心情雲

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小さな透明な水槽には、小さな雲が生きている。 「今日も可愛いな」 そのミニチュアのもくもくの物体。僕が作り出し、研究している雲だ。 僕はここの研究所で天気の研究をしている。 雲にも色々な種類がある。 鰯雲(いわしぐも)、朧雲(おぼろぐも)、 白小雲(しらさぐも)、瑞雲(ずいうん)など。 季節によって雲は変わる。 とりあえず、そんな天気の移り変わりなどを研究しているのだ。 デスクに向かって研究結果を見ていると、ブラインドの隙間から彼女が見えた。僕は立ち上がり、人差し指でブラインドを広げた。 夕雲の下で、彼女は一人佇んでいる。柔らかな風がふわふわと髪を揺らしている。それだけでも本当に絵になる。雲間から差した日差しに目を細め、白い手が太陽を隠している。そんな姿だけで鼓動が早くなり、目が離せなくなってしまう。 彼女も同じ研究所で働いている。そして僕は、彼女にずっと片想いをしている。 いつも小さな窓から見ているだけだ。話した事もない。話しかける勇気もない。 だって彼女は……。 また小さな隙間から覗くと、彼女の元に男の人が寄ってきて一緒におしゃべりをしている。 彼女の目は輝いていて、頬はほんのりピンク色になっている気がする。しゃべっている人は彼女と同じ研究をしている仲間で、彼女はきっと彼の事を好きだ。 ずっと見ていたから分かる。 だから、僕はずっと片想い。 水槽の中の綿雲は、僕の心情を吸いとっている。だから、薄い灰色の暗雲だ。 動かずに浮いている僕の想い。 届かない想い。 ふわふわ止まっているだけ。 ** 僕はいつもの様にボーッと廊下を歩いていた。 曲がり角を曲がろうと足を出すと、視界が暗くなりあの髪が隅っこを掠めて転んだ。 「あ、ご、ごめんなさい!!」 彼女が目の前に居る。どうやらぶつかったみたいだ。   「大丈夫ですか?」 数秒、その花明かりの様な顔に見惚れてしまって、ハッと目を覚ます。 「だ、だ、大丈夫です!!」 持っていた本を拾い上げ、立ち上がる。短距離走をしたみたいな脈拍と汗が同時にやってくる。 どうしよう、彼女と話している。 「良かった。あの、雲好きなんですか?」 「え?」 彼女が、僕の抱えている本を指差しながら言う。 「あ、僕、雲を研究していて……」 彼女の愛くるしい笑顔が目の前に広がった。 この日を境に、彼女が僕の研究室を覗くようになる。雲に興味があるらしい。 いきなりやってきた幸運に、僕の雲は薄青く澄んだ色に変化していた。 コンコン! 「こんにちは!小田切くん」 「星野さん、こんにちは」 「あー雲少しずつ大きくなるんですね」 「はい」 彼女がガラスに掌を置いて、雲を見つめている。雲はずっと調子がいい。彼女とこうして過ごす様になったからだ。 今、君の目に雲が映っている様に僕の事も見て欲しいと思う。 そんな自分勝手な感情の芽生えに顔が赤面する。 「私の雲も作れますか?」 「はい」 「ここに息をフーッと吐くと、こっちの水槽に雲が出来るんです」  僕は小さなホースを彼女に渡す。彼女がそこに息を吐くと、隣の水槽に小さな小さな雲が出来上がっていく。もくもくもく……それは虹色みたいに美しい雲。 「彩雲みたいですね」 「さいうん?」 「朝日や夕日、日の光によって色が変わる美しい雲の事です」 彼女は嬉しそうにその彩雲を見つめた。それは本当に綺麗で、光の具合によって色を変える雲だった。 でもそれは、彼女の恋心の色だ。 隣の雲はまた灰色に変化したように見えた。 ** 僕の雲は相変わらず、白と灰色を繰り返していた。彼女とはだいぶ仲良くなれた気がしていたけれど。 ブラインドから外を覗くと、夕立雲に覆われている空がある。あぁ、もうすぐ夕立が来る。彼女は今日、傘を持ってきただろうか。 彼女の雲も段々と大きくなっていた。その色は今日は少し違う。少しずつ灰色に近付いている様に見える。ポツポツと雨音が窓を打つ頃、彼女の雲からも一粒の雨が滴り落ちた。 それは夕立の様に雨音を増やしては、水槽をその雫で満たしていく。 彼女が泣いている。 悲しんでいる。 僕は傘を持って、研究室のドアを開け放った。 案の定、外の雨足は強くなっていた。 アスファルトに弾く雨粒を踏みながら、彼女の研究室へと向かう。 傘を立てかけ、廊下を歩いていくとあの彼が横を通り過ぎて行くのが見えた。鼓動が早くなるのを抑えながら、ドアをノックした。 コン、コン! 「こんにちは!小田切です。」 中からは微かな泣き音が聞こえてくる。 カチャリと開けたドアの隙間からは、彼女の泣き顔が見えた。やっぱり泣いていたんだ。 僕は持っていた紺色のハンカチを差し出す。 「き、きれいなんで大丈夫ですよ」 「ありがとう……」 少し悲しげに微笑む彼女は雲のように消えてしまいそうだった。 「あの、好きだった彼に振られてしまって……」 「……はい」 「彼女いるの知っていたんですけど、やっぱり言わないとスッキリしないから」 「……はい」 こういう時はどうしたらいいのだろう。 片想いの辛さは、よく分かる。 彼女の雨と外の夕立はまだ止む気配はない。 「あの、止まない雨はないと思うんです。時間が経てばその悲しみはいつか止んで、絶対に晴れると思います。この夕立の様に。だから、大丈夫です」 クサイ事を言ってしまった、と顔が熱くなってこの場から逃げ出したくなった。 「ありがとう」 知らない内に夕立は泣き止んでいた。 ** 今日も彼女の雲を見つめる。 雨は降ってない、良かった。 コン、コン! 「こんにちは!小田切くん」 この小さな空間にある二人の雲が、気持ちが、一緒の色になればいいな。 そんな事を思いながら、ドアノブに手を伸ばした。 end
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