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新天地
☆思い立ったら行動の速い男、ジル。押しの強さシリーズ随一で頑張ります。
中央にある終戦記念に建てられたという病院。本来は軍の持ち物だが民間にも開放されているという。隣接する公園にある、あの日ジルと見た間欠泉のように勢いよく水を吹き上げる噴水に目を奪われたリオンは、暫しその前にとどまって水飛沫の煌めきを楽しそうにながめている。ジルはそんなリオンを見て微笑むと、二回りは小さな手をしっかり握って先を促した。
「噴水はあとでも見られるから。午後の診療時間ギリギリに間に合うはずだから滑り込むぞ」
待合室では一転終始浮かない顔をしていたリオンの気持ちはジルにもよくわかる。以前に飲んだ市販の抑制剤があまりにも身体合わずにひどい副作用が出てしまったことが記憶に新しいからだ。
膝の上で手を組んでがちがちに緊張したリオンの薄い肩をジルは気安い調子ぎゅっと握り、リオンの頭ががくがくするほど揺さぶって勇気づける。
「ここの先生は腕がいいからお前に絶対にあう抑制剤を見つけてくれるはずだ。間違いない。安心しろって」
「分かってるよ。大丈夫だ。もしもまた体調を悪くしても、俺は合う薬に見つけるまで諦めないから」
頷いたリオンはもう俯かない。ふさふさとした白っぽい睫毛に覆われた大きな瞳は強い力を宿してジルを見つめ返してくる。ジルは満足げに頷いて、もう一度強く細い肩を抱いてやった。
「あら、アドニアさん? お久しぶりじゃない!」
顔見知りの若い女性の看護師が通りがかってはジルに声をかけていくことが続いていて、リオンはジルのかつての想い人がこの中にいるのではないかと先ほどから変な気を回しては別の意味でもどきどきしていた。
「セラフィン先生、貴方があまり来なくなって寂しがってましたよ? ……もちろん私もですけど」
そんな風に色っぽく付け足すと、リオンに向けて意味深な流し目をして立ち去った看護師のまっすぐに伸びた背中をリオンもじっと見つめていた。
「……ジルってさ、きっとモテるよな」
「どうしてそう思う?」
否定しないところがこの年上の男の上手な部分だろう。いかにも女性に好かれそうな端正で甘い顔立ちににやにやとひとの悪い笑顔を浮かべ、リオンの反応を楽しむように自分も膝に手をついて顎を乗せてリオンを見やる。
「この1週間、連れて行ってもらったところで絶対に顔見知りの女の人が声をかけてくるだろ? 食堂、ティールーム、服屋……」
挙句の果てに病院でもだ。みなジルに話しかけた後は決まってちっぽけなものを見るようにリオンに視線を移して、そして首のチョーカーを見ては軽く睨みつけてくる。思わず窮屈な気持ちになり、チョーカーに手を当てるとその手を大きな掌でぱしっと掴まれた。
「苦しいのか? まだ伸び盛りだからサイズが合わなくなってきたのかな?」
「俺、少し背も伸びた?」
「そんな気がするな。ここもちょっと肉ついたし」
そう言いながら揶揄うように白いリオンの頬を摘まんでキューっと痛くない程度に伸ばしてきたからリオンはジルの長い指先に手をかけて止めつつ情けない声を上げた。
「ふえ、やめろっ……」
ジルはリオンの痩せこけていた頬が血色よく薔薇色を帯び、次第にふっくらして来たことを見るのが堪らなく嬉しいのだ。たまに今みたいにつまんで感触を確かめては悦に入っている。実際ジルと共にいるようになってリオンの食生活は大幅に改善されたので、ちょっとパサついていた髪もカサカサだった肘や膝も潤って艶が増したような気さえするのだ。食べることが大好きなリオンにとって、ジルに何よりも感謝している部分と言ってもいい。
「ジルが美味しいもの食べさせてくれたからだ。これからは俺も頑張って美味しいものを作らないと」
「ああ、いよいよだな」
いよいよその日に向けて、二人はリオンの身体に合う抑制剤を処方してもらいに病院までやってきたのだ。
あの日、海辺の温泉街でリオンを中央に連れて帰ろうと決心した後からのジルの行動はとにかく素早かった。
温泉に共に浸かっている時、リオンがまだ少しぼうっとしているのをいいことに、『今日これからすぐ、中央にもどるぞ? いいよな?』『うん』の言質をとった後は有無を言わないとばかりに、朝一番の電車にリオンを抱えるようにして飛び乗り、南部の大都市サレヘいった。
そこからはバス会社に交渉して貸し切りの乗用車を一台使い、キドゥにまででると、再び一番早く戻れる列車に飛び乗って(もちろん個室で)中央まであっという間に戻ってきたのだ。
勿論ハレヘでのゆったりと余裕のある休暇を楽しむための潤沢な資金をがんがんつぎ込んでの大移動だったが、なんだか気分は爽快だった。セラフィンを諦めようとしてからずっと続いていた憂鬱な気分と暗雲がすっかりと消え失せ、あの日の朝のように天からの光が差し込んでその先を指し示し続けているような心地。いうなればジルにとって次の『のめりこむ物』を見つけた瞬間だと言えた。
