冷たいひとより冷たいひとへ

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 郁の住むまちに美しい女性が引っ越してきた。雪の日だった。美しいひとの名前は香山洸海(かやまひろみ)という。名前を知ったのは、洸海が芸能ニュースに乗っていたからだ。彼女は有名な劇作家だった。彼女脚本の映画が一世を風靡したのは記憶に新しい。だが、その人気のため、モデルになった小さな古書店にひとが殺到した。その挙句、客同士のトラブルに巻き込まれた店主が大腿骨骨折で全治三ケ月の怪我を負った。洸海は激怒し、あらゆる罵詈雑言をネットを通じて発表し、筆を折った。その後一年、行方をくらまし、この町にやって来たのだ。郁の通う中学でもその話題で持ちきりだろう。だろうというのは郁が不登校だからだ。 「冷たいひとね」 担任教師の一言がきっかけだった。どうしてその一言を言われたのか覚えたいない。それをクラスの女の子が拾い上げて、いつの間にかいじめになった。本当にいつの間にかだった。教師にも親にも相談したが、結局のところ、学校にいられなくなったのは郁だった。両親は学校に行かなくなった郁を咎めなかった。両親は共働きで郁を放っておくしかなかったのだろう。ただ、勉強はするように言われた。郁は朝早くに起きて人気のない隣町の図書館まで歩き、そこで時間割通りに勉強した。実技の時間、HRや道徳の時間は好きな本を読んだ。郁は学校に行かなくても何も問題なかった。  洸海に会ったのはいつも行く図書館だった。洸海はネットに載っていた画像よりずっと美しかった。そして小柄だった。 「すみません」 声をかけられたとき、郁はその美しいひとが香山洸海とわからなかった。だが、あまりの美しさに返事もできず棒立ちになった。 「あの、あそこの本取って欲しいのだけれど」 郁は我に返った。 「はいっ。どの本ですか?」 声が裏返ってしまった。 「あの、緑の背表紙の」 「これですか」 「ええ」 「どうぞ」 「ありがとう」 本を渡すとにっこり笑ってお礼を言われた。そこで初めて気づいた。ネットニュースに乗っていた顔と同じだ。香山洸海。何かの受賞式でトロフィーを持って微笑んでいた。だが、記事で洸海は激怒していた。写真と内容のギャップに驚いたのでよく覚えていた。 「あ」 洸海は郁が何に気づいたかわかったらしい。しいっと口元に人差し指を当てた。棒立ちになる郁の耳元でささやく。 「声出さないで。さりげなく振る舞って」 ぶ。 全くもって我ながら理解不能だが、郁は吹き出した。こうなるともう止まらない。 「ちょっと!」 洸海は笑い過ぎで息も絶え絶えの郁を抱きかかえるようにして外へ出た。
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