土と鶴

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そのとき、不意に腕が後ろに引っ張られるように感じた。はっと目を開けると、両腕を結んでいた縄が切れている。 鶴は全身の力が抜けたようになった。胸を自由になった手で押さえた。心臓が胸から飛び出しそうに跳ねている。 立ち上がり、鉈をしまおうとする男に向かって鶴は呟いた。 「……どうして」 「これから逃げるのに不便だろう」 「私はこれでお役御免と言うことか」 男は首を振った。 「俺が安全に逃げられるまではお前は人質だ」 「そんな」 男は鶴に視線を向けた。 「お前も死にたくないだろう」 鶴は視線を泳がせる。 「私は7年間、巫女として過ごした。皆のように畑仕事もせず、毎日三食食べた。役目は果たさないといけない」 「家族はいないのか」 「いるが、7年前から、誰も会いに来たことはない。もう何をしているのかもわからない」 そう言いながら、鶴は胸が締め付けられた。 父が事故で亡くなった年、妹が生まれた。3人は親戚の家に移り住んだが、親戚の家もけして裕福ではなかった。だから、妹が3歳になったとき鶴が巫女に任命されて、親戚たちはとても喜んでいた。 「だから死にたいのか?」 鶴は目を伏せ、ためらいながら答えた。 「そうじゃない。領主様のためだ。領主様は、お優しく立派な人だった」 それは嘘ではなかった。最初に屋敷に来た当初、鶴を支えてくれたのは領主だった。屋敷とはいえ、小さな離れに鶴は住んでいた。眠れぬ夜や、涙が止まらない日は、様子を見に来てくれた。そして鶴が寝るまで、鶴の見えるところにいてくれた。 男はせせら嗤った。 「人だった。今は違うのか」 「今はなかなか会えないが……でもお優しいことには変わりないし、それに強い人だ」 鶴は男を何とかして説得したかった。 「ほお。武芸に秀でているのか」 「祭事の時、一度おかしな村人に矢を射られたんだ。でも次の日には、元気なお顔を見せてくれた」 「そりゃ化け物だな」 男は顔をゆがめた、ように見えた。髭と髪で相変わらず表情は見えない。 「とにかく隣の村までは、お前を人質として連れて行く。逃げるなら殺す」 * 「これを渡るのか?」 「怖いのか」 「そんなこと」 ない、という言葉は気丈だが、実際鶴は恐れていた。 川幅が20メートル以上ある。  鶴と男の体は、1メートルほどの縄でつながれていた。背負子に乗せられて背負われている以上、何を言っても無駄だということは既に分かっていたが、言わずにはいられなかった。 「どうしてここなんだ。もっと川幅が狭いところもあったろう」 「あそこは深くて流れが速い」 鶴は黙った。 鶴は川が苦手だった。昔川で流されそうになったことがあるのだ。その時は2歳下の妹が流されそうな鶴の手を引いてくれ、事なきを得た。しかし、二人が川岸にたどり着く前に、妹は流れてきた木に引っかかって、肘に深い傷を負ってしまった。 真っ赤な血が、透明な水の中に流れていく様を思い出して、鶴はゾッとした。 男は躊躇せず川に入っていく。鶴も同時に水の中に入る。足に水が触れ、刺すように冷たい。川の深さを確かめながら男はゆっくりと進んでいく。 鶴は辺りを見回した。川の外から見る風景と、川の中から見る風景は違っていた。中から見る方がよほど恐ろしい。ごうごうと言う水の音がすぐそばで聞こえる。  一方向から重いものをずっと押し付けられているような重量感。 いつのまにか、水は鶴の腰のあたりまで来ていた。恐怖と冷たさで息が切れる。 男がバランスを崩すたびに、背負子が揺れ、縛られた縄が肩と腹に食い込んで痛んだ。鶴はそれを忌ま忌ましく思った。 水面に光が反射し、鶴は眩しくて目を細めた。鳥のさえずりが聞こえた。 ふと、こんなふうに、川を間近で見たのはいつぶりだろうかと鶴は思った。 正直なところ心のどこかで、鶴は少しほっとしていた。男は鶴に、逃げたら 殺す、と言っていた。ということは、男が無事に逃げられたら、自分は殺されずに済むのだ。 もし解放されても、鶴が儀式に間に合わなかったとしたら、鶴は自由の身になれるかもしれない。 そうちらりと頭の片隅で思ったとき、急に母の顔が脳裏に浮かんだ。悲しそうな顔だ。 鶴は急に、罪悪感に襲われた。暗い部屋の中に閉じ込められたような感覚になった。息がしづらい。 鶴は水の中で手をぎゅっと握った。 それはだめだ。
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