土と鶴

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領主の直属の兵士だった。風に苦戦しつつも、しっかりとした足取りでこちらに登ってくる。あの調子だと、すぐにでもこちらにたどり着いてしまうだろう。 男はすぐに体の向きを変えた。また稜線の方に向かい、這いつくばって進み始める。 「やめろ、自殺行為だぞ」 鶴がそう叫ぶのを無視し、男は一心不乱に稜線に向かって進み続けた。時々風に煽られながらも、這いつくばり、必死に地面にへばりつき、一歩一歩確実に進んで行く。体に縄がつながれている鶴も、引きずられるようにそれに従う。 何度か矢が放たれたが、どれも男には当たらず、明後日の方向へ飛んで行った。 立っているのも難しいこの風の中で、武器を操り敵を仕留めるのは至難の業※だろう。条件が悪いのは、兵士たちにとっても同じだった。 ついに二人は稜線に辿りいた。 反対側を見下ろした鶴は息を飲んだ。鶴たちが上ってきた斜面よりずっと急な斜面が、下まで続いている。はるか下の方に、木が広がっているのが見えた。 男はしばらく反対側の斜面を眺め、それから覚悟を決めたように斜面を降り始めた。慎重に足場を確かめる。 「無茶だ」 「つべこべ言うな。ほかに道があるか」 鶴は再度、後ろを振り向いた。男の言う通りだった。今捕まったら、鶴が生贄となり殺されることは確実だった。 二人を繋ぐ縄が風にたなびき、ブンブンと触れている。男はそれを鬱陶しそうに肩に回した。 その時、男の足場が崩れた。 鶴もそれに引きずられるようにして、すごい勢いでずり落ちていく。鶴が声にならない声をあげた。 男が鉈をすばやく取り出し、地面に突き立てる。わずかに速度が落ちる。しかし二人はそのまま落下し続けた。 ゆっくりと落下が止まった。男と鶴は、斜面に僅かに出っ張った岩の上に立っていた。いや引っかかっていた、と言うほうが正しいかもしれない。 二人は息を整えた。互いに何も言わなかった。 強風が二人を煽る。この状態では二人がまた落ちるのは時間の問題、という感じだった。 男はしばらく自分の足元を見ていた。やがて、おもむろに縄を解き始めた。 「何をしている」 男は解いた縄を鶴に手渡しながら言った。 「なんのつもりだ」 「俺はもう動けない。お前が運よくここにしがみついてることができたら、きっと領主の手の者がお前を助けてくれるだろう。その後のことは自分で考えろ」 「まだ何かできることはあるだろう」 「ない。手近に俺の体重を支えられそうな足場がないからな。領主たちに見つかってもそのまま殺されるだけだ」 鶴は左右上下を見回した。確かに成人男性を支えられるような足場はどこにもなかった。 鶴は髪を風にはためかせながら、唇をかんだ。風と太陽の光にさらされ、すっかりひび割れている。 その時数メートル先に 生えている 木が目に入った。 鶴は一瞬のうちに考えを決めた。男から受け取った縄が体に巻き付けてあることを確かめ、体の向きを変える。 「おい何を」 風が止んだ次の瞬間、鶴は、斜面に突き出た岩の一つに足を伸ばした。少し体重を乗せて、崩れないか確認する。 次に右手を伸ばし、小さく突き出た岩を思いっきり握りしめ、体をさらに遠くへ伸ばした。 「やめろ、死ぬぞ」 「ここにいたってどうせ死ぬ」 鶴は突き出した足に全神経を集中し、岩に体重を乗せた。そしてまた男が何か言う前に、もう片方の足を完全に離した。 その時、左足で踏んでいた岩がぐらりと揺れた。鶴はバランスを崩し、必死に右足で踏ん張る。足元の小石がカラカラと音を立てて下に落ちていく。 チラリと下を見ると 、延々と斜面を転がった小石が、大岩にぶつかって粉々になったのが見えた。 鶴はぎゅっと目をつぶって呼吸を整えた。 「おい戻ってこい」 風の中、鶴は男の声を遠くに聞いた気がした。幸運なことに、風は反対側ほど強くないことに、鶴は気が付いていた。 鶴は目をつぶって深呼吸をし、自分の体に意識を集中した。今はとにかく、斜面を横に進んでいくことだけを考えろ。そう自分に言い聞かせ、鶴は次に握れる岩を探した。 気の遠くなるような作業だった。二つ足場を進んでは、ひとつ戻った。ちゃんと進んでいるかどうかさえ、鶴にはよくわからなかった。 だが、足場を五つほど進んだ時、急に大きな風に煽られた。鶴は必死に岩肌にしがみついたが、体が浮き上がるのを阻止できなかった。 体が重力に逆らえず、奈落の底に沈み込むように落ちていく。
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