休暇中なのをいいことに、リオンを自分の家(単身者用でやや狭い)に住まわせたまま、あちこちに彼を連れ回し、なんと就職先まで探してきてしまった。
探してきたというか就職先をジルが無理やり作ったといっても過言ではないのが。
旅の前に立ち寄った交番で、後輩が話していた警察の寮の寮母であり、食堂を切り盛りしていたおばさんが一線を退きかけていた話がジルの頭の片隅にずっと残っていて、彼女を助ける後継者にするべく、ジルがごりごりにリオンのことを推したのだ。
勿論自分がリオンの後見人として付くと言い切り、オメガである彼が男ばかりの単身者の寮で間違いを起こさないように、抑制剤はその道の権威と言ってもよい、親友である「セラフィン・モルス」医師に処方と主治医として後ろ盾になってもらうことまで約束した。
不思議なことに、いつもはジルの気ままな行動と貴族院議員ともつながっている部分を警戒している現在のジルの上司である警察署長のゴードンまでもがそれを後押ししてくれたのだ。
署長は何故だか昇進した後もぎりぎりまで独身寮に拘ってとどまり続けた人物で、リオンと同じく北の出身。寮母のおばちゃん(もはやおばあちゃんの年齢だが)のことを慕っていたので彼女のことを助けたいと義理人情にかられた結果だったのだようだ。
『寮の食事が復活したら……。俺も食べに行くからな』などと言い置くことを忘れない。ジルがまだ寮に住んでいた頃、たまに何故か寮生でもないのにこの人ご飯を食べているなとジルも思っていたが(その頃は署長になる前だった) そんなときは寮生の手引きで中に入って懐かしい故郷の味を堪能していたのだとジルはようやく理解した。そしてたたき上げの割に肝が小さいなあと思って少し馬鹿にしていた彼のことを少し見直し、少しだけ好きになった。
そしていよいよ、リオンは三日後からおばちゃんの仕事を実際に教えてもらって厨房に立つ。朝晩食堂を回すことは厳しいので、まずは晩の食事の用意をはじめてみるのだ。大分腰が回復してきたおばちゃんだが、口は出せるが腰を痛めていて動くことは最低限しかできないのでリオンがその全てをまかなうために頑張るのだ。
正直料理以外にも寮の中の雑事こもごもを全て回せるようになるにはかなりの努力が必要だと思うが、リオンは自分に仕事を任せれ貰えることが嬉しくてたまらなかった。
「いいか。お前の働きが認められたら。お母さんもブシャドから呼び寄せて一緒に仕事をさせてもらえるかもしれない。そのためには根気よくあう薬を見つけていい結果を出そうな」
リオンが仕事を覚えさえすれば、おばちゃんも隠居できて、さらに手伝い手を増やすためにリオンは母を中央に呼び寄せられる。
こんな夢のような話を手繰り寄せる手がかりを作ってくれたのは全てジルのおかげなのだ。
そんな中、リオンがジルのことを憎からず思うようになってしまったことは当然といえば当然の成り行きと言えた。
リオンにとって肉親である母親以外に初めて心を寄せ、この人にならば頼っても良いと思える大人であり、中央での全てを与えてくれた人物。
リオンは今回の一連の出来事を経てどんどん彼に惹かれ、もうどうしようもないほどジルのことが好きになってしまった。しかし哀しいかな、ジルが抑制剤の利かない身体のリオンをハレヘに置いていくのが忍びなくて中央に連れ帰ってくれたこともよくわかっている。それはきっと哀れみや同情からであってけしてリオンを愛しているからではけしてないだろう。
傍にいてくれて世話をやいてくれるのは嬉しい。こうしてたまに触れられるたび、あの温泉での官能的な出来事を思い出しては顔が赤くなり、まっすぐにジルの顔が見られなくなる。でもそのたびに胸がしくしくと痛む。
(ジルには、断ち切りたくても断ち切れない思いを捧げた相手がきっとこの街にいる。ハレヘ行きはその決別の旅だって言ってたから)
必死の覚悟でハレヘを目指していた頃に比べたら今は本当に幸せだ。
幸せなのに。
(この街で暮らしていたら、きっとジルの想い人に会うことになるだろうな。もう今まであった人の中で出会っているのかもしれないけど……)
それがただただ、胸が切なく哀しい。
それでも健気にジルに向けて礼を言って頭を下げた。
「ありがとう。ジル。俺頑張るよ」
「俺がついているからな。安心しろよ」
「うん」
大きな掌がふわふわと綿のように柔らかなリオンの髪の感触を確かめるように撫ぜられる。
この大きな手が好きだ。
最早記憶が朧げになった父へ憧憬から生まれた半分夢想である思い出でなく、リオンの髪を撫ぜるのはもう、この男の手の優しく温かい感触。
(ああ、俺、こうされるの、好きだなあ)
そんな風に思って子猫のように目を細めてうっとりとして頬を手首の方にすりよせる。そんな仕草を見つめるジルの瞳は蕩けそうに甘い。
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