木香薔薇と水晶柑

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木香薔薇と水晶柑

 中央に勤務する厳つい警察官の暮らす独身寮には、この時期になると愛らしい黄色や白の木香薔薇が庭の壁沿いに競うように溢れ咲いて甘い芳香を放っている。  季節は初夏を迎えていた。  温かな乾いた風にはためく洗濯物の蔭から、リオンは真っ青な空と、風にゆっくりと流れていく白い雲とを見上げて大きく深呼吸をした。 「リオーン。そっちが済んだらこっちも手伝ってね~」  食堂の窓越しに母の甲高い声が聞こえてきて、リオンは大きな声を上げて返事をした。 「分かった! シーツもう乾いてる! 取り込んでからそっちいくから」  リオンが中央に来てから早いものでもう半年が経った。  当初できるだけお金を貯めてから母を迎えに行く心づもりだったのだが、三月ほど経ったころ母が体調を崩しているとの知らせを故郷の人々から受け、リオンは慌ててブシャドに里帰りしていた。  ジルが仕事を片付けてからすぐ後を追いかけてきてくれたおかげで、里の人々と一悶着あったものの、母を無事に故郷から連れ出すことができた。  それからは母と二人、この独身寮の庭の片隅にひっそりと立つ、古い木造の職員用宿舎で肩を寄せ合って暮らし始めた。  この宿舎、風の強い日にはそれはもう、倒れるのではないかと思うほどがたがた揺れるし、窓の隙間から黒くしみがつくほど雨漏りもしたけれど、若い寮生たちが掃除や修繕を手伝ってくれたおかけで今では不自由なく暮らせている。  先代の食堂のおばちゃんは引退し、あとをリオンたちに託すと息子の暮らす遠い街で共に暮らすために旅立ってしまった。今では食堂は母とリオンが、昼間は通いで別の人が清掃の手伝いに入ってくれるが、その他の雑務は大体リオンが切り盛りして朝から晩まで忙しく働いている。  夜眠る頃にはくたくたになるが、再び母と暮らせるようになってリオンはとても幸せだ。  寮の庭のよく日の当たる場所に、故郷の庭から挿し木にするために林檎の苗を持ち込んで植えさせてもらった。この木が大きくなってまた林檎を食べられるようになるその日まで。それを励みにリオンはとにかく自分も中央に根を張って頑張っていこうと決意していた。  背の低いリオンが、高い位置に張られたロープに吊るした寝具をとるのに悪戦苦戦していると、急に後ろからにょきっと長い手が伸び、リオンの頭の上を追い越してシーツを外してくれた。 「ジル?」  リオンは弾んだ声を上げて振り返ったが、リオンに代わってシーツを取り込んでくれた人物が笑顔で背後に立っていた。 「なんだ、マークか」 「おい、警部補じゃなくて悪かったな」  この春から寮に来たといった点ではリオンと変わらぬ新入りのマークは、寮の中ではリオンと年が近い方だろう。  よく見れば男前と言えるかもしれないが、ふっさりした焦げ茶の眉毛や前髪で隠れた額の隅に小さくニキビの痕がまだ少しだけ残っているような親しみやすさの方が前面に出た青年だ。  今年春から入寮した者は皆、地方出身者で、マークは大学を出た後この寮に引っ越してきたのだそうだ。  ジルと同じくらい大きくて、がっしりしていて、とにかくいつでも腹をへらしている印象だ。リオンが一生懸命先代の食堂のおばちゃんから料理を習っていた頃、どこからともなくそれを嗅ぎつけてやってきては、おこぼれを待つ犬のように健気に待っていた。  食べる? と聞いたら団栗眼をにっこりと細めて本当に嬉しそうにあっという間に平らげていく。空のお皿を見るのは嬉しいが、日頃の寮の食事も人の倍は食べるし、時に呆れるほどの食べっぷりなのだ。 『あー。研修と訓練終わって帰ってきたら、リオンの作る美味しいご飯をたらふく食べられるなんて、幸せ過ぎるな!』  と。そんな感じですっかりなつかれてしまったが、リオン自身、暖かなご飯をお腹いっぱい食べられる幸せを身に染みて分かっているから、年上のくせに手が掛かって憎めないこの青年を無下にもできない。それに故郷を離れて中央に来てから友人のいないリオンとっても、彼は気安くよい話し相手と言えた。 「それ外してくれてありがとう。この間少し引きずって汚しちゃったから助かるよ。家に持ってくからかして」 「いいって。このくらい軽いし運んでやるよ。いつもうまいもの食わせてくれるお礼な。また食わしてくれよ? 試作品」  そう言って下手くそなウィンクをしてきたから、リオンは吹き出して「なんだやっぱり食べ物目当てか」と笑いながら宿舎に向かってマークの隣を歩く。  割と高い壁に囲まれた警察の寮に入り込んでまで悪さをする奴はいないだろうと、宿舎のベランダの大窓は大体開けっ放しになっている。