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「往来のど真ん中で、女の着物を引っ剥がして脱がした――だと?雅勝、お前、何考えてんだよ?」  清水忠雅は、代々、君水藩明野領の家老を務める清水家の七男である。  清水家は明野領で誰もが認める名家だが、先代が端女に手をつけて生まれた妾腹の七男は長く不遇の時を過ごし、果ては長く清水家が管理している隠密組織――通称影衆の一員とされ、生家の没落により影衆に売られてきた雅勝とは幼少期から共に育った。後に清水家では嫡男から六男までもが夭折し、妾腹の七男坊に家督が回ってきたが、今でも互いの間で身分の上下はない。一応、他者の目がある時はへりくだって敬語を使うが、二人きりの時には遠慮もないし、忠雅がそれを咎めたこともなかった。 「そんなに飢えてるんなら妓楼に行け、妓楼に。こないだ、お前好みの女が入ったから早く帰って来いって報せてやったろう」 「忠雅、お前な、潜入している最中にそんなこと報せてくるか、普通。正体がばれたら殺されるのはこっちなんだぞ」  二月に及ぶ潜入任務の終盤になって上役から届いた報せだ。それなりの覚悟を持って開いた書簡が女の話題だった時には、思わず文を取り落しそうになった。一応、何か重大な事柄が隠れていないかと透かしてみたり炙ってみたりもしたが、そんなものが風に吹かれて本領の誰かの目にでも止まった日には、今頃、雅勝の胴と首は繋がってはいない。  明野領の領主武智雅久が住まわるのは、城ではなく陣屋である。本領には当然、藩主が住まわる立派な山城があるが、飛び地領である明野領では、何度願い出ても築城の許可が下りなかった。  裏の組織である影衆は直接領主に目通りすることはない。こうして陣屋の母屋から遠く離れた一室で、人目をはばかるように御役目を告げられ、成功して帰ってきたところで、出迎えられることは決してない。家臣に数えられることも、妻帯することも許されないし、傷を負っても医者を呼ばれることさえない。同じ時期に影衆になった同士の中で今も生きているのは雅勝と忠雅の二人だけである。 「で、首尾の程は?」 「――うまくいった」  今回、雅勝に与えられた御役目は、本家の藩主武智泰久の種を宿した女を始末することだった。老齢の泰久には江戸に嫡男の嗣久があったが、病弱の嗣久には男子がなく、嗣久以外には家督を継ぐ男子もなかった。嗣久亡き後に後継争いが起こるのは必須であり、その際は血縁であり、年若く英明の誉れ高い明野領の雅久が後継候補筆頭なのは明確だ。明野領の武智家にとって、本家への返り咲きは三代前からの悲願である。そんな時に、参勤交代で帰ってきた泰久が手をつけた侍女が懐妊していることが、本領に潜入中の他の影衆から密かに伝えられたのだ。  今、泰久に男子でも生まれてはたまったものではない――だから腹の子ごと始末する。それが影衆に与えられた役目だ。  ――可哀想な娘だったな。  齢わずか十六で藩主の目にとまって寝所に上がり、懐妊がわかると同時に暗殺を恐れて実家に帰された。代々藩主に使える納戸役の実家も恐らく扱いに困ったのではなかろうか。わずかばかりの使用人と共に離れの一室に押し込められるようにして生活していた。寂しい日々を送っていた所為か、庭師を装って潜入した雅勝を兄のように慕って、遠方や異国の話を聞きたがった。二ヶ月あまりですっかり信頼を得て――彼女が藩主の胤を宿した女だと確証を得た上で始末してきたのだが、恐らく、彼女は誰に何故殺されるのかも芯から理解していなかったに違いない。  だからなのだろう。自分が殺してきたのと同じ年頃の巾着切りの娘を女だとわかった瞬間、思わず手を放してしまったのは。 「よくやった。とりあえず今はゆっくり休め」  先日、高齢の先代が隠居し正式に家老に就任した幼馴染はそう言って、肩に手を置いて部屋を出て行った。忠雅が影衆を束ねるようになってから、御役目と御役目の間には必ず何日かの休暇が与えられるようになった。首尾よく成功した暁には清水家から幾ばくかの褒美も出るようになったので、それこそ、忠雅が言っていた妓楼にでも行ってみようか――と考えた時、目の奥に誰のものとも知れぬ白い肌が過った。  雅勝が往来で着物を引き剥がした娘の身元がわかったのは、それから三日程たった後のことだった。  