浮気夫をナンパしてみた。

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「もしよければ、お食事なんていかがですか」  新品のリップを塗った唇に、上品な微笑みを浮かべる。表面上は涼しい顔をしているが、心臓はドクドクと早鐘を打っていた。お願い、さっさと断って。僕には妻がいますからと言ってすぐに立ち去って。 「いいですよ。どこにしましょうか」  目の前のスーツ姿の男は、かつて私が一目惚れした爽やかな笑顔を浮かべた。それを見た私は、自分から誘ったくせに、頭を鈍器で殴られたような衝撃に見舞われた。 ――あぁ、離婚しよ。  夫とは社内結婚だった。昔から容姿がよく気も利く彼は、会社の中でも女性から人気があった。それでも私を選んでくれて、一年前にめでたく結ばれ、私は会社を辞めた。別に仕事に熱心だったわけでもなかったので、専業主婦になったことに不満はない。  だけど、ニヶ月前から夫は変わってしまった。まず初めに帰りが遅くなった。それから休日も一人で出かけ、そのせいで二人で過ごす時間は減った。それだけならまだいい。  だけど、 『あんたの旦那、土曜に駅前のジュエリーショップに女といたわよ』  会社の同僚からのメール。これが決定打だった。今までの不可解な出来事が一本の線でつながってしまった。 「どうかしました?」  ぼーっと回想をしていたところを、目の前の当の本人に指摘される。ちなみにコイツは私が自分の妻であることに気がついてない。今日は普段しない派手なメイクをし、髪をシニヨンに結って、いつもと違う大人っぽい服装をした。鏡越しに自分でも目を疑う別人ぶりだ。あまり私と顔を合わせなくなった夫がわかるはずもない。 「あ、いいえ。すみません。とてもステキなレストランだと思って……よく来られるんですか?」  声色も若干低く落ち着いたトーンにする。私たちは彼の提案でオシャレなフランス料理店に来ていた。店内は落ち着いた雰囲気で、耳障りのいいジャズが流れている。 「会社の上司に教えてもらったんです。一度来てみたかったんですけど、一人だと…なんだか寂しくて」  一人だと寂しい? 私を連れていけばよかったのに。なのに見ず知らずの女をさらっと連れてきちゃうなんて本当に最低男。 「よく女性とお食事されるんですか?」  私は内心イライラしながら早口に質問した。すると彼は柔らかく微笑んで、 「あなたみたいに特別な人だけですよ」  相変わらず口がうまいもんである。私の中の怒りのメーターそろそろ限界突破しそうだった。 「あなたの方はどうなんですか?」  質問を返され、運ばれてきたステーキを渾身の力で切っていた私は、むしゃくしゃした気持ちのまま前を向かずに、 「そりゃあ毎日とっかえひっかえですよ。こう見えてもモテるんです」  そうまくし立てて、一切れ口の中に放り込んだ。悔しいけど、このお肉めちゃくちゃ美味しい。  しばらくプロの味に舌鼓を打っていたが、ふと、そこで会話が途切れていた事に気づいて顔を上げた。  すると驚いたことに、彼はナイフとフォークを握りしめたままピタッと静止していた。私は思わず小首をかしげて、 「あの、何か?」 「……何でもありません。それよりもう遅いですし、そろそろ帰りましょうか。お会計は僕が払いますよ」  まだ料理が皿に残っていたが、相手が十分だと言ったらそこに目くじらを立てる必要はない。私は素直にうなづいて、 「はい、ぜひお願いします」  もちろんこんな浮気夫に遠慮はしない。 「では、ここで」  結局妻だと気づかれないまま、駅前までやってきた。このまま駅の向こう側の友人宅に泊めてもらう算段だ。コイツのいる家に戻るものか。  そう心に決め、ペコっとお辞儀をして歩き始めようとしたが、いきなり右腕を強い力で掴まれる。 「どこ行くんだ?」  私は突然のことにびっくりして動きを止めた。すると彼が怒ったように顔を近づけてきて、 「本当に気づかないと思ったのか」  頬に息がかかる。私は思わずまばたきをした。まさか……いや、そんなまさか。 「え、ずっとわかってたの? だ、だっていつもと全然違う格好してるのに」  唇を震わせてたどたどしくつぶやく。その言葉に呆れたように彼は目を細めると、 「当たり前だろ。僕の奥さんだ」 「嘘だ、浮気してたくせに。土曜に女の人と買い物行ってさ!」 「それは姉貴……って、本当はこんなタイミングのはずじゃ……」  彼はなにやらがっかりしたようにため息をつくと、ポケットから何か取り出して、私の首の周りに腕を回す。彼の体温が離れると、そこには可愛らしいネックレスが輝いていた。  つまり、お姉さんと私にプレゼントするネックレスを買ってくれたらしい。 「残業までして資金貯めてたのに、妻は毎日男と会いまくってたんだな」 「それはちがっ――」  私が焦って否定しようとすると、彼はクスクス笑った。 「浮気者。ほら、帰るぞミホ」  ミホ。その二文字にこんなにもときめかされるなんて。私はだらしなく顔を緩ませながら、夫の腕に絡みついた。夜空の月と外灯がそんな二人を静かに見守っていた。
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