美味しいお水

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 再び互いに思索にふけり沈黙しながら食事を再開した二人の元に、平たい籠に卵を入れた女性が他の客にも配り歩いたのちにやってきたのだ。いかにも美味しいものを作りそうな丸顔の女性がニコニコしながら湯気の立つ白い卵を分厚い掌に取って見せてきた。 「こちらもどうぞ。卵を温泉水でゆでたものですよ」 「た! 卵!!」  リオンが急にあわあわと驚いた顔で店の給仕の丸々と体格のいい女性を見上げて驚いた顔をした。 「卵お嫌いですか??」 「す、好きです。だ、大好きです」  リオンはまた口をむぐむぐさせているからきっと食べたくて仕方ないのだろう。 「熱いですよ。さあどうぞ」  女性から事も無げにホカホカあつあつの湯気が立つ卵を手渡されて「熱っ!」とやっているが、大切な宝物をもらったかのように目を輝かしたリオンは、決して手を離さない。そのせいでリオンに小さなふっくらした掌が赤くなってしまった。  見かねたジルが取り上げるとリオンが『食べたいよ』というまたしても子犬みたいな顔をしたから、ジルは仕方なく苦手な卵の殻割を始めた。  しかし意外とうまく殻がとれずに殻になかみの白身がくっついてきてしまったのだ。 「もったいないよ! 卵なんて貴重なんだから! うちの地域は去年沢山鶏が死んじゃって、卵食べるの凄くすごく久しぶりなんだよ!」  そんな風にジルの失態を攻めるように目を潤まさせたから、ジルは仕方なしに殻についた白身の部分を悪戦苦闘して外すと、リオンが思わず小さく開けていた唇に放りこんでやる。  満足げに目元を細めたリオンに、今度は黄身も入るようにもう少し大きく卵を割って野菜と鶏肉の為の塩をつけて食べさせると、リオンが変な顔になった。 「殻がじょりじょりするけど、美味しいよ」 「悪かったな、不器用で」  給仕の女性はまだ二人の隣になっていて、終始にこにこしている。 「とっても仲良しですね。お世話をやいてあげてみていて微笑ましいわ。卵もう2つあげるから、ゆっくり食べてね」  きっと二人が年の離れた恋人同士にでもみえたのだろうか。ジルの分とリオンのお代わりを置かれて、卵一つで大騒ぎしてしまったことに二人そろって赤面してしまった。 「ゴホっ、ごふ!」  卵を食べつけていないリオンが黄身がつまって咳き込んだので、素朴で歪んだガラスの杯に入れられた少しぬるい水を手渡した。リオンは夢中で水を飲み干すと、口元を拭う。 「水もうまい。どれもこれも、すごくすごく美味しいな」  喉をとろりと通過していく水はふわりと甘く感じた。リオンの細いジルが上げた首輪の付いた喉元を水が伝い落ち、ジルは無意識に真っ白な首筋を思わず指でなぞるように擦ると、再びリオンから果実に似た香りが立ち昇る。 「……甘い」  ジルが淡い黄色の瞳を細め、思わず呟いた声色の低さに、リオンは胸の鼓動を高めながらまた頬を強張らせ、昼下がりの太陽に黄色い花のように明るく輝く瞳を陰らせる。 「薬、飲むから、貸して」  相変わらずジルがリオンの鞄を持ち歩いていたのでそういったのだが、ジルは何故か躊躇した動きを見せる。 「明日にはもう、ハレヘだから。俺はこれからはなんでも一人でなんとかしないといけないだろ。その前に薬に慣れておきたいから。ジルもそういったよな? 色々教えてくれてありがとう。街についたら後は俺一人で大丈夫だから」  リオンの瞳に迷いはなかった。白い手をまっすぐにジルに向かって伸ばしてきた。リオンのきらきらと日差しに耀く大きな瞳が、初めて目が合ったかのようにジルをまっすぐに射抜く。  彼は華奢な首をしゃんとはり、しっかりと顔を上げた。  ジルは眩しいものでも見るかのように目を細めて小さな顔を見降ろした。彼の決意は切なさを含むが悲壮ではない。だが根底に流れる哀しみが痛ましかった。そう思ってしまうこと自体がアルファである自分自身の驕りのようにも感じてジルは自嘲的な笑みを浮かべる。  そしてリオンのくたくたの鞄の外ポケットから薬を取り出して、迷いながら手渡した。 「無理して飲まなくてもいいんだぞ?」 「……」  薬包のなかには白っぽい粉薬があり、リオンはそれを風に飛ばさぬように慎重に開くと一気に口の中に含む。  ジルが手渡してくれた彼のコップを手にすると、苦い苦いそれを口いっぱいに味わいながら飲み込んでいく。  あんなに美味しいお水だったのに、薬が混じるとリオンのほろ苦い人生そのものみたいになった。 