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リオンの身体が成熟して、発情期がくるようになったら、アルファであるジルとは今みたいには一緒にはいられないかもしれない。だが未成熟な身体のおかげで今のところ、その決定的な予兆が見当たらないのはありがたかった。
(でもさ。こんな俺でも……。マークは俺のこと好きなんだっていってくれた)
こんな自分でも好きになってくれるなんてと、なんとなくむずがゆいような、心にぽっと暖かな光が灯ったような、そんな気持ちにさせてもらって心底ありがたい気持ちだ。
その反面、マークは中央でせっかくできた新しい友達だと思っていたから複雑な気持ちにもなってしまい手放しには喜べなかった。オメガになってこのかた、故郷の友人たちから一斉にそっぽをむかれ、裏切られつづけた。
だから他愛のない話で笑いあったり、くだらない悩み事も打ち明けられる、年の近い何でも話せる友人が再び持てたら……。そんな風に思っている中でマークに気安く話しかけてもらえて心底すくわれた気持ちになった。
(マーク……。あの時甘い、薔薇みたいな香りがしてた。俺、抑制剤飲んでるのになんでかわかった。本気で誘発してくるアルファにあったら、俺の飲んでいる程度の抑制剤じゃ効き目は弱いってモルス先生は言ってたからそういうこと? でも!マーク。アルファだったなんて聞いてないよ。……まあ、寮でゆるゆるに気が抜けた状態でご飯を食べている姿しか知らないからかもだけど……。まあ顔は少しかっこいいかな? 母さんもあの子はかっこいいって言ってたし……。ジルほどじゃないけど。あーあ。俺キス、初めてだったのに……)
男っぽい精悍な顔を近づけてきて、唇を奪われた。
思い出すだけで顔から火が出そうになる。いつものお腹を減らしたのんびりした顔のマークじゃない。よく見たらかっこいいな? という方の顔をしたマークが凄く怖いような、色気があるといえる顔をして、リオンを見つめてきた。思い出したら恥ずかしくてたまらなくなる。
(マーク、いつも2口でパンパンパン屋のまん丸パン食べきるもんな……。口、すごく大きくて、俺も食われるかと思った。またあんな風に迫られたら多分きっと逃げられないかもしれない。またキスされちゃうのか? キスって友達だって思っている奴から、そんなになんどもされていいものなのか? 断ったり顔背けたり逃げなきゃダメ? でも食堂で顔を合わせないわけにいかないし、なんとか俺のこと、ただの友達だって思いなおしてもらわないと。でもシンバさん、この寮にアルファはいないっていってたのになあ)
リオンがこの寮で働く前に、ジルが今寮に住む後輩たち(リオンを保護してくれたお巡りさんのシンバさんとか)を使って調査してくれた結果、この寮にはアルファは住んでいないと確認してくれた。
しかし春から入ったばかりで研修や演習先を転々としていたマークの情報は漏れてしまっていたのだろう。
『アルファがいたら、寮での仕事は心配でとても任せられなかったから良かった』
そんなふうに、ジルは言っていたから、バレたらとてもまずいと思う。
モルス先生が処方してくれた抑制剤は日中に効き目を強めるが夕方から夜には弱まるタイプだ。育ち盛りのリオンが抑制剤を常用的に服用することはあまり良いとは言えないらしいく、それでもベータ相手には効き目が確かな程度にだからこそマークがアルファだったとしれたらこの仕事を続けられなくなるかもしれない。
(黙っていないと……。俺この仕事辞めたくないよ)
やっと見つけた自分の居場所。そして母と一緒に暮らせる大切な住処。
失うには惜しすぎる。この仕事は今のリオンにとってはすべてと言ってもいい。
しかしまたマークからあんな風にされたら……。
マークの腕に抱かれて身動きを封じられた時、大好きな親友と思っていたから驚きや恐怖より戸惑いのほうが先に立って頭が真っ白になってしまった。
しかし真っ向からの告白に、心が揺れないはずもない。
