中川 タツヤの場合

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中川 タツヤの場合

傷だらけになった机を見て、今日もまた絶望から1日がはじまる。 くすくすと笑うクラスメイトの声が上から冷たい水のようにふりかかる。 「よおー!たっちゃん! 昨日は母ちゃんがまた倒れて大変だったんだって?」 軽薄な声とともにどかっと机が蹴り上げられた。 騒がしい音を立てて倒れる机から目線を上げると、そこには小学校の頃からの同級生である下田が立っていた。 「そんな時に学校になんて来きていいのかよ?俺らは別にお前なんかいてもいなくても同じなんだから帰れよ」 馬鹿にするような口調で吐き捨てられた言葉に、周囲の笑う声が大きくなった。 恥ずかしいとか泣きたいとかいう感情はもうない。 中学に上がって一年が経つけれど、タツヤに対するイジメは収まらない。 私物がなくなることは毎日のこと。 週に何回かは机がなくなり、週に何回かは机がズタズタに刻まれたり、油性ペンで悪口をペイントされていたりする。 いつもクスクス笑われて、自分の価値を忘れてしまうほどの悪口を囁かれる。 教師はいじめられる人間が悪いというスタンスを崩さない。 きっと母はこの状況を言えば転校しようと言ってくれるだろうが、病弱で女手一人で育ててくれている母に迷惑はかけられない。 この絶望の中で生き続けるしかない。 とぼとぼと歩く帰り道。 笑いながら帰る小学生たちとすれ違った。 流行りのカードゲームの話題で盛り上がる彼らを見て、1年前のことを思い出す。 下田と談笑しながら帰っていた頃のことを。 「タツヤ!」 ぽんと肩を叩かれて、身体がびくっと跳ねた。 振り返った先には小学校の同級生の美波がいた。 後ろから肩を叩いただけで震えているタツヤを見て、美波の眉間に皺が寄る。 「なに。まだイジメられてるの?」 美波の質問に何も答えられずに目線を逸らす。 ふと美波の着ている制服が目に入った。 「…タツヤも私立に入れば良かったのよ。頭良かったのに、絶対タツヤなら受かったよ。」 「私立なんて無理だよ。教科書代だって払えやしないよ、そんな上等な制服買うことだってできやしない。」 簡単に私立に行けばなんて言う美波に少しムッとして、口調が強くなった。 「それに…」 下田の顔が思い浮かんだ。 「…お母さんのことだけじゃないんでしょ? タツヤが公立に行くって決めたの。」 バカみたいだ。 うちの地区で通える公立の中学校の評判はすこぶる悪かった。 無気力な教師が多く、生徒のコントロールができないせいで、いじめや暴力などが横行していた。 なので、たいていの子は同じ地区にある有名私立大学附属の中等部へ入学するか、1時間近くの電車通学をして、別の地区の中学に入学する。 家の事情が厳しい子達は、仕方なくこの地区の公立中学校に入学する。 俺や下田のように。 下田がある日、不安そうに呟いた。 父親が家を出たため、私立中学や交通費のかかる中学への入学が厳しくなったことについてだった。 一人では不安だと泣きそうな下田の顔を見て、タツヤは自分も下田と同じ学校への進学を決めた。 「タツヤ、下田と仲直りできないの?」 美波の質問にカッとなった。 「あっちが一方的に俺をいじめてくるんだぞ!なんだよ仲直りって!」 そう怒鳴ると、美波の目が少し揺らいだ。 居た堪れなくなって、タツヤはそのまま走っていった。 なんだよ なんだよ 心の中で文句を言いながら走る 唯一の味方だと思っていた美波は何一つ自分の気持ちをわかってくれていなかった。 下田の行動をケンカの延長線上のように捉えている。 違う 俺は何もしていない あいつが突然あんなふうに俺をいじめるようになったんだ 俺が何をしたっていうんだ ちくしょう ちくしょう 気付くと涙が止まらなくなっていた。 泣きながら走っているところを誰にも見られたくなくて、裏路地へと入った。 いりくんだ道を走り続けた まるで、何かに呼ばれているように。 そして足が止まる。 呼吸をなんとか落ち着けて、ふと目線を上げると、裏路地の一角に小綺麗な自動ドアが見えた。 裏路地に自動ドアがあるなんて… 一体何のお店だと見上げると、[希望・絶望銀行]とかかれた看板が目に入る。 「ぎ、銀行…?」 この町でこんな名前の銀行は目にしたことがない。 こんな変わった名前の銀行も聞いたこともない。 銀行なんていうものに入る理由もなかったが、足は自然と自動ドアを通ってしまう。 ドアをくぐった先には、白と黒で基調された待合室があった。 