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集落を過ぎ、 お墓を過ぎ、 たまに山菜を採りに行く山のふもとを通り過ぎた。道はどんどん狭く、荒れていく。
この頃の母は魂が抜けたようだ。原因はわかっている。半年前、父が死んだのだ。大工だった父は、現場の事故で亡くなった。あんな軽やかに足場を歩く男が、と誰もが驚いた。突然だった。
鶴は足が疲れてきて、ずっとひかれている片方の手が痛くなってきたとき、母が急に止まった。
そこは、村の生活用水を運ぶ川の下流だった。中途半端に橋がかかっている。季節は梅雨だったが、その日は晴れ、夕日がさしていた。木々からこぼれる日が水面にオレンジ色の輝きを投げかける。
その川の向こうへ渡れば、隣の村はすぐそこだった。父はここに橋を架ける工事に携わっていた。ここは以前から、限られた時期に船を使わなければ渡ることはできず、ここに橋が開通すればさぞ便利だろうと、村の会議で決まったのだ。父は率先して、その技術を橋の建設に注ぎ込んだ。
鶴が父のことを思い出していると、鳥の声がした。耳慣れない鳴き声に母を見上げると、彼女はぼんやりと川を見つめていた。
ほつれた髪が風にふわふわと揺れている。
川は増水しており、鶴はだんだんとその音や勢いが怖くなってきた。
鶴は母の足元にしがみつく。着物の分厚い布が鶴の頬に当たってこすれ、鶴の頬は赤くなった。
母は鶴を抱き上げた。鶴は自分をしっかと抱く母の手が大好きだったが、なぜかその時は不安を覚えた。鶴は目線が上がって見えたものの名を呼んだ。
「せみ」
母がふとこちらを見た。
「まだ蝉はいないでしょう」
「せみ」
母は鶴の目線の先に焦点を合わせた。
そこにいたのは青い宝石のような鳥だった。
「ああ、かわせみね」
「カワセミはセミじゃないの?」
「蝉は夏よ。あと一か月もすれば見れるかしら」
「じゃぁまた見にくる?」
母はゆっくりと鶴のほうを向いた。
焦点のあっていなかった目がだんだんと目の奥に映像を結んでいったのが、鶴にはわかった。
母は鶴を長い間見つめていた。
日がすっかり暮れたころ、母は鶴を川辺に下ろして言った。
「帰ろうか」
それから1か月後、鶴は領主に巫女として迎えられた。
*
風が吹いて、山の斜面に石が転がり落ちる。小石はどこまでも下に落ちていって、ついに見えなくなる。
鶴は山の斜面にへばりつくように、前かがみになって少しずつ歩いた。先ほどから何度も小石に足を取られている。気を抜くと自分も数十メートル下に落ちてしまいそうだった。
二人は切り立った山の稜線近くを歩いていた。さらにその日は風が強く、鶴には立っているのも難しいくらいだ。
男がこの山を越えると言った時、鶴は我が耳を疑った。その山は険しいことで有名で、傾斜がきつく、標高も高い。夏でも春のような気候の山だ。
鶴の屋敷からも、この山はよく見えた。そして、ここが呪いの山と言われていることも知っていた。その山を越えようとすると、山の神の怒りに触れ、死に至ることもあるという。
何人かが山に登ったが、それ以来姿を現さなかったのを見、村人は誰もその山に近づかなくなった。
稜線に近づくにつれてどんどん木は減っていった。それにつれて、風もどんどん強くなった。
鶴は自分の髪をまとめて紐で縛った。しかし、縛った髪の房も、ものすごい強風に煽られ、鞭のようにしなり顔に当たった。鶴はこんな風を経験したことはなかった。
男は最初、鶴を背負って山を登っていたが、山の中腹で、鶴は自分の足で歩くと主張した。
「また逃げるつもりか」
男は鶴を睨んだ。
「逃げない」鶴は言った。こんな場所で逃げても、死ぬか、また男に捕まるだけだ。
「では命綱をつける」
「それも駄目だ」
「まだ死にたいのか」
鶴は苦笑した。
「そうじゃない。私は私が落ちそうになった時、お前が共倒れしないようにと思って言ってるんだ」
「逆だろう。お前が落ちても俺は持ちこたえられるが、俺が落ちたらお前も道連れだ」
「なるほどそれは考えなかった」
男は不思議そうな目で鶴を見て、それからぼうぼうのひげがぐいっと持ち上がった。笑ったのかもしれないと、鶴は思った。
男はその後は何も言わず、鶴の胴体と自分の胴体を縄でつないだ。
ついに二人は、稜線までたどり着いた。しかしまばらに生えていた木も殆どなくなり、風は一層強く感じられた。山の反対側は、何かにえぐられたような急斜面だった。二人は稜線沿いを進み、安全に降りられる場所を探した。
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