「明日にはお別れだね。珍しいものを見せてくれてありがとう。美味しいものを食べさせてくれてありがとう。首輪とか諸々のお金はいつか返したいけど、時間がかかるかもしれない。でもきちんと返すから」 「そんなことは……。それよりお前ひとりで……」  生きていけるのか? そんな一言が口をついて出かけた。そんなことを言って何になるのだとも思った。明日朝一番にハレヘにたどり着きさえすれば、セラフィンがまだ街の領主である兄のソフィアリの元にいるはずだ。二人に頼み込めばリオン一人生きていくぐらいの仕事など、何とか工面してもらえるだろう。  しかし何か割り切れないものがジルの胸の凪を壊し、波打たせる。 (手放したく、ないのか俺は?)  昨日と今朝の出来事がなにかリオンの心に変化を生み出した。 それはジルの中に芽生え始めたリオンへ対する想いとは相反する覚悟で、それが彼の決意を強くしているように見えた。  きっと、この幼げな容姿を持つ少年は、儚げな顔立ちとは違い、逆境の中でも腹さえ決まれば戦うことができる強さを元々内に秘めていたのだろう。  北の男の意地を見せるといった、ただの虚勢ではない。彼の瞳にはもともとはこういう胆力のある男だったのではないかと思わせる静けさと力強さを秘めていた。 「今まで沢山嫌な目にも合ったけどさ、ジルみたいに助けてくれる人にも出会えたし、オメガがどういう風に世の中で見られているのかも分かった。俺は俺の人生を学んだ。だからもう大丈夫だ」  リオンはそう言って、そばかすの浮かぶ、まろい頬に清々しい笑顔を浮かべた。 「リオン……」  この街独特の潮と硫黄の混じったような温く感じる風が真っ白に近いリオンの髪と小さな顔を、光と空気に溶け込ませていくようだ。  その姿は光の精霊か何かのようにどこか浮世離れしてみえて。  このまま消えてしまいそうな彼と別れて、ジルは自分が一人中央に戻れるだろうかともう一度自問した。  その答えが出ないまま……。  リオンは立ち上がると小さな身体できびきびと机を回り込んでジルの傍らまでやってくると、小首を傾げながら薄い胸がジルの肩にとんっとつくほど近寄っていった。 「もう……。俺から匂いはしない?」  薬の効き目を期待している目をどこか寂しく感じたジルは、リオンの顔を見上げると、彼が贈ったチョーカーが淡い光を放つ首筋にゆっくりと顔を近づけた。  リオンが正面からジルを覗き込み、笑うと少し眦が下がる大きな瞳と視線がかち合う。華奢な身体を腕の中に抱き寄せ、桜色の小さな唇を思わず奪いたい衝動に襲われ、ジルは彼の背に回しかけた拳をぎゅっと握りしめて逡巡する。 「ジル?」 「いや……。まだ香る」  まだ彼からジルを誘うように漏れている林檎の甘い香りに首を横に振った。  まるで顔の前で赤く色づく美味しそうな林檎をずっと振られているような、幻想が浮かぶ。 (手を伸ばして、齧り取りたい)  それは林檎のことなのか、リオンの折れそうに細い項のことなのか。  この香りが失われることが、残念でならないのも、自分がアルファで彼がオメガで。動物的な本能がそうさせているからなのか。 (流石に分かっただろ? こいつは半端に手を出していい相手じゃない)  本能か、同情か、憐憫か、それともなくば純粋な愛情か。  この胸を小さくぎゅっと握られるような感情はなんなのか。  答えを見出したいような、向き合うことが怖いような。 「そっか。どのくらいできくのかな。こんな時、アルファが近くにいるって便利なんだな。香りが消えたら教えて。効果はどのくらい続くのかとか、いろいろ知っておかないといけないから」  そんな風にしっかりとした口調で呟くと、リオンはすっとジルから身体を離して、まっすぐに蒸し物を作る奥に広がる温泉の湯棚の青さを見据える。  見知らぬ土地で襲われた度重なるアクシデントで自分自身を見失いかけていたリオンだが、彼は本来の彼自身、同年代の青年たちよりもずっと思慮深く、しっかりと物事の本質を探ろうとする自分自身を取り戻しかけていた。  彼の怜悧な横顔をみるにつけ、不思議とジルの方が彼において行かれるような気分になったのは奇妙な感覚だった。  だが物事はまたしてもリオンの思い通りにはいかなかったのだ。  薬は効いて、香りはしなくなった。  彼が最も恐れていた事態、抑制剤のひどい副作用現れたのだ。
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