待合室には、栗色のふわふわとした髪が印象的な女性が座っていた。 くるりと女性がこちらを向いた。 「あれ!ここって学生でも働けるの?」 女性は容姿に似合う可愛らしい声で驚く。 「働けませんよ」 すると、澄んだ綺麗な声が耳に触れた。 銀行員の制服を着た綺麗な女性がそこに立っていた。 受付の透明なガラスの向こうで柔らかく女性は微笑んだ。 「舞花さん、店長が面接をしたいそうなので、奥のドアにお入りください。」 ふわふわした栗毛の女性は素早く立ち上がると、いってくるね!と笑いかけてきた。 よくわからず、とりあえず会釈だけを返す。 「…あなたは…」 女性がタツヤに向き直る。 「あ、す、すみません…すぐ出て行きます」 用事もなく入ってしまったことを詫びて、タツヤは出て行こうとした。 「お待ちください。」 女性はそれを静止する。 「とても良い絶望をお持ちですね。 お話だけでもしていかれませんか?」 え? 聞き返すが、女性はただただニコニコとしているだけ。 とりあえず言われたように、女性の前に立つ。 「あ、あの良い絶望って…」 「はい。説明させていただきます。 …その前に自己紹介を。 私は柏木といいます。よろしくお願いします。」 頭を下げる柏木に、タツヤも、 「中川です。どうも…」 と、頭を下げた。 「あの…俺、お金とか預ける予定もありません」 どちらかというとお金が欲しいほうだ。 「はい、存じ上げております。」 「え、何で知って…」 「この銀行は中川様たちが普段利用していらっしゃる銀行とは違います。 私達がお預かりまたは貸し出すのは希望と絶望だけでございます。 お金は一切関係ありません。」 「は?希望?絶望?」 頭がおかしいのかと疑うが、このように手の込んだイタズラも考えられない。 「はい。わかりやすく例を用いますと、例えば中川様が今日、臨時収入として100円手に入れたとしましょう。嬉しいですよね?その喜びや嬉しさをこの銀行ではお預かりいたします。普通の銀行ではお預かりした金額や日数で利息がつきますように、お預かりした喜びや嬉しさにも利息がつきます。なので今日預けていただければ、3ヶ月後には1000円に、1年後には1万円に、そして数年後には…100万円に…。」 ごくりとタツヤの喉が鳴る。 「なってるかは分かりませんが。 とりあえず預けられた希望は利息によって何倍かになって返ってきます。」 タツヤは少しずっこける。 「え、じゃあ絶望を預けると…」 「希望を預けられたときと同じです。 利息がついて何倍かになって返ってきます。」 「誰がそんなの預けるんですか…」 「ふふ。一時でもいいから今だけはこの絶望から逃れたい、たとえ明日の自分がどうなったとしても…そう考えてしまうのは人間の性です。中川様もそうは思いませんか?」 穏やかな柏木の目が一瞬冷たくなったような気がした。 そして、タツヤも背筋がひんやりとする。 柏木に心を見透かされたような気がして。 「普通の銀行と仕組みは同じなんですね…ん、あれ?じゃあ希望や絶望も貸してもらえるんですか?」 「ええ、もちろんです。当銀行は、貸し出しもしております。希望を貸し出されたい場合はお客様が望むだけの希望をお貸しいたします。」 「貸すってことは借りるってことですよね?希望を返すってどういう…」 「はい。お客様の言う通り、希望を返済するというのは不思議な話ですよね。ですが、言葉通りの意味でございます。お客様には貸した分の希望、つまりは喜びや嬉しさを返済していただきます。」 「どうやって…」 「簡単です。お客様が、我々が貸し出す希望から喜びや嬉しさを見出せば、貸した分の希望を返済できることとなります。」 「じゃあ…プラマイゼロってことですか…?」 タツヤの顔が明るくなる。 「ええ。うまくいけば」 幸せが手に入ると思ったタツヤには、柏木の声は届いていなかった。 「あ、絶望もお貸しするんですか?」 「はい。概ねは同じです。ただし、絶望の場合は利子が高いので、お客様が抱えてらっしゃる絶望もプラスしてご返済されることになります。なので、絶望を貸される分、ご自身の絶望が無くなることを意味します。ただ、これは申し込むお客様が非常に少ないですね。 皆様、希望の貸付は気に入ってもらえるのですが…。」 残念そうに呟く柏木を見て、 でしょうね。と言いたくなるのを堪える。 「中川様はどういたしますか?」 タツヤは一瞬言葉に詰まった。 こんな摩訶不思議な銀行が実在するわけない。 詐欺の可能性だってある。 でも 学校での日常や母親の顔が思い浮かぶ。 「普通に学校に通いたい。