そこからすぐ中に置いてあった籠にシーツを入れてもらう。 (そういえばあれがあった)  とリオンは思い立った。水道もひかれているが、中央は湖水地方が湧水地として名高い。そもそも水が豊かで湧き水も多く、未だに井戸水が主流のリオンの故郷のように地下水がも豊富なのだ。  今いる宿舎の縁側の隣に井戸があってきこきこハンドルを押すと冷たいお水が沢山出てくる。その水を花に上げたり打ち水をしたりと使っているが、今日はタライに水を張って重たく瑞々しい果物を沈めて冷やしていた。 「ちょっとまってて、ヤンさんからもらった水晶柑があるから半分こして食べよう」 「そりゃ最高だな! こっちよって良かった」 「ほんと、マークって食いしん坊だよな」 いつもはジルに自分が言われている科白をちょっとお兄さんぽくいって、嬉しそうに井戸の方にかけて行った。  そんなリオンの華奢でコマネズミのようにくるくると動く後ろ姿を、マークも微笑んで眺めていた。  正直なところをいえば、今、マークは夜勤明けでとても疲れていた。本当は食い気より眠気が勝っていて、今すぐにでも寝台に横になって微睡みたいほどだ。しかしなんだかんだ言いつつ甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるリオンのはにかんだ笑顔みたさに、ついつい構いに来てしまう。  この春から気楽な学生から警官になったばかりのマークにとって、慣れぬことばかりの日々だった。予想以上に辛かった軍との共同訓練や配属先を決めるための研修等、今春は常に気持ちがざらついていた。そんな時、同じく新しいことを始めたばかりのリオンと食堂で顔を合わせては挨拶をするようになり、食堂の片隅でお互いに励ましあい、他愛のないことで笑いあう仲になった。  寮で食事がとれる日は早く帰ってリオンが作ってくれた暖かなご飯を食べてとりとめのないことを話すことで、マークは日々心身共に満たされ、仕事にも身が入るようになったのだ。  早速のリオンからの美味しいお誘いに木製の縁側に腰かけたマークは懐っこい赤茶の眼を期待に耀かせながら、リオンを笑顔で見つめてくる。  そんな顔は大きな図体の癖に子供に座らされた熊のぬいぐるみみたいに愛嬌があるなあとリオンは思う。  井戸のハンドルに手をかけて数度上下させると、勢いよく飛び出す水飛沫でぱしゃぱしゃと軽く手をすすぐ。  心地よい冷たさを感じながらタライに手を浸して檸檬にもにた淡い黄色でリオンの手には余るほどに大きな水晶柑を持ち上げた。 「マークほら見て、大きいだろ!?」  振り返ると、座っていたはずのマークは高い塀の前に立ち、こちらの庭にも壁伝いに零れるようにして咲いている木香薔薇を大きな掌に乗っけていた。  甘い香りが周囲に立ち込め、蜂もぶんぶんと嬉しそうに花々の周りをまわる。  リオンはこの花を北にある故郷のブシャドでは見たことがなかったが、小さいが愛らしく香るこの花が大好きになった。母もそれは同じらしくいつも食卓に小さなコップを置いて、この花を生けて愛でている。  果物を抱えたまま、彼の隣に寄り添うように立った。リオンも背伸びすると、細く長い枝の先についた小さく白い方の木香薔薇をじっと眺める。 「この花綺麗だよな。白い方が香りが強くて、黄色い方が形は八重で華やか。どっちも小さいけど四方八方に伸びて勢いあって、見てて元気になれるよ。俺、ここに来るまで花を綺麗と思える心の余裕とかなくて……。中央に来れたからこんな気持ちになれんだろうと思う。空が青いとか花が綺麗だとか思って生きられるのって幸せだなあって思う」  そんな風に言ってうっとりと花々を見上げ、真っ白な頬に少しだけ薔薇色の朱がさしたリオンがあまりに可愛らしくて、マークは思わず花をグイッと引っ張って黄色の花の一群をリオンの顔のすぐ目の前まで下ろして見せた。 「よく見えるか?」 「よく見えるよ。黄色い方も、近づくといい香りするよな」 「……そうだな」  急にマークが垂れ下がる蔓を放したものだから、花が滅茶苦茶に暴れて上下に揺れる。花びらが散って似たような色をした淡い金髪のリオンの髪にはらはらと散り落ちる。  リオンは「ばか、急にそんなことしたら、枝が折れちゃうだろ」と驚いたが、マークは両手で黄色の花がいくつもついた一群を丁寧に千切ると、急にリオンの小さな頭一掴みできる程大きな手を回してきた。そして顎のあたりまで伸びた白っぽいふわふわとした髪を耳にかけてやりながら、思ったよりも器用な指先を使って小さな薔薇をリオンの髪に差し入れて飾る。  花々に飾られた白く小さなリオンの顔は、マークからしたら同じ男とは思えぬほどに繊細で華奢で、何より可愛らしく見えた。 「なにすんだよ?」 「この花……。リオンによく似あうと思う」 「え……」 「俺にとっては、この花はリオンみたいに見えるんだ。