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確かに僕は、お姉ちゃんのように音大に行きたいとか、ピアニストになりたいとか思っているわけじゃない。ただピアノを弾くのが楽しいだけだ。上手に弾ければ楽しいから、練習だってもっとしたい。でも、練習時間を公平にきちんと決めよう、なんて提案しようものなら、お姉ちゃんの「お遊びでピアノをやってるくせに」攻撃が始まるに決まっているし、もう一台ピアノを買って、なんて言ったら、お父さんもお母さんもひっくり返ってしまうだろう。かといって、このまま十分に練習もできずに、「お姉ちゃんを見習いなさい」なんて言われ続けるのは真っ平だ。僕はどうしたらいいんだろう。
その時、
「…幸太君」
目の前のピアノの絵が、おずおずと僕の名前を呼んだ。僕の目玉は危うく転がり落ちそうになった。ピアノはちょっと笑った。
「そんなにびっくりしないで」
びっくりするにきまっている。
「もしよかったら、僕と一緒に練習しましょうよ」
えっと思った次の瞬間、僕が小さくなったのか、ピアノが大きくなったのか、僕はピアノの前に立っていた。
「さあ、どうぞ座ってください」
僕は言われるままに、座った。鍵盤に指を落とすと、深みのある音が空気を揺らした。
「いい音でしょう。幸太君が丁寧に描いてくれたからですよ」
ピアノは自慢そうに言った。
「さあ、始めましょう。少し指慣らししますか?」
僕は首を振った。
「ううん、時間がないんだ。五時にまた先生のところへ行かなきゃならないから。やり直しに帰されたんだ」
ピアノは心得顔でうなずいた。
「わかりました。例のワルツですね。大丈夫。先生をあっと言わせてやりましょう。じゃ、まずは一度通して弾いてみましょうか」
そうして僕は、夢中になって弾いた。ピアノの音は、柔らかい光に包まれたその不思議な空間で、美しく、心地よく響いた。お姉ちゃんにも、先生にも、近所の人にも、誰にも気兼ねせずに、のびのびとピアノを弾くということは、こんなに楽しい、幸せなことだったんだ。僕はまるで空を飛んでいるような気がした。
ピアノは時々、親切に、とても適切なアドバイスをくれた。何しろピアノ本人の言うことだから、断然わかりやすい。おかげであの問題のファの音も難なく弾けるようになったし、何箇所か苦手だなと思っていたところも、ピアノに教えられながら何度か繰り返すうちに、自信を持って上手く弾けるようになった。
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