夜汽車に揺られて

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 列車に乗り込み半刻ほどたち、夕餉の時間になると後ろの方にある車両からスープを積んだワゴンをかたかた言わせながらこの路線の特徴である鮮やかな朱赤の制服姿の女性がやってきてくれた。  大きな寸胴鍋から立ち昇る香味野菜や鳥をほろほろと煮た後の食欲をそそる香りに、リオンは涎を垂らさんばかりの表情で両手で恭しく大きな椀を差し出した。 「ふふ。こちらのスープに使われているお野菜は南部で取れたものを中央へ戻る上りの列車で直送してもらって、またスープになって南に向かっていくんですよ。沢山食べてくださいね」  給仕してくれた女性からまたも子ども扱いをされていると感じたが、とにかくお腹がすいていてもはやお預けができない心情だ。ちらちらとジルを見やると、大きく頷かれたので元気よく声を上げた。 「女神様、暖かな糧を、今日もありがとうございます。いただきます!!」  椅子に取り付けられる小さなテーブルにおいた椀を手に取り、リオンは上気した顔で幸せそうにスープを口元に運んでぱあっと顔を輝かせた。 「美味しい! 中央の食堂で食べたのとはまた全然違う味がする。これは南の香辛料? 身体が温まる気がする。何が入っているんだろう? 知りたいなあ」 「南の香辛料は少し辛めで発汗作用があるものと、身体を冷やす野菜を使うから、それは少し中央寄りの味付けなのかもしれないな」  香りを嗅いだり、天井の方を思案気に睫毛を反り返らせて眺めながらもぐもぐ食べたり、クルミ入りのパンを口で千切って頬張っては顔を輝かしたりと、日中あれほどむっつりしていたのが嘘のように明るい表情をしている。 「旨いか?」 「うん! 美味しい」  そうして本当に嬉しそうににっこりと微笑んでまたパンに齧りついている。 (こんな顔すると余計にあどけないな。それによく見ると、可愛い顔してるし。真っ白な中にそばかすが散っている顔はなんだか見慣れなくて新鮮だ)  ジルに寄りつくような女性たちは完璧な化粧で整いきっていたり、セラフィンのように生まれつき染み一つないような奇跡的な美貌だったり。 何の手入れもしていないようなリオンの顔はまさに素材のそのまんまといったふうだが妙に味がある。  美味しいものを食べたら急に饒舌になったリオンは、お行儀は悪いが沢山話をしながらいっそこっちも食べるか? とジルが聞きたくなるほどの勢いで平らげていった。 「北にはない味付け。母さんが食べたらなんていうかなあ。父さんは元々料理人だったから、母さんも昔は沢山父さんに料理を作ってもらって食べたって言ってた。旅人が来ると作り方教えてもらって作ったりもしてたって。俺は食べたことないけどさ。母さんも料理上手なんだ。材料さえあれば、今だってきっといろんな料理を作れるんだろうけど……。ああ。でも林檎が一番身体にいいし、庭の木に沢山なってくれるから腹が減って困ったら林檎を食べられるから冬場はありがたくて……。食べないの?」  そう促されたが、ジルが真っ先に手にしたのは、先ほどジルから渡された、小ぶりで良い香りのする真っ赤な林檎。頬を染めたリオンそのもののような小さなそれは、しゃりっと小気味よく野性的な味がした。 「旨いな」 「そうでしょう? 俺の身体は、林檎でできてるといっても過言ではないんだ」  初めて顔をしっかりと上げた笑顔はフワフワの髪と相まってとても可憐で愛らしく、林檎ばかりを食べて育つとこんなふうに甘く頭から食べてしまいたくなるようなそそる香りに育つのかと、ジルはぼんやりとそんな風に考えていた。 ※※※  すっかり夜も更けて来た。車窓から見える景色は闇に飲まれ、市街地を抜けてからはリオンの眼には明かり一つも映らない。  寝台列車の車両内はすっかり明かりが落とされていて、個室ごとに自分で小さな明かりをつけて調節できるようになっている。しかし薄暗くなると気温も低くなった気がしてリオンはぶるりと震えると思わず腕を擦るようにした。  南に向かう列車は北から中央までのそれより枕木の幅が広軌であるから、車内はずっと広々している。反対側の窓には梯子で上り下りできるリオンはおろかジルでも寛げる程度に大きな二段ベッドが備え付けられているほどだ。リオンは北から中央までの狭い車内、ずっと緊張し続けてきたから、久しぶりに人目を気にせずに落ち着くことができたことは確かだった。規則性のある列車の振動と静かな車内にうとうとと眠い目をこすると前の座席に座っていたジルから声を掛けられた。 