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鶴は溺れまいと必死に顔を水からあげようとした。
でも暴れれば暴れるほど、水が身体に絡みつくように、体がどんどん沈んでいく。いくら暴れても足がつかない。
鶴の頭の中に、死という言葉が浮かんだ。
「助けて」
今日は水を飲みながら、そう口にしていた。鶴は無我夢中で水を掻いた。でも体はどんどん流されていく。
振り向くと20メートルほど先に大きな岩が鶴を待ち構えていた。鶴は辺りを見回した。手近に掴めるものはないか。その時、進行方向の5メートルほど先の左の川岸から、川面へと伸びている木が目に入った。
鶴は必死にそれを掴もうと泳いだ。体全体を使って、左に少しでも近づくようにもがいた。
あと少し。もう少し。 木はもうつるの目の前だ。
しかしあと数センチのところで、木の枝を掴もうとした手は空を掴んだ。
「誰か」
鶴は絶望し、祈るように言った。そして最後の力を振り絞って持ってもがいた。岩へ向かう軌道を少しでもそらせるように。
しかし流れは速く、鶴がいくらあがいても体は自然と岩の方に向かう。
もう駄目だと思った時、大きなつっかえ棒が体にぶつかった気がした。顔を上げると、びしょ濡れの男の顔があった。髪が水に濡れて顔中に張り付いている。
男は鶴の胴体に手を回し、大きく水を掻いた。すんでのところで大岩を回避し、 流れが変わったところで、男は傍にあった木の枝を掴んだ。
水から上がった二人は岸に倒れ込んだ。二人は疲れ果てていた。川の中で揉まれたせいで、そこら中を岩に打ち付け、打撲だらけだった。
鶴は何も言えず、ただ震えていた。衣類がべったりと肌に張り付き体温を奪っていた。
男は手早く衣類を脱ぎ捨て、 体についた水滴を拭った。
鶴もそれに習った。長い髪が首筋を冷やすので、手で髪を浮かせるようにして持ち上げた。
鳥の声がしていた。川の流れる音を聞きながら、しばらくして震えが収まるのを待った。時間とともに、太陽の光が少しずつ体を温めていった。でもそれとは対照的に、鶴の心は暗く閉じていった。
死にたくない。それはまごうことのない事実で、だからこそ鶴はずっとそれを否定したいと思っていた。でも今、もうそんなことは無理だと分かった。
鶴は冷え切った顔に、熱い涙が溢れていくのを感じた。自分が恥ずかしい。けれど、どうしようもできない。
鶴はちらりと男の方を見た。きっと、自分をバカにしているに違いないと思ったのだ。
口では偉そうなことを言っていたくせに、いざ溺れそうになったら助けてくれと言って泣く。
しかし男は何も言わず、近くの岩に濡れた衣類を広げて干しながら、日向で寝転がって川面を見つめていた。
「責めないのか」
鶴は沈黙に耐え切れずに入った。男はこちらを見ずに言った。
「何が」
次は言葉に詰まった。自分の口で自分のやったことを説明するのが恥ずかしかった。
でも誰かに自分を糾弾してもらわないと、自分がますます駄目になってしまう気がした。
「私は死ぬ準備はできていると言ったくせに、お前に助けを求めた」
男は何も言わなかった。川面から目を逸らさず、何も聞いていないような素振りだ。
鶴は男から回答求めている自分を恥じた。
誰かに糾弾されることで、そうして罰を受けることで 、自分の罪をなかったことにしようとした自分を 。
「私はもう巫女失格だ。このままもう一度川に落ちて死んでしまいたい」
「でもそんなことをする勇気もないんだろう」
男は相変わらず鶴を見ずに、そういった。その通りだった。
「それは当たり前だ」
そして暫くして言った。
「もう自分で死のうとだけはするな」
男はそう、呟くように言った。そして、それ以上何も言わなかった。
風がそよいで木の葉が擦れる音がした。
尻に当たる石はゴツゴツして、木々の隙間から溢れる光は暖かかった。
鶴は長いこと、川面に反射する光を眺めていた。
そしてゆっくりと、眠りに落ちていった。
*
母が私の手を引くままに進んでいく。もうすぐ日暮れだった。母はいつもより仕事を早く切り上げて帰ってきた。鶴はその日も、いつものように母と一緒に、家でできる仕事をするのだとばかり思っていた。
しかし母は部屋に入ることもなく、鶴を連れてすぐに家を出た。
「母様、どこに行くの?」
そう聞いても、母は何も答えず、黙々と歩いていく。
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