830人が本棚に入れています
本棚に追加
哀しい心
「これ? ああ。この包帯みたいな謎の布のこと?」
確かに粗末な布だとわかっているがそうジルにこんな煌びやかな場所で図星を差されるとまた羞恥心を刺激されて顔が頬が熱くなる。しかし頑張って再び聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな呟いた。
「これが家で一番肌触りがいい布だったんだよ」
自分の惨めな境遇の象徴のようなこの首の布。けして好きなわけではなかったが、だからといって人からみっともなさを指摘されると哀しさと情けなさが余計に募る。しかしその呟きはジルの耳まで届いていたようだ。
「ああ、そうか。お前見るからに赤ん坊みたいに肌柔らかくて弱そうだもんな」
しれっと砕けた口調で雪のように真っ白な首元をするっと触られて、こそばゆさと、何かわからぬぞわっとした感覚に襲われリオンは文字通りその場に飛び上がった。多分彼が子犬だったら『きゃいんっ』と鳴いたぐらい大仰な動作だ。
(ほんと、なんていうか揶揄いがいありすぎて、俺の中のなにかやばい部分がぐいぐい刺激される……。やり過ぎないようにしないとまずいな。こりゃ)
かつて惚れ込んだ美貌の想い人へも、ぐいぐい迫り倒し行き過ぎてしつこいと怒られたこともある。自分が人からしつこくされるのには冷淡であるのに、自分からは手ごたえを求めてしまう悪癖。
しかし想い人はアルファ男性であったし、年齢も年齢。丁々発止のやり取りを繰り広げて、たとえやりすぎても結局はびくともしなかった。しかし田舎から出てきたばかり、見るからに華奢でひ弱な、しかしはねっ返りだけ強そうなオメガの少年に、一体どの程度の耐久性があるのか警官であるジルであってもまだ全てを見透かしきれないでいる。
「ほら、オメガは急所をすぐに触れるようにしておいちゃだめだってことだ」
「……」
「列車で長旅するなら必需品だ。これぐらい俺が出してやるから」
「こ、こんな……。か、買ってもらうわけにはいかない」
思わず驚いて裏返るほどの大声を上げたリオンに、店員も困った顔になるし周りの客もみなこちらを見てくる。リオンはバツが悪くなって今すぐ逃げ出したくなった。
咄嗟にジルが持っている自分の鞄を取り戻そうと力いっぱい引っ張りながら踵を返そうとしたが、無論ジルはびくともしない。
「おい、落ち着けって」
再び大きく息を吐いたジルは興奮するリオンを連れて一度売り場から離れると、多くの観葉植物が庭のように美しく配されている人目につかぬ一角に華奢な彼を半ば抱えるようにして連れ込む。そののち大人しくなったリオンの熱い身体をジルは床に下ろそうとした。しかしまだ脚だけで宙を漕ぎながらどこかに行こうとするので腕の中にがっしり抱き止めながら小さな耳元に囁く。
「待てって。首輪つけないなら列車に乗るのは諦めろ」
「それは、駄目だ! 俺はどうしてもハレヘに行かないといけないんだ」
「じゃあ、チョーカーは必要だ。列車に乗って旅をして、その間にもしも番のないオメガ側がチョーカーなしで無理強いをされたら、それはオメガの側の過失もとられる。未だにそれは変わらない。お前北の出身だろ? ……どうしてそんな頑なにずっと南のハレヘになんて行きたいんだ?」
ジルに呆れたような声で尋ねられたから、またリオンの中に彼に対して反発する気持ちがむくむくと湧き上がる。
(切符さえなくさなければ、もうとっくに列車に乗って出発できてたのに。なんでこんなところでこんな話をしないといけないんだ)
むかむかした気持ちを抑えられずにリオンはぎゅっと掌を握りしめて肩を震わせた。
「母さんと約束したんだ。俺は、どうしたってハレヘに行って仕事を探すんだ。母さんが言ったんだ。ハレヘではオメガも平等に仕事を与えてもらえるって新聞に書いてあって、凄く優しい領主様がいて、きっと助けてもらえるからって。母さんが苦労して俺に旅費を出してくれた。俺にはもう肉親は母さんしかいないから、傍で俺が働いて助けてあげたいのに、ブシャドではオメガの俺には仕事を与えてもらえないから。ハレヘで仕事を見つけたら頑張ってお金を貯めて母さんを迎えに行くんだ。だからどうしても……」
さっきはきちんと仕事をしていた成人だと啖呵を切ったのに、こんなことをいうのが惨めすぎてリオンは泣きたくなった。
すると頭の上の方でジルが大仰に「はあっーっ」っと大きくため息をついた。