街の真ん中で騒ぎが起きたので、あの後、番屋から人が来て事情を聞かれた。一見、か弱いおなごに無体を強いた――ように見える雅勝については、家老である忠雅の身元保証によりすぐに放免されたが、巾着切りの娘は掴まらなかった。かなり身が軽そうだったので常習犯かと思っていたが、あろうことか最近陣屋の奥に上がった新入りの侍女の一人であるという。  どんな事情があるのか知れないが、あの若さで盗み癖でも身についているのなら、罪深いというより哀れだ。陣屋に勤められたのであれば、これ以上身を持ち崩さず、まっとうな道を歩んでくれればいいと思ったのだが、その当の本人が、直接雅勝に会いたいという。 「――るい、と申します」  通された陣屋の奥の部屋で待っていると、さほど時を経ず一人の娘が現れた。あの時は少年のいで立ちをしていたが、今日は女ものの小袖に身を包んで、髪だけは同じように髷を結わずに頭の後ろで結わえている。女は化けるとはよくいうが、元々おなごなのだからこちらが本来か。わずかばかり障子開けて、きっちりと膝を揃えて座る仕草には、あの時にはなかった知性と教養すら感じられる。 「樋口雅勝だ。――なぜ、俺に会う気になった?」 「樋口様の誤解を解きたくて。わたしは盗みなどしていません」  男女七歳にして席を同じく――などと論語を諳んじるつもりはないが、若い男女が同じ部屋に長くいるのは気が引ける。あまり長居はせず、これからはまっとうに働けと諭して帰るつもりだった雅勝は、この期に及んで言い逃れようとする娘の言い分に、空いた口が塞がらなかった。 「は?人の袖に手を突っ込んでおいて、よくそのようなことが言えたものだな!」 「違います!あれは願掛けなんです!」 「……願掛けだと?」  最近、侍女仲間のうちで流行っているのだという。想う相手の袖や懐に自分の髪や持ち物を忍ばせると、相手の男が自分から会いに来てくれるという願掛けだ。他愛無いと言えば他愛無いかもしれないが、何も知らずいきなり袖に他人の持ちものが入っていたら、一応、持ち主に届けくらいはするだろう。しかし見ず知らずの人間の髪が入っていたら、男の立場からすればなり気味が悪くなかろうか。  ちなみにるいが袖に手を突っ込んだ若侍は彼女の想い人ではなく、侍女仲間が身軽な彼女に願掛けを頼んだのだそうだ。なるほどそれが袖にも懐にも盗んだものが入っていなかった理由かと得心したが、あの状況でそれをわかれという方が無理な話だ。 「樋口様が誤解なさったのは無理もないとは思います。ですから、掏りと間違われたことには何も申しません。ですが――わたしの着物を引き剥がしたことについては、謝って下さい」  言われて思わず、きっちりと合わされた小袖の襟元を凝視してしまった。確かあれを押し開いたんだよな、あの時、と思いだし、その先に続いていた白い肌まで思い出しそうになって慌てて首を振る。 「お前が巾着切りでないことはわかった。だが詫びるつもりはない。詫びられたいのならば男の恰好などするな。あの状況で、お前がおなごだとわかれという方が――無理だ」 「詫びるつもりはない――と言うのですか」  妙に据わった眼をして迫ってくる娘の迫力に何故か気圧されそうになる。あのまま黙って知らぬふりをすることだってできただろうに。わざわざ雅勝をここに呼び出したのは、彼の誤解を解いた上で、無体な振る舞いを謝罪させる為なか。よほど筋を通さないと気が済まない性分なのか、それとも単に気が強いのか――恐らくその両方であろう。  というか、何で俺が悪いみたいな空気になっているんだ? 「あんなのどこからどうみても男だろうが。女ならはじめから女らしい恰好をしておけ」 「街にでる時は、あの恰好の方が動きやすいんです。大体、わたしが何を着ようがわたしの勝手です!」 「阿呆!一見してわからなければ、何かあった時、守ってやることもできないだろうが!」  思わず声を張り上げて、あまり近づくつもりはなかった相手に、今度は自分からかなり近づいていたことに気がついた。  気まずくなって身を引いた時、恐らくは純粋な怒りからであろう、大きな目に涙が浮いているのを見て、雅勝はどういうわけか何かとてつもなく悪いことをした気分になった。
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