「そろそろ横になっとけ。明日もまた長いこと移動するぞ」  そう言いながらジルは自分の来ていたウルトラマリンのジャケットを脱ぐと慣れた手付きで上半身を覆うように着せかけてきた。腕の盛り上がった筋肉がよくわかる半袖の黒い丸首シャツ一枚になったジルをみてリオンは慌てた。 「い、いいよ。俺は北で生まれ育ったから、寒さに強いんだ。あんたが着てろよ」 「俺も寒さに強いから大丈夫だ。むしろ寒暖差にやられると体調を崩すぞ。夜通し移動してる間に、南部につく頃には寒さも緩む。今だけ温まっとけ」 「……わかった」  ふわり、と庭の林檎の花のそれに似た甘い香りが漂って上半身をふわりと温かな空気で包み込まれる。あまりにそれが心地よくて、一瞬反応が遅くなってしまった。春になると村中に植えられた木に一斉に白い花が咲き、今の時期にはリオンの腹を満たしてくれる唯一のおやつでもあった、そんな林檎に似た優しい香りが心地よい。リオンは目を細めて、思わず鼻先でくんくんと匂いを嗅いでとろんとした心地になるとうっとり瞑目した。 「ふあっ」  眠たさも手伝って小さくあくびをしながら、リオンは無意識にジャケットの襟首の中に入るようにして身を竦める。甘い香りはやはりジャケットの中から香っているようだ。 (こんな、大の男の持ち物なのに果物みたいに可愛い甘い香りがする……)  温みでより眠さがまして素直になったリオンにジルは満足げに頷くと、広いシートの上でも窮屈そうな長い脚を組み替えて、肘掛けに載せた腕に頬杖をつく何も見えぬ闇夜に視線を移した。  もぞもぞと柔らかな上着に両腕を袖通しながら、リオンはちらりとちらりとジルを見る。 (この人、やっぱりどう見たってアルファだよな)  ジルは見るからに都会的で洗練された美丈夫だ。駅でも沢山の人とすれ違ったが端的に言えばこれほど格好の良い色男はそういないと遅ればせながらリオンも実感した。 (圧倒的に周りの人より体格がいいし、陽の光みたいに明るい金髪、整ってるけどちゃんと男らしい顔。どこをどう見ても非の打ち所無さすぎていっそムカつく)  こうして少しだけ愁いを帯びた端正な横顔を盗み見るにつけ、ほとほとそう思うし、男として妬ましさすら感じる。  どうしてジルのような男がリオンのようになんの取り柄もなさそうな、子どもに見えるほど小さくみっともないオメガとともに旅する気になったのだろうか。  最初はおこがましくも、やはりリオンがオメガだからそれに惹かれたのかと思った。年若いオメガならばそれなりに貰い手がいるのではとか、そんなふうに村で下世話な話をされたこともあるので、そういう趣味なのかとも勘繰っていた。しかしこれほど美しい男なのだからわざわざリオンに手を出さずとも男も女も放ってはおかないだろう。だとしたら警察官としての義憤か、それともなくば昼間本人が言っていたように一人で旅したくないからなどというひどく私的で感傷的な理由からなのだろう。 (訣別の旅……)   ジルがアルファだとしたら、想い人というのはきっとオメガだろう。番にしたい相手がいたのになることができなかったのだとしたら……。 (こんな何の不足も不自由もなく生きてきたような男でも、思うとおりにならないことがあるんだってことだな。本当に、人生ってやつは、ままならないことばっかりだ)  少しずつ瞼がくっつく時間が増えていきリオンは座席の背に身体を預けて身動きをしなくなった。薄い小さな胸が緩やかに上下に動き、手を肘掛から投げ出したリオンに気が付いてジルは彼の細い腕を掴んで引き寄せる。そして自分の肩に軽々と担ぎ上げるように抱えて上の段のベッドに乗せて転がしてやった。ジルのジャケットを脱がせて、代わりに足元に置かれていた備え付けの薄い毛布を掛けてやる。  心なしか身を縮めていた細い身体がふわりとした毛布の暖かさに包まれて緩み、だぼだぼの上着や短いズボンの先から頼りなげに飛び出した細い手足がゆっくりと伸ばされていく。 「お前、なんか生きるのが下手くそそうだな」  そんな風に呟いて伸び気味でギザギザの前髪が目元に降りかかっているのをかき上げてやったら、リオンは長い睫毛の先に涙を滴らせていた。そして何かを小さな声で繰り返し呟き、苦し気にはくっと息をつく。 「母さん……。ごめん……」  ひとりにして、ごめんなさい。  そんな風に繰り返しながらうなされ、苦し気に眉を顰めるから、ジルは思わず投げ出されていた薄く小さな手を握ってやった。
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