はボロボロだ。私も何かしたい。どうしてもさせてもらえなかったら、その時に考えるさ」
男はまた空に目線を戻した。そして自分に言い聞かせるように言う。
「何もさせてもらえないってことはないだろう。お前はもう巫女じゃない」
「ああそうだな。お前も」
男の頬が緩んだのを鶴は見た。
その顔は 血と泥で汚れてはいたが、 鶴が7年前、屋敷に来た時に見た笑顔と同じだった。
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