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 その夜。  やはり、疲れていたらしく、床にはいるとすぐに男は寝付いた。  そして、夢を見た。  夢の中でも男はやはり寝ていて、その枕元では、あの笑う猫が顔を洗っている。  ニタニタ笑いながら、一心不乱に前足で顔をこすっている。  男は布団の上に起き直り、猫を眺めた。  丸々と太った茶色い体、長い尻尾。 と、その手が止まった。  笑う猫が顔を上げた。  もはや、その顔は笑ってはいない。  いつも糸のように細められていた眼が、ぱっかりと開いた。  瞳孔が拡散し、まるで濡れた黒曜石のように輝いている。  その瞳は、男の肩越しに裏窓の方を見ていた。 「フゥー!」  笑う猫が背中を丸めて物凄い威嚇の唸り声を上げた。  いつも余裕ありげに、泰然と構えている猫にはおよそ似つかわしくもない振る舞いだ。  怯えているのだ。  と男は思った。  何かがいる。  背後に何かがじっと立っている。 「フーゥ!」  笑う猫がなおも、威嚇した。  今にも、とびかかりそうだ。  男は勇を鼓して、振り返った。  最初に眼に入ったのは、紺色のワンピースだった。  それから、顔。  母様の白い、綺麗な顔。  満面の笑顔。 「うわぁぁ!」    男は布団を跳ねのけて、跳び起きた。  全身、水をかぶったように汗に濡れていた。 「……夢か」  思わずつぶやいて、胸を撫で下ろした。  なんで母様を見て、あんな風に怖がったりしたんだろう。  母様なら、ぼくになにもしやしないのに。  愛するぼくに危害を加えたりしなのに。  男ははだけた胸元を合わせて、息をついた。  その時、枕元のかすかな物音に気が付いた。  幸い、今夜は月が出て真っ暗闇ではなかったので、次第に目が慣れてくるとそれが何だか見えるようになった。  笑う猫だ。  夢と同じように、一心不乱に顔を洗っている。前足を舐める舌の音が闇をすかして男の所まで聞こえてきた。  笑う猫は唐突に顔をこするのをやめた。  そして、ゆっくりとその顔を上げ、まん丸い眼を開けて男の顔を見返した。  黒曜石の濡れた瞳。  笑う猫は、闇の中で唇の両端を吊り上げ、ニッタリと笑った。  そしてかすかだが確かに、アゴをしゃくって男の後ろを示した。  男の後ろには、裏窓があるはずだった。  裏窓しか、ないはずだった。  要らなくなった物を棄てる、裏庭を見渡す大きな窓。  男は抗おうとした。  笑う猫は笑い続けた。   ただ、ニヤニヤと。  そして男は振り返った。  まるで暗示にでもかかったかのように。  そして、そこに見た。 「かあさま」
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