「じゃあなおさら、お前は俺のことを利用してでもハレヘに行くべきだな。お前がやりたいことがそれなら、覚悟を決めて四の五の言わずに俺の手を取れ。なんでそんな体面にばかり拘るんだ?」
「だって、だって俺」
「お前は甘い。たとえオメガじゃなくたって田舎出身で知り合いも頼りになる親族もない人間が、一人ですぐに仕事を見つけて生きていける程、世の中甘くないぞ。頭で損得の勘定ができないようじゃ、どうしたって生き残っていけない」
苦労知らずと言われているようでリオンは怒りからカッと頬を染めた。リオンや母が父を亡くしてからどんなふうに暮らしてきたのか、この明らかに豊かで平和な中央の都で暮らしてきた美しい男にわかるはずがないと怒りがこみ上げてきたのだ。
「中央で恵まれて暮らしてきた人に言われたくない。俺たち国境近くの最北部の人間は中央の人間を守る砦みたいに戦争中は盾として使われた。俺の父親は戦後何年も経ってから敵国の物取りみたいな残党にやられて殺された。中央ではもう戦争なんて忘れた時期にだ。村中みんなそんな感じで家族を失ってる。それでもみなで力を合わせてやってきたんだ。俺は……。俺だってオメガじゃなかったら、村でまだ皆と一緒に暮らしたかった。だけど俺がいたらみんなのためにならない、母さんと離れたかったわけじゃない、好きでハレヘに行きたいわけじゃない。でも、行かないといけないんだ」
抱き上げたまま、ジルの顔の間近で大きな瞳に溜まった涙をぬぐいもせずにぽろぽろと零す姿は子猫がにゃあにゃあ泣いているぐらいの迫力しかなかったが、それでも渾身の思いを伝えてくる必死さは心に迫ってきた。ジルは彼の姿にある少年のことを思い出していた。
しかしなんというか。意固地で頑ななその心根のありようがまるで違う。ヴィオは素直で人への甘えどころもよくわかっていて、それでいて相手に嫌な印象を与えない、得な性格だった。人を信じて身を委ねながらも自らの道を切り開いていった。それはあっぱれと言わざるを得ない清々しい姿だったから、ジルも愛する人を逆に彼に託す気になった。
リオンはというとその真逆、すっかり卑屈になっているその姿にジルは内心イライラを募らせていた。
暴れなくなった彼を再び床に下ろしてやると、棒っきれのような脚を広げて立って、悔し涙を拭う姿が痛ましい。
そして徐々に彼の姿に寂しさと人生に対する理不尽な憤りを感じ哀しくなってきた。
(どれだけ人のこと信じられないんだろうな、まだ若いのに……。こんな風に不器用な形でしか身も心も守れない生き方をしないといけなかったんだな)
「お前の言うことは分かった。俺の言い方もきつかったと思う。でも俺はお前よりは長く生きているし、仕事柄色んな目に合うやつを見てきた。オメガが事件や事故に巻き込まれて惨たらしい姿になったことも目の当たりにしてきてるんだ。俺は警官だ。さっきお前を一人で行かせた後に、人づてにお前に何かあったと聞かされるのは嫌だ。俺の為だと思って一緒にハレヘに行ってくれ」
細い両肩を大きな掌でがっしりと掴み、ジルは何とか彼に自分の気持ちを伝えてやりたいと思った。
「……あんたの、為?」
少し話を聞く耳を持ったのか、眦が少しだけ吊り上がった大きな瞳がゆらゆらと涙を浮かべながらジルを見上げてきた。明るいところと今のように明かりの影になるところでは色が変わって見える不思議な色の瞳だが、何か既視感がある。明るいところでは緑色に黄色に近い色合いが混じり、マーガレットや向日葵を思わせる彼の瞳は、ジルの瞳と色合いが似ているのだ。まるで似ているところがないと思っていたリオンに自分と似たところを一つ見つけてジルは口元に笑みを這わせた。
「そうだ。俺のため。俺はな……。一人でハレヘに行きたくない理由があるんだ。本当なら昨日行ってもいいぐらいだったんだが、あれこれ理由をつけて今日一人で向かうことにしたんだ。長旅だから、お前がいる方が気がまぎれるし、お前を連れていくって理由があるから、いまさらハレヘに行かないなんて選択肢を無くせる」
「行きたくないなら行かなければいいのに?」
そりゃごもっともだと思ってジルは頭を掻いた。痛いところをついてきたが、リオンは答えを求めるように小さな顔の中、ほぼこれなのではないかと思うほど大きな瞳でジルを上目遣いに見上げて続きを待っている。
「これは……、俺にとって決別の旅だ」
「決別?」
「そうだ。俺の想い人への気持ちを断ち切るための、決別の旅」
最初のコメントを投稿しよう!