小さくて明るい黄色と白で、元気いっぱいに咲いていててさ……。周りを明るくする。それに凄くいい香りがするんだ。リオンはさ、夜に近くなると、花みたいな、果物みたいないい匂いがしてきて……。俺はすごく腹が減る。……お前を食べちまいたくて」 「は? マーク。お前、いくらいつも腹ペコだって俺は食えないぞ?」  マークのいかにも恋する男の放つ熱っぽい眼差しを、色恋ごとにまるで疎いリオンは無邪気に笑顔であしらって、すぐに目線を自分の両手にもった果物にうつす。 「か、固いなあ」  それでも渾身の力を込めて水晶柑を真っ二つに割ると、瑞々しい果肉から果汁と蜜のような甘い香りがしたたるそれを輝くような笑顔でマークの顔の前に差し出した。 「お腹すいているなら、食べなよ?」  果物の弾け立ち昇る清涼感のある香りと真っ白な顔の中で少しだけそばかすの浮いた頬を染めて果物を差し出す少年はたまらなく健気で愛らしくて……。  じゃあ、遠慮なく。とうっそりと呟いたマークは小さなリオンの手首を果物事掴み上げると、ぎゅっと少しだけ力を籠める。  水晶柑がぐにゃりと歪み、滴る果汁が伝うリオンの手に、厚く形のいい唇を寄せる。 「え……。あ……。マーク? 」  リオンがふわふわした日の光に透けそうな髪を揺らして身を引こうとするのを、大きな身体のマークは長く逞しい腕をほっそりとしたリオンの腰に回して身動きがとれぬほどがっちりと抱え込むと、その蜜を吸い取るように舐め上げる。  か細い手首から伝っていく雫を追うように、半袖から覗く細い細い二の腕まで。 唇が辿る艶めかしい刺激に、リオンはぞくぞくと身を震わせて悪ふざけをするマークを必死で窘める。 「や、だめだろ。ちゃんと食べろって」 「ちゃんと食べてる。甘酸っぱくて……。もっとくれよ」  唇を再び放すと、今度は実を握るリオンのほっそりとした指先に舌を這わせてきた。ねっとりと舐られ、ぞくぞくと肌の柔らかな部分に鳥肌が立つ。  太陽が一瞬雲に翳り、青年の表情に影を差す。  目が合うとそれはいつも軽口ばかり叩いてくる気のいい友人の顔ではなかった。本当はリオンより4つは年上の、精悍な若者が飢えと欲を訴えてくるそんな表情。腰をかがめるようにリオンの顔に甘い雫の付いた唇を寄せて囁いてくる。 「リオン、お前のことが好きなんだ」 (食べられる……)  そう思った時にはもう遅く、リオンは友達だと思っていた青年に、初めての口づけを奪われてしまっていた。  リオンよりずっと大きな唇が、ぺたぺたと甘い雫が付いたままリオンの小さな唇をなぞり、そのまま柔やわと感触を確認するように優しく啄まれる。 優しいが、かするような触れ合いは逆に官能的でこの後に続く深い触れ合いへの勢いを増させていくような……。ぞわぞわという体感が止まらなくなる。 「柔らかい……。甘いな?」  そんな風に言ってぺろりと舌先で唇を舐める仕草が男っぽくて、日頃のんびり可愛い大型犬のような姿は微塵もなくなった。代わりに獲物を狙う狼のように小さな子ウサギのようなリオンを見下ろしてくるのだ。  しかし逃げようにも大男のマークに身体を抑え込まれて動きが取れず、友人と思っていた男からの急なアプローチに、何かあった場合は脛を蹴るようにとのジルの言いつけすら忘れてされるがままになってしまう。  何とか頑張って顔を背けると、マークが片腕でも十分なほどの強い力で、さらにリオンの全てを攫うように身体を引き寄せ抱きしめてきた。 「怖がらないで。リオン。大切にするから。お前を好きでいていいって許してくれないか?」 「や、やめて。マーク、とにかくはなして。か、母さんのところにいかないといけないんだ」  とにかく必死でそんな風に喚いていたら、「リオーン? まだなの?」と本当に母の声が庭の向こう側から聞こえてきた。  鋼のようだったマークの腕が緩まったのを見逃さず、思わず自分の分の水晶柑をぽとりと地面に落としてしまいながら、リオンは涙目で後ろに飛び縋った。 「マークの馬鹿! お、落としちゃったじゃないか」  そんな風に茶化してなかったことにしようとするリオンを許さず、マークはもう友達の顔をやめて、一人の男としてリオンを見つめ返してきた。 「リオン。俺本気だからな? その首輪、俺が外させてやるから」  手を放すときに自分の手の平に残った方の果実を口元にやると、マークは野性的な動作でそれをがぶっと齧り取ってむしゃむしゃと食べた。 (なんで気が付かなかったんだろう……)  本気を出したマークからはリオンを捕えようと広がる、この庭を囲む薔薇のような、甘い香りが漂ってきていた。
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