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 今日はまだ、あの気味の悪い猫を見かけない。  けれど、この家の中のどこかにはいるんだろう。  あの猫がれいの薄気味悪いニヤニヤ笑いをしながらこの家のどこかの部屋で爪でも研いでいるのが、ぼくにはわかっている。  それはもう、はっきりとこの目で見るよりも明らかに、だ。  あいつは、なぜかこの家からは一歩も出たがらないんだから。    男は用心深く、磨き込まれた板張りの廊下を横切った。  今日は以前、母様が使っていた部屋を掃除して風を通す予定だった。  広く、日当たりのいい前庭に面した八畳間で、古い鏡台と藤で編んだ母様の肘掛け椅子が置いてある。  月に四度、男はこの部屋を掃除することにしていた。  本当はもっと頻繁にしたいのだか、仕事やその他の雑事の合間に暇を見つけるのが、最近ではなかなか困難になってきていた。  まぁ、掃除と言ってもたいしてすることはなく、鏡台にうっすら積もった埃と、母様の洋服をしまってある箪笥の上を払って、畳の上を箒ではき、乾拭きした後、座布団を縁側に干してしまうと、もうやることはだいたい終わりだ。 「?」  男は、藤の肘掛け椅子をどけようとしていた手をとめた。  椅子の後ろに何か落ちている。  拾い上げて目を近づけると、それはミッキーマウスの絵柄の付いた子供用の小さなハンカチだった。  あの女の子が忘れて行ったんだ。  返してあげなくちゃ。  男はぼんやりそう考えながら、ハンカチをポケットにしまうと、掃除の続きを再開した。
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