(マークが俺のことあんなふうに思ってくれていたなんて知らなかった……。あいつはすごくいいやつだから、嫌じゃないけど……)
だけどリオンの一番はやっぱりジルだ。それは変わらない自信がある。
(ジルはやっぱりすごく特別。特別に、好き。優しくて、たまに意地悪だけど、会いに来てくれて、顔見て笑ってくれたら、胸んところ、なんだか、きゅってなる。……早く会いたよ。頭、撫ぜてもらいたい)
昨日は仕事が遅くまでかかって、リオンはもう部屋でうとうとしていたけれど会いに来てくれた。首輪をつけたままもう風呂に入ってしまったから、ジルはすまながって、首輪を外して丁寧に首を手ぬぐいで拭ってくれた。
『リオン頑張ってるな。みんな温かい飯がまた食べられてすごく喜んでるってシンバがいってたぞ』
そんな風に言って頭を撫ぜてくれたから、凄くすごく嬉しくて、その感覚をずっとずっと覚えておきたくてジルが傍らにいる間に手を握ってもらって眠りについた。朝起きたらもうジルはいなかったから、もっと話をすればよかったって思うけれど、でもあの喜びには代えられない。
口には出しては強請れないけど、あの大きな手でいつでも撫ぜてもらいたい。
ジルに優しく撫ぜてもらうと、自分が大切な人間だって、この世に生まれてきて良かったなあという気持ちになる。ハレヘに向かう列車の中で、もしもどこにも居場所がなければ生きていたって意味はないとまで思ったこともあった。でも今は違う。暖かな手のひらが、愛おしさを伝えてくれる。心地よくてたまらなくて、喉から子猫みたいに声が漏れそうになる。
(マーク……、なんて言おう……、俺はジルが好きって言ったら……。寮で噂になって、ジルが困るかな……。マーク……。どうしよ……)
横になって色々考えていたから、夜の涼しい風に吹かれて、段々と瞼が重くなってきた。最近時折怠くなるのだ。薬は合っていると思うけれど、季節の変わり目だからなのかもしれない。もうじきまたモルス先生のところにいくからその時に相談してみようと思いつつ、リオンはそのまま眠りについてしまった。
リオンが眠りについてすぐに、宿舎の裏手の木戸がキイキイ言いながらゆっくりと開いた。ジルが本日の手土産の桃色の包み紙の菓子を手にリオンの元にやってきたのだ。
以前退寮した直後に借りた部屋はセラフィンの暮らす高級住宅街に近い地域にあった。リオンが寮で仕事をすると決まるとすぐさま、再び寮のすぐ傍まで引っ越してきた。家賃は以前の部屋と同じぐらいで設備もよく部屋も広くなりリオンを泊めてやりやすくもなったので、おおむね満足している。何より三日とおかずにリオンの顔を見に来られるのがいい。
(リオン……。まだ起きてるかな)
朝早起きのリオンはもうこのくらいの時間には寝落ちしていることも多い。
先に言ってがっかりさせるのも可哀想で言わないできたが、明日は朝一番の仕事を済ませればそのあとは休みが何とか取れそうなのだ。同じく休みであるリオンを連れて一か月ぶりに出かけられそうだ。眠ってしまっていたら起こしてまで話をしようか悩ましいところだ。
一階部分のリオンの母の部屋や普段彼らが食事をとっている部屋には明かりが灯っているが、見上げたリオンの部屋はこちら側からは見えないのでよくわからない。
「こんばんは」
合鍵を使って玄関に入ってから声をかけると、リオンの母がきちんとした姿で出迎えてくれた。流石に今は夫のいない女性なので、息子のところに通う男の前であってもだらしない姿はけして見せない。
「お疲れ様。もうお食事は召し上がったの?」
「軽く済ませてきました。リオンはもう寝ていますか?」
「なんだか疲れたから休むって二階に上がっていったわ。あの子自分じゃ言わないけど、最近はたまに怠そうにしているの。この暑さは私たちには慣れていないし……。でももしかしたら……。初めての発情期が近づいてきているのかもしれないけど私は母親なのにオメガじゃないから分かってあげられなくて。それにあの子は何でも自分で抱え込もうとする癖があるから……」
