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私が知らないと思っていたのでだろう。とてもびっくりした様子だ。
「昔、父さんから聞いた」
その言葉にも祖母は反応した。
「なんて聞いた」
祖母は前にあった湯飲み茶碗を両手で抑え、うつむいた後、顔を上げた。
「よく覚えてない、冬の寒い日に倒れたって」
「そう。その通り」
祖母の話し方は、その話はもうするな、という感じだった。いつも優しい祖母が厳しく思えた瞬間だ。
しばらくすると、母は退院してきた。ただ少しやつれて、生気が無い感じだった。祖母は母の鞄を持ち、後ろからゆっくりと実家の坂を上がってきた。
「お母さん」
と声をかけたくなったが、私の思春期という状態がそうさせなかった。
「洋ちゃん」
坂の下から私を見上げた母の目は愛おしいものを見る目だった。
母はそれから病気がちになった。たまに旅館に行き、いろいろ話しているようだったが、叔母にしてもらうための話し合いのようだった。
ある日の夜、かなり寒い日だ、私は部活を終え、自宅に向かっていた。あの丘の工事はまだ続いている。
自転車でもキツいこの坂の上には数件しか家は無い。
古い引き戸を開けると石とコンクリートの混ざった土間があり、右がトイレと洗面所、左に台所がある。風呂は離れにある。
「ああ、おかえり」
祖母はこたつに入れていた手を出した。
「お風呂がまた、ダメなんだよ」
特にがっかりした様子もなく、淡々と言った。部活帰りの年頃の私にはすぐに入るつもりだった物かあてにならず、少しイラッとした。
「旅館の風呂行くよ」
私は鞄を部屋の隅に投げ、畳に身体を投げ出した。
母はまた入院している。最近は腎臓が悪いらしく、町の大きな病院に居るため、会いに行くことはほとんどない。
ぼっーと、昔のことを思い出していた。
父が垣根の椿の花をめくり、虫がいないかと見ているところ、母が着物を着て小走りに旅館の廊下を歩く姿。家族が幸せだった時であろう。
ふっと、目が覚めた。寒さで起きたのだ。
机の上の時計を見ると、12時を過ぎていた。部屋の扉を開けて、台所に行くと小さなテーブルの上に、いつもの祖母の食事が置いてあった。祖母はもう寝ているのだろう。
風呂には入れない
そう思うとなおさら入りたくなり、玄関先にある鍵箱を開けて、じっと中を見た。
最近、それに触った記憶はない。小さな頃にそこから鍵を持ち出して、強く叱られたからだ。
そこには旅館の全ての鍵が並んでいる。ざっと見渡し
「これとこれ」
と小さくつぶやいた。
玄関の木戸が鳴らないようにそっと家を出た。部屋にあったビニール袋に小さなタオルを入れておいた。そのまま自転車に乗った。
坂を勢いよく降り、崖下の道が見えてきたら、その横断歩道を渡る。そのまま道沿いに走れば、右のほうに旅館が見えてくる。
ハンドルから右手を離し、ポケットの中に手を入れ、鍵があるのを確認する。
持ってきたのは露天風呂の隅にある外戸の鍵と露天風呂から渡り廊下に入る鍵、そして家族風呂の鍵だ。
この辺りの旅館には温泉はない。地盤が弱く、掘削に不向きだからだ。浴場は夜に全ての水を抜き、朝入れるのが習慣だ。冬のこの時期、海の近くの旅館に宿泊する人は少ない。
その日も宿泊者は居ないと聞いていた。
旅館の正面玄関を見ながら、そのまま椿の垣根を周りこんだ。風が吹いて葉が
カサカサ
と鳴っていた。辺りには街灯が少ない。露天風呂の外戸周りにも灯りはない。
ポケットに手を入れ、鍵を確認する。どれかに当たりをつけて、鍵穴に合わせてみる。
一つ目で開いた。
露天風呂の外戸を開けると小さな石畳を踏んで、左側に露天風呂があるが、もう湯は抜いてある。ここではお湯にあたることは出来ない。
そのまま渡り廊下のあるところまで行くとまたガラス戸があるが、これは向こう側から鍵をかけるタイプで、こちら側からは鍵を縦にすれば開く。
この渡り廊下は小さな灯りがいつも点いている。最も古いタイプの白電球で、天井からコードと一緒に垂れ下がっている。
私が入ろうとしているのはその廊下に沿って造られた家族風呂だ。
大浴場まで行くより、ここでお湯を浴びて帰ればいい、湯船には浸かれないが、お湯され出ればいいのだ。
この家族風呂は割と広い作りになっている。家族四人でも充分な広さだ。
扉を確認すると、中には誰かいるようで灯りが点いている。この時間なら旅館の従業員かもしれない。
立ち止まった。
少し考えたが、従業員が浴場を掃除する以外で入ることはまずない。あくまでもお客様のためだ、そんなことを言っていた祖母を思い出し、そっと扉を、半分ほど開けた。
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