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同行
掴んだ腕の儚い細さに思わず力加減を緩めると、振りむいた少年のその容姿に似合わぬ毅然とした瞳に宿る光の強さにジルですら息をのんだ。彼は失礼にならない程度の速さでジルの掌から腕を引き抜くと、まっすぐにジルを見つめ返した。
「大丈夫です。オメガですが、俺、男です!」
そうきっぱりと言い切った彼の言葉は、何故かジルに刺さる前に地面に落ちた弓矢のようだ。なんの効力も持たない。
ジルはあからさまに呆れたような顔をしたのち、すぐにこっと笑った。その見るからに都会の美形といった感じのジルの面差しに少年は怯んでじりじりと入口の方に後退していく。
「それのどこが大丈夫なのかお兄さんに説明してくれない?」
「え……」
少年を引き留めようと裏から一周入り口までやってこようとわたわたする後輩警官を尻目に、ジルは僅かに瞳を見開いてわざと大仰に首を傾げた。少年もどうにも話が通じないことに焦ったように上ずった声で一生懸命説明を続けた。
「で、ですから。俺、オメガですが北で……。男として普通に育ちました。番はいませんが、その……。身体が未成熟だから発情期が来たことがありませんし……。普通の男とそう変わらないと思います」
「そうか。わかった」
分かったと言われてほっとした顔を見せて、淡いそばかすの散ったまろい頬を林檎色に上気させた少年に、ジルはにやりと笑って後輩を見やった。
「おい、シンバ! 帰ってきたらしこたま酒を奢れよ。坊主、俺がハレヘまでついていってやるから、一緒に行こう」
そういってもう一度少年の腕を掴み上げると、少年が慌てふためいてリュックを取り落しそうになった。
粗末な作りのそれをさりげなくジルが取り上げて自分の肩にひょいっと素早く引っ掛けてしまう。財布に引き続き全財産を取り上げられて、少年は頬を上気させて口元をわなわなとさせた。
(こういう顔は、何というか可愛いというか、面白いというか)
その真っ正直で飾らない山の天気のようにころころ変わる表情は、ジルにあの手この手で迫ってくる自分に自信がありありの中央の男女よりずっと好ましく思った。そういえば入口まですっとんでいって戻ってきた後輩警官にもこういうところがあるし、自分の前でだけこういう飾らない貌を見せたジルの長い間の片思いの相手もそういうところがあった。つまり旅の相棒にするのに揶揄いがいのある退屈しない相手とちょっとSっ気のあるジルは本能で察したのだ。
「え? あ! あなた、今、分かったって、いったじゃないですか!」
「君がなにもわかってないってことがわかったってことだ」
小首を傾げると、切りっぱなしで肩につくかつかないかの髪がゆらりと揺れた。白っぽい髪は痩せぎすな身体同様、栄養が行き届いていないかのようにぱさっとしていて、あの日後輩が拾ってきた痩せた子犬を切なく連想させた。ジルならば簡単に縊れそうなか細い鶴首に巻かれたよれた布は、項を保護するためにしているのかもしれないが、意味があるようには思えない粗末な脆さだ。
自分の中に眠る危険な嗜虐心を呼び起こされたジルは柔和な顔に似合わずごつごつと骨ばった指先をその布にかけ、くいっと引っ張った。
「んんっ! 何を……」
がしっと小さな掌でジルの手を掴んでくるが、児戯ほどの力もなく感じる。
首にきつく巻き付けるわけにはいかなかったのだろう、布は簡単に手前が緩んで少年が苦しげな顔をしたのに何故か仄暗い歓びが湧き上がってしまう。
「ほら簡単に、解ける。夜行列車でうとうとしている時に男にのし掛かられたら、君なんて簡単にいいようにされるだろうな」
(こんなんで、よくいっぱしの男を気取れるよな?)
口に出したら彼が泣き出すかもしれぬと思って言わなかったが、ジルの手を布から引きはがすこともできずに悔し気な顔を見せる少年には、図らずもその気持ちは伝わってしまったようだ。
右も左も分からぬ都会に出てきたばかりで財布を無くし、挙句初対面の男に小馬鹿にされている。悔しくて少年は桃色の唇をきりきりと引き結んだのち、もう一度折れずにジルの双眸見つめ返してきた。
「俺は確かに……。身体は小さいかもしれないけど、故郷ではちゃんと仕事もしていたんだ。俺にだって北部の男としての気概がある! ハレヘではオメガも平等に仕事につけるって昔の新聞で読んで……。だから俺はどうしてもハレヘにたどり着いて、ちゃんとした仕事につかないといけないんだ」
そんな風に大きな瞳をまん丸に見開いて、一生懸命いじらしく言い縋る彼に、流石にいじめすぎたかとジルも流石に手心を加えることにした。
彼に対して少しだけすまなそうに、大人の余裕を見せたゆったりとした笑みを浮かべて見せた。
「すまない。君の気分を害するようなことを言いたかったわけじゃない。でも君があまりに世間知らずだから警官として見過ごせないと思ったんだ。君はその、男性かもしれないが、オメガとして未成熟ということは抑制剤も服用していないよね?」
予想通り素直に頷く少年のもとに入り口から回り込んできた後輩警官が息が切れるほどに必死になって駆け込んできて、真っ赤な顔で通せんぼするように立ちふさがった。
「オメガとしての能力が急に開花した場合、密室である列車の中でもしも不意に発情してしまったら他の客にも大きな迷惑が掛かることになる。場合によっては君自身が望まない番にされてしまうかもしれないし、客同士がフェロモンに充てられて君を奪い合って大きな争いに発展するかもしれない。そういう争いの芽が生まれぬ種をみすみす任せるわけにはいかないな」
「争いの種……」
そう呟くと少年はがっくりと項垂れた。ふわふわとした羽毛のようなその髪が柔らかそうで、ジルは思わず撫ぜてみたくなったが流石にその衝動は手を握ってやり過ごした。
「リオンくん。悪いことは言わないって。先輩は警察官だし、とてもいい人だから一緒に行ってもらうといいよ」
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