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7
その夜。
やはり、疲れていたらしく、床にはいるとすぐに男は寝付いた。
そして、夢を見た。
夢の中でも男はやはり寝ていて、その枕元では、あの笑う猫が顔を洗っている。
ニタニタ笑いながら、一心不乱に前足で顔をこすっている。
男は布団の上に起き直り、猫を眺めた。
丸々と太った茶色い体、長い尻尾。
と、その手が止まった。
笑う猫が顔を上げた。
もはや、その顔は笑ってはいない。
いつも糸のように細められていた眼が、ぱっかりと開いた。
瞳孔が拡散し、まるで濡れた黒曜石のように輝いている。
その瞳は、男の肩越しに裏窓の方を見ていた。
「フゥー!」
笑う猫が背中を丸めて物凄い威嚇の唸り声を上げた。
いつも余裕ありげに、泰然と構えている猫にはおよそ似つかわしくもない振る舞いだ。
怯えているのだ。
と男は思った。
何かがいる。
背後に何かがじっと立っている。
「フーゥ!」
笑う猫がなおも、威嚇した。
今にも、とびかかりそうだ。
男は勇を鼓して、振り返った。
最初に眼に入ったのは、紺色のワンピースだった。
それから、顔。
母様の白い、綺麗な顔。
満面の笑顔。
「うわぁぁ!」
男は布団を跳ねのけて、跳び起きた。
全身、水をかぶったように汗に濡れていた。
「……夢か」
思わずつぶやいて、胸を撫で下ろした。
なんで母様を見て、あんな風に怖がったりしたんだろう。
母様なら、ぼくになにもしやしないのに。
愛するぼくに危害を加えたりしなのに。
男ははだけた胸元を合わせて、息をついた。
その時、枕元のかすかな物音に気が付いた。
幸い、今夜は月が出て真っ暗闇ではなかったので、次第に目が慣れてくるとそれが何だか見えるようになった。
笑う猫だ。
夢と同じように、一心不乱に顔を洗っている。前足を舐める舌の音が闇をすかして男の所まで聞こえてきた。
笑う猫は唐突に顔をこするのをやめた。
そして、ゆっくりとその顔を上げ、まん丸い眼を開けて男の顔を見返した。
黒曜石の濡れた瞳。
笑う猫は、闇の中で唇の両端を吊り上げ、ニッタリと笑った。
そしてかすかだが確かに、アゴをしゃくって男の後ろを示した。
男の後ろには、裏窓があるはずだった。
裏窓しか、ないはずだった。
要らなくなった物を棄てる、裏庭を見渡す大きな窓。
男は抗おうとした。
笑う猫は笑い続けた。
ただ、ニヤニヤと。
そして男は振り返った。
まるで暗示にでもかかったかのように。
そして、そこに見た。
「かあさま」
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