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今、思い返してみても、なぜあんな事をしたのか、自分でもよくわからない。
あれは二週間ほど前、男は家の前で一人の少女と出会った。
紺色の布地に白い大きな水玉模様をあしらった丈の短いワンピースを着た可愛い女の子だ。
年は十歳だと言っていた。
男は少女を家の中へ招き入れ、麦茶とクッキーを出した。
少女は腰に届きそうなくらい、長い髪を二つの三つ編みにあんで、無造作に両脇に垂らしていた。
男はその髪をほどき、手を引いて奥の部屋へ通した。
母様の部屋だ。
母様の肘掛け椅子に座らせ、母様の鏡台に向かって、少女の髪を櫛削ってやりながら、男は頭の中で少女を犯した。
泣き叫ぶ少女の口にめくり上げたワンピースを押し込み、怖がって暴れる手足を抑えつけて、犯した後、男は少女の首を締めた。
手の中で細い首が音もなくへし折れ、信じがたい角度に少女の顔が傾くのを想像すると、にわかに強大な力を手に入れたような気持ちになったのだ。
想像の中で、男の力は絶対的で無限だった。
しかし実際には、男は、少女の髪をといて編み直した後、何事もなく家を送り出した。
母様の部屋でそんな事が出来るはずがない。
外は茜色の夕暮れで、少女は男に手を振ると、一目散に夕日の方へ駆け出した。
風に広がった紺色のワンピース。
走り去ってゆく後ろ姿。
そのシーンは、男にデジャブを起こさせた。
同じ光景をいつか見た。
それがいつの事だったのか、いまだに思い出せずにいるが、確かに男の記憶のどこかに同じ光景が沈んでいるはずだった。
思えば、あの笑う猫を初めて見かけたのも、同じ日ではなかっただろうか。
少女を見送った後、母様が大事にしていた前庭の花壇の手入れを済ませ、手に付いた泥を落とそうと裏庭にある古水道の所へ回った時、あの猫が現れたのだ。
あの時の、ゾッするような感覚は今でも消えずに残っている。
昔から、男の家の裏庭は使えなくなって邪魔になる物を棄てておく場所になっていた。
日陰で植物も育たず、いつも澱んだ空気が立ち込めている薄暗い場所で、男が小さい頃乗っていた錆びた自転車や、壊れた掛け時計、取っ手のとれたヤカン、割れた陶器や皿類、あらゆる不用品が、不燃ごみの集積場も顔負けなくらい山積みになって放置されている。
その裏庭で唯一、役に立つものといえば、今にも倒れそうなほどグラつく水道栓と、秋にくる台風から家の屋根を守ってくれる大きな樫の木くらいなものだった。
その樫の一番低い枝の上から、あいつは下界を見下ろしていたのだ。
あるで、不思議の国のアリスに出てくる、チェシャ猫そっくりに、あいつは顔中ニヤニヤ笑いを浮かべていた。
口が両耳に届くほど大きく、下弦型に裂けて、真っ赤な舌がのぞいていた。
男は、声にならない悲鳴を上げてよろめき、そばにあった石を投げつけた。
猫は石が木に届く前に、素早く枝を駆け降り前庭の方へ走り去って行った。
気味の悪い猫だ。
男は腰を屈めて、手を洗いながら思った。
そういえば、母様は猫が大嫌いだった。
猫には魔性があるんだといつも言っていた。
それに、母様が時々庭にねこいらずを撒いていたのも知っている。
大事な花壇を駄目にするから、猫が庭を横切るのも許さなかったのだ。
男はシャベルを物置に片付けて、家に上がり、何気なく母様の部屋へ目をやって愕然とした。
あの猫が、母様の藤の椅子の上に悠然と腰を降ろし、庭を眺めていたのだ。
「コラッ! 母様の椅子からどけっ!」
男は大声を上げて、猫を怒鳴りつけた。
猫はゆっくりと、男を振り返り、またしてもあの気味の悪い笑いを浮かべた。
男は一瞬たじろいだが、すぐに相手はただの猫なんだと思い直し、腕を振り上げて追い立てようとした。
猫は、怒気を敏感に悟ったらしく、すばやく椅子からすべり降り、縁廊下の方へ逃げた。
あっちは行き止まりなのに。
「馬鹿な奴め」
男は、呟いて手近にあった文化箒を取り、猫の後を追った。
廊下の突き当りでは、追跡者に怯えた猫が耳をピッタリ頭につけえ、応戦の構えで待ち構えていることを予期して、男は箒をしっかりと握り直した。
しかし……。
せぇの
と自分で掛け声をかけて踏み出した縁廊下には誰もいず、古い家の使われていない隅に特有のくすんだような、黴臭い静寂だけがガランと立ち込めているばかりだった。
あれは一体どこへ行ったのだろう。
気をそがれた思いで箒を下ろし、男は首をかしげた。
入ってきた場所も不明なら出て行ったところもわからなかった。
あの日を境に、あの猫はこの家に棲みついてしまったのだ。
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