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美味しいお水
☆BGMは「Agua de Beber」です♥
赤茶色の地表の裂け目のような岩場の間に青い水が滔々とたたえられた部分がある。そこにもくもくとと白い湯気が上がっていて、独特の臭気が鼻を衝く。
毒の霧でも漂っているのではとリオンは涙目で灰色の上着のだぼだぼした袖口を口のあてた。
「なんか変な匂いがする……」
「吹きあがってくるのも温泉水だからな。硫黄の匂いだろう。そろそろ来るぞ」
ジルが呟いた瞬間、水面がブクブクと白い泡を立てながら盛り上がり、青空高く轟音を立てながら水柱が吹きあがった。
「うわ、うわわわわああ」
腰を抜かさんばかりに驚いたリオンが一歩後ろに飛びのくと、背中でどんっと逞しく硬いジルの身体にぶち当たった。リオンが恐る恐るといった感じに今度は前に逃れようとしたのを、ジルが両肩をがっしり掴んで逃さない。
「まあ、それなりにすごいな」
「……」
まばらにいる観光客からもお目当ての間欠泉の豪快な水飛沫に歓声が上がった。
ここはハレヘよりはまだ北に位置する海沿いの温泉地。乗ってきた列車の終着駅はハレヘの隣町であるキドゥのそのまた隣。戦時中も軍港として扱われていたサレヘまであと少しといった場所だ。サレヘまで出れば、ハレヘ行きの船もバスも出ているが、ジルが初めの思い付き通りに間欠泉を見るために途中下車したところだ。
「名物の温泉蒸し鶏料理、食べに行くぞ。好きだろ? 食べること」
また汽車のスープの時のようにこちらが癒されるような素朴で暖かな笑顔を見せてくれるかと思ったが、リオンはどこか考え事の最中のように上の空で力なく一度小さく頷いたきりだ。
拭きあがった水面がまた落ち着いていくのを白い睫毛を風に寂しくそよがせに見つめていた。
リオンにとって初めての旅、初めての温泉街だというのに終始浮かない顔。今朝の出来事が尾を引いているのだろう。掴んだ華奢な両肩が強張り、余計に前に小さく縮こまって感じた。
(あの男と……。俺が脅かしたせいだよな)
ジルは掴み上げた肩がびくりと震えていたことを見逃さずにいた。
今朝、列車の中で昏倒から目を醒ました男はすっかり正気に戻って次の停車駅で待っていた警察官とジルに平謝りしてきた。
『可愛かったから、ただちょっと話をしたいと思っただけだったんだ。あんまりいい匂いがしてきて、酒に酔ったみたいになって……』
そんな風に言い訳を繰り返してきたが、何と言われてもリオンの心には響かなかった。
事情を聴くために下車した土地の警察署までそのまま男は連行されていったが、多分未遂ということで早々に釈放されるだろう。駅で待っていた鉄道警察の人間も男に同情的な態度が見え見えで、ジルに監督責任を怠ったかのような口ぶりで話していたのが漏れ聞こえてきてリオンはいたまれなくなった。
熊のような男は連れていかれる瞬間、すれ違いざまリオンとジルにだけ聞こえるように舌を打ちながら悪態をついた。
「相手がいるならそんな匂いさせて男を誘うなよ。俺の方が被害者だろう?」
「どういう言いぐさだ! 俺が来なかったらこの子に何してたんだ! 正直に話せよ!」
反省のない態度にジルが眉を吊り上げ、男に掴みかかろうとするのをリオンが哀し気な顔でその手を掴んでとどめた。
「いいんだ。ちゃんと薬飲むから。俺が悪いんだろ?」
首輪をしていても、自分が意識せずとも香りで人を惑わせてしまえば、乱暴されてもこうして有耶無耶にされるのかもしれない。リオンはこれから一人で生きていくためには怖くとも抑制剤が必要不可欠だと学んだわけだが、ジルは再び何もかも諦めきったような顔になったリオンを見て胸の痛みを感じていた。
(一人で生きていくことの大変さを自覚させるなんて。俺の思い上がりでリオンを見下ろして、こいつの本当の痛みにはまるで添えていない。面白がって子猫を突き回すカラスみたいに、俺は残酷なことをしてたんじゃないのか)
このままハレヘの街まで二人でたどり着いたとして、リオンを置き去りにして帰ってくることは正しいことなのか。
(正しいとか正しくないとかじゃない。俺はそれで後悔しないだろうか)
二人が入った店は温泉の付いた宿に併設された蒸し料理の店だ。
温泉地ならではの工夫で、そこここから吹きあがる自然の高温の蒸気を利用した近隣の畑からとれた新鮮な青々とした野菜や鶏肉を使った蒸し料理。
表にある木製の屋根だけついた小屋のようなところに置かれたテーブルで、蒸し器で実際に調理されているところを眺められる工夫がある。
温泉水と同じ蒸気のためか、独特の風味がつき、近くの海で取れる塩やハーブを混ぜ込んだだけの素朴な調味料をぱらりと振りかけるだけでもとても美味だ。
ジルは前に座って緑が眩しい太陽光の下、瑞々しい野菜を小さな口元に運ぶリオンを見つめいていた。落ち込んでいても食べ物を頬張ると歓びが隠せないのか頬が緩み赤く染まるのがやはり何度見ても好ましく思える。
美味しいほっくりしたかぼちゃを口に含んで嬉しげな顔をしたリオンが再び警戒を緩めつつあると見たジルは自分は食具をゆっくりと皿の端においた。
「リオンさ、ハレヘいったら何の仕事したいのか? 俺の友人伝いに街の人に仕事を紹介できるか聞いてみるから、教えてくれ」
友人伝い、などといったが、親友でありかつての想い人の兄がその街の領主をしている事実はぼかしてそんな風に聞いてみた。
「……オメガに務まるような仕事ならなんでも」
「そんないい方はよせ」
「ジルだっていったじゃないか。薬がないと匂いで人をおかしくするのがオメガだろ? 俺みたいなやつに。すぐ番が見つかるとも思えないし、なんとか薬が効いてやっと人と同じところにたてるかどうかだ」
「お前みたいなやつとかいうな。お前は別にどこもおかしくない。世の中が全ておまえにたいして不利に働いていたとしても、それでも北からたった一人で出てきて真逆の最南端にいける気概がある男なんだろ?」
その言葉にリオンは弾かれたように俯き加減だった顔を上げた。
「お前にも、なにかやってみたかったことだってあっただろ?」
リオンはジル越しに、向こうで籠を使って野菜や肉を蒸している店の人たちの忙しそうに働く姿に目をやった。
「……身体が大きかったらやっぱり漁師になりたかったな。俺たちの街は寒いけど海は豊かだったから。それがだめならああいう……。料理をして人に食べさせてあげる人になりたかった。死んだ父さんみたいに。ほら、食べ物の近くにいたら食いっぱぐれない気がするし、俺。母さんと料理するのがすごく好きだったから」
「そうか」
母親のことを思い出したのか、金色の産毛のように輝く細い眉を顰めてリオンは小さく嘆息した。
「できたら……。だけど」
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