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もうすぐ春休みだ。とは言え、景色は春には程遠い。今朝も雪が降っている。郁は今日もひとり朝早く家を出る。だが、向かう先は図書館ではなくさらに遠いカフェだ。そこに香山洸海が待っている。彼女はそのカフェ近くに住んでいるらしい。らしいというのは本人がそう言っているだけだからだ。
あの日、どうして追及を止めたのかはわからないままだったが、洸海と郁は友達になった。洸海には何でも話せた。洸海は何でも聞いてくれたし、なによりこの町に馴染んでいなかった。何を話そうとこの町の誰にも伝わらないのだ。「何でも」には不登校のことも入っている。だが、洸海は一度も不登校の理由を聞かなかった。だからというわけではないが、郁も洸海がどうして筆を折ったのか聞かないでいる。勉強は順調に進んでいる。洸海は勉強を教えるのが上手かった。特に文系科目は流石というか群を抜いて上手い。苦手だった古典など点数が文字通り跳ね上がった。小論文に至っては同じ人間が書いたと思えないくらい文章が変わった。やっぱりプロは違う。だが、洸海はまだ不満らしい。
「もう少し、結びは感情抑えた方がいいな。小説じゃないんだから」
「え、そう? あたし感情的? でもあたし、冷たいひとって言われたんだよ」
「誰に」
「担任」
「ふふ」
「何がおかしいの」
郁は気色ばんだ。あの一言さえなければ、郁はまだ学校に通えたかもしれないのだ。だが、洸海は郁の気色ばんだ声など歯牙にもかけなかった。
「だってなんか恋人に言うセリフみたい」
「なにそれ」
「その先生なにか温かい言葉でもかけて欲しかったのかもね」
「じゃ、あたしが悪いって言うの」
「ううん。変なひとだと思った」
「変!?」
「だって、冷たいひとねって。郁さんが何か不味いこと言ったなら『そういうことを言うものじゃない』とか、何かしたのなら『そんなことしちゃだめ』って言えばいいじゃない。それを冷たいひとねって。変なの」
「言い方なんてどうでもいいでしょ。要はあたしが冷たいかどうかじゃない」
「日本語ってどうしてこうないがしろにされるのかな。言葉って大事よ。どういう意図で言ったのか言われたのかそれを受けてどう思ったのか。ちゃんと説明しないとどんどんすれ違っていく。お芝居の中ならそれが醍醐味だけれど、現実じゃそれ地獄でしょ」
「意図なんて先生にしかわかんない」
「聞けば?」
「なんて? 『先生、私に冷たいって言ったのはどういう意図ですか?』ってそれこそ面倒なやつって思われるだけじゃん」
「どうせ学校嫌いなんでしょ。どう思われたっていいじゃん」
「嫌いだけど、罪悪感あるんだよね。学校行かないことに」
「学校って不思議な愛憎を覚えるよね」
「洸海さんも?」
「嫌いだった。でも学校行かないでどうすればいいかわかんなかったし、親に説明できる自信なかったから学校行ってひたすら耐えた。卒業できるの」
「私は耐えられなかった」
「でも、自分で勉強してるじゃん。ちゃんとできてるよ。すごい」
「ずっとね、考えてたから。学校行かなくなったらどうしようかって。勉強はね嫌いじゃないんだ。そういうと馬鹿にされるから黙ってるけど」
「あたしの頃もそうだったよ。なんで馬鹿にされるんだろうね」
「さあ。先生にもさ、なんとなく馬鹿にする人いない? 勉強好きって言うと」
「偉いって言うときの声でわかる。そういうの」
「ほんと変わんないなあ。そういうところ」
「洸海さんは私のことすごいって言うけどさ。本当は情けないんだ」
「なんで? 学校行かないから?」
「二度目に洸海さんに会った時、私トイレにいたじゃん」
「うん」
「あれね。逃げ込んだだけ。クラスメートの姿見て。最高に格好悪くない?」
「思春期だなあ」
「なにそれ」
「褒められると自虐したくなるとこ」
「そうじゃない。ほんとのことだし」
「あたしも逃げてるんだけど。逃げるって言うか全部放り投げてここにいる」
洸海は唇をかんだ。こんな辛そうな大人の顔を間近に見るのは初めてかもしれない。
「だから、正直そういうこと言われるとちょっと心にくるものがあるんだわ」
「ごめん」
「あんなに神経すり減らして時間使って必死で書き上げたものがさ、一番大事なひとにけがを負わせちゃって、挙句、何故かバッシングまで受けてるの見たらもう全部嫌になって放り出してここに来たんだ。最高に格好悪いのはあたし」
「ごめん」
「泣かないでよ。なんだ。やっぱり全然冷たくないじゃん」
洸海は郁の涙をくしゃくしゃのハンカチで拭いてくれた。拭き方が下手で爪が時折頬に刺さった。
「洸海さん、手冷たい」
「あ、ごめん。冷たいのはあたしか」
郁は笑い出した。何が面白いのか全然わからないまま笑っていると洸海も笑った。
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