トイレで食べるんじゃなくて、竹田くんとか秋山くんとか、友達と笑って教室でお弁当を食べたい。女の子から気持ち悪いって言われるんじゃなくて、普通におはようって言ってほしい。」 柏木の目が一瞬細くなった。 「希望を貸してください!」 ➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖ タツヤは帰路についた。 銀行を出てしばらく経つと、やっぱりあれは夢だったのではないかと思う。 だが、貸し出しの手続きも証明捺印もさせられなかったし、貸すといっても現物を渡すようにはいかないので、手渡せないと言われてしまった。 揶揄われただけだったのか。 そうとも思わず、願い事をあれこれと言ってしまった自分が恥ずかしい。 一つ目に願ったのは、 「聞いて!タツヤ! お母さん、店長に昇格するんだよ!」 『お母さんに楽になってほしい』 「え!ほんと!?」 タツヤに抱きつきながら母は興奮気味に言う。 「うん。身体が丈夫じゃないから正社員としては雇えないって言われ続けて、ずっとパートだったけど、今日の面接で一生懸命訴えたら、正社員として雇用してもらえることが決まってね。それでね、前に母さんが提案した商品の売れ行きが良くて、一気に昇進させてもらったの!」 これで生活が良くなるよ。 と、母は笑った。 「お母さん!」 タツヤは泣きながら母に抱きついた。 母の苦労が報われたことは素直に嬉しかった。 じゃあ…このままいくと… 二つ目の… 『友達と楽しい学校生活が送りたい』 本当に願いが叶ったのか気になって、いつもより早く登校する。 すると机の周りに何人かの人がいて、身構えた。 やっぱり何も変わらないと落ち込んでいると、机を囲んでいた男の子と目が合う。 竹田くんだった。 自分がハマっているアニメのキーホルダーを持っていたところを見かけてから、ずっと話したいと思っていた子だった。 「お、おはよう」 竹田はおずおずとタツヤに挨拶をする。 入学してから、まともに「おはよう」を言ってもらえたことはほとんどない。 久しぶりに耳にした言葉に思わず、目の奥が熱くなった。 竹田くんの手には雑巾が握られていた。 不審そうな目でそれを見ると、竹田くんは慌てながら誤解だと言った。 竹田くんの後ろに置かれた自分の机に目をやると、黒いマーカーで何かを書かれた形跡がある。その文字は水分を含んだ何かで拭かれたことでぐちゃぐちゃになって原形は分からない。 「ご、ごめん、拭いている最中だったからまだ汚くて…」 「え、拭いてくれてたの?」 「う、うん…ごめん、本当はもっと早くこうするべきだったんだけど…勇気が出なくて、でも今日は何故か…」 竹田は一緒に机を拭いていた友人達を見る。 彼らは口を揃えて、今まで見て見ぬフリをしていたことを謝罪した。 「え!タツヤくん、来ちゃったの!」 そこに1人の女子がやって来た。 同じクラスの村上だ。 真面目な性格の子で、入学当初はよく会話をしていた。 彼女の手にもまた雑巾が握られていた。 「ごめんね、中川くん…入学したての頃はいつも助けてもらってたのに、中川くんが虐められているのを見て見ぬフリして」 震える声で謝罪する村上や、目を赤くして謝罪する竹田たちを見て、怒りは抱かなかった。 助けてくれなかったことの恨みも感じない。 自分も彼らと同じ立場だったなら、正しい行動ができたとは思えない。 「いいんだ。ありがとう。」 中川がそう言って笑顔を見せると、彼らの顔も晴れやかになった。 「おい!何してんだよ!」 彼らと一緒に昼ごはんをとっていると、下田がそれに文句を言ってきた。 けれどそれに毅然と答えたのは、竹田だった。 「もう俺たちはいじめに加担しない」 その言葉に、すぐ横で弁当を食べていた女子グループの一人が声を上げた。 相田という金髪でピアスをした派手な見た目の女子生徒だ。 「そうそう、下田もさーちょっとしつこいよー?もう1年も経つじゃん、そろそろいいんじゃないの?」 ねえ、村ちゃん? と、相田は隣で食事している村田に振った。 「そうよ、もう中川くんをいじめるのはやめましょう」 クラスの視線は下田に注がれる。 下田は舌打ちと共に、教室から出て行った。 「たくっ、ガキだよねー」 相田が呆れるように言うと、 「つか相田、下田と仲良さげだな」 「ああ。家近いから」 秋山はそれ以上興味はなかったのか、ふーんと相槌を打つと、タツヤに話題を振った。 「それよりもさ、昨日の『パチモン』見た?」 「見たよ!やっぱり俺が推すのはパッチューの100万ギガだなー」 「王道だなー」 その場が笑いに包まれる。 