「もうじきセ……モルス先生のところの診療の予約を入れておかないといけないので、俺がついて行ってこっそり聞いてみます」
「いつもありがとう。ジルさん……。でも本当にいいの?」
言わんとしていることは察したジルたが、土産をローラに手渡しながら嘯いた。
「いいのとは?」
「あの子のことを番にしたいと思っているっていう気持ちは、変わらないのかってことよ。ブシャドで私にそう言ってくれたわね? 同情ではなくて愛情からあの子を番にしたいと思っているって」
「俺の気持ちは変わりません」
ブシャドからリオンとローラを連れ帰ってこの三か月、勿論気持ちは変わっていないし、日に日になんというかジルの中では番を持つという自覚と責任が出てきたように思う。
ただまだその時ではないのだから、ゆっくりとリオンの成長を待ちたいとも思うのだ。
「これまで貴方がリオンや私にしてくださったこと、普通なかなかできるものではないわ。あの子のことを大切に想ってくれていなくちゃ、とてもできない。それは本当に感謝しています。でも、貴方はまだあの子には何の話もしていないでしょ? それは本当に、あの子がまだ幼くて……。貴方が番の申し入れをしたら立場的に断わりようがなくなるから言わないって。あの子が自分から貴方の番になりたいっていうまで待つって……。でも私には貴方みたいに素敵な人なら他にも幾らでも番になりたいっていう人はいるでしょうから、本当にリオンを番にする気があるのか……。貴方を信じても良いの?」
ローラの言わんとしていることはジルにもよくわかる。大切な息子を弄ぶような真似は絶対にして欲しくない母心。
性別は違うが、姉が年の離れた裕福な義兄に見初められて結婚が決まった時、母は姉を守るため、自分の中に父性と母性の両方を奮い立たせて相手を見極めようとしてたように思う。
幸い義兄は誠実で穏やかな紳士で、姉に結婚するまで指一本触れなかったし、今では可愛い甥っ子も生まれて幸せに暮らしている。
リオンの母、ローラは一見息子に似たはかなげな容貌の女性だ。愛情深く朗らかで寮の若者にも母親のように慕われている。その実、あの厳しい自然環境の中で夫亡き後たった一人でリオンを育て上げて、苦労して貯めた金で息子を一人、ハレヘに逃がしてくれようとした強い女性でもあるのだ。
ジルが浮ついて気持ちでいたならば、息子の為にはならぬと、即、切って捨てられるだろう。
母親の厳しくもまっすぐな視線にジルは決意をもって頷きつつ、ジルはとんっと胸を拳で叩き、口元には不遜な笑みすら浮かべる。
「……もしも発情期に入ったら、リオンの返事も聞かずに番にしてしまいたいという気持ちがここにいつでも燻っているほど、リオンのことを愛しています。だから大事にしたい。あいつが俺をきちんと選べるまで、こうして百夜でも千夜でも通う覚悟です」
「あら、まあ」
そんな風に少女のような面差しの母親は両手で口元を覆うと、少しだけ嬉しそうにころころと笑った。
「そうね。殿方はそのくらい情熱的で辛抱強いのは素敵ね。でもまあ、それじゃあ、先に発情期の方が来てしまうかもしれないわねえ。でも困ったわねえ? あの子はちょっと鈍いところがあるから……。最近。寮の男の子にとっても好意を寄せてもらってるみたいなんだけど……。まあ仲が良くて見ていて微笑ましい感じなんだけど、今日なんてちょっとねえ。リオン様子がおかしかったのよ。ぼーっとしては何か思い出して唇つんつん触って、顔真っ赤にして、またため息ついて」
ちらり、と上目遣いにジルをみやって、リオンの母、ローラは口元に手を当てて笑う。眉毛をぴくっとさせたジルを揺さぶるのが楽しい様子だ。
「うかうかしてたら、ねえ?」
「失礼します」
一礼してリオンのいる二階に向かったジルの背中に、「まだまだ青いわね~」と微笑んだ母は、彼の為の軽食を整えるため、台所へ消えていったのだった。
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