身が裂けるような冷え切った笑いではない。 身体が温もるような笑いだ。 そうだ。 これを望んでいたんだ。 日常が一気に満ち足りたことに浮き足立ちながら通学路を歩いていると、道の端で立っている美波がいた。 昨日のことを思い出して、怒鳴ったままだったことを思い出したタツヤは居た堪れない気持ちとなった。 「あ、タツヤ」 タツヤを見つけた美波は手を振った。 無視はしたくなかったので、タツヤは顔を顰めながらも、美波の元へ向かった。 「昨日は…ごめんね」 美波は先に謝罪をする。 「タツヤの気持ちを考えずに言ったことは謝る。でも、私は2人に仲直りをして欲しくて…」 「…だから!なんだよ仲直りって! あいつがしてきたことを知らないからそんなことを言うんだ! これはケンカじゃないんだ! 仲直りなんてできない! あいつは俺の父ちゃんの形見を便所に捨てたんだぞ!」 「下田はそんなことしないよ! したところを見たの?」 言葉に詰まる。 体育の授業の後に、鞄につけていたキーホルダーがないことに気付いた。 父が死ぬ前日に父と行った縁日のおみくじでとってくれたキーホルダーだ。 父との最期の思い出が詰まったキーホルダーが汚れた便器の中にあった時の気持ちなんて、美波には分からない。 「うるさい!」 便器から出したキーホルダーを抱えて泣いているタツヤを見つけたのは下田だった。 下田の目は動揺に揺れ動き、顔は青くなっていた。 美波の言葉によってその態度が全く別のものになりそうで、タツヤは首を振ってそれを否定する。 「新しい友達もできたんだ。 もう下田のことで口うるさいこと言うなよ。」 美波にそう伝えると、タツヤはまた走り出した。 下田を庇う美波にイライラした。 気付くと、また銀行の前に来た。 躊躇なく、タツヤは自動ドアをくぐる。 「中川様、こんにちは。」 柏木はタツヤが来るのが分かっていたかのように、受付の透明のガラスの向こうで微笑んでいた。 「今日はご返済でしょうか?」 「いえ、もっと希望を貸してほしいんです」 柏木の口元が妖しく動く 「はい。かしこまりました。」 タツヤはさまざまなことを願った。 彼女が欲しい クラスメイト全員と友人になりたい お金ももっと欲しい 欲はつきない。 全てを願った後、タツヤの環境は一変していた。 学校ではみんなから慕われ、村上の友人である田中という女子から告白され、付き合うようになった。 母親の仕事はどんどん評価されていき、給料も上がり、お小遣いも増えた。 その分、家に帰れない日も続いて寂しい気持ちも募ったが、友人たちとの生活が楽しくて、その寂しさは紛らわせた。 田中と一緒に帰っているところ、美波に呼び止められた。 「なんだよ…」 この間のこともあって、タツヤの口調は厳しかった。 「その子、タツヤの何?」 「は?彼女だよ」 「…ねえ。あなた、タツヤのどこが好きなの?」 美波は突然、田中に詰め寄った。 田中は何なのよこの子と、たじろぐ。 「おい、なんだよ急に!」 「タツヤはこの子のどこが好きなの?」 言葉に詰まった。 「タツヤ、最近おかしいよ!変な銀行にも入っていってるの見たんだからね」 「銀行…?」 田中が首を傾げる 「何意味わかんないこと言ってんだよ! もう俺に話しかけてくんな!」 慌ててタツヤは田中の手を取ってその場をあとにした。 「あの子、何?」 田中の質問に、タツヤはただの幼馴染だと答えた。 父親同士が同じ職場の同僚で、住んでいる地域も近くて、学校も一緒で、自然と美波とは仲良くなった。 自分の気持ちを率直に言わなければ気が済まない美波はよく人と衝突するが、それは美波が優しい人間だからだと、タツヤは知っていた。 優しすぎるあまり、その優しさが空回って、お節介になってしまうのだ。 タツヤの母が倒れ、家で療養していた時。 美波は母親に言われてお粥を持ってきてくれた。 眠る母を見ながら膝を抱えて泣くタツヤの隣で、美波は何も言わずに手を繋いで、タツヤの父親が帰ってくるまでそばに居続けてくれた。 そういえば、下田もそうだった。 いつの時か母が倒れたと聞いて、野原で摘んできた草花を持ってきてくれた。 お母さんを少しでも楽にしてあげようと、 二人で掃除したり、洗濯したりした。 結局ほとんど失敗して、母に余計迷惑をかけることになって、美波に散々叱られた。 「まあいいや。じゃあこの後は竹田たちとゲーセンにでも行こうよー」 田中の声に、 タツヤは首を振った。 「いや、今日は帰るよ」 え!なんで! と叫ぶ田中を無視して、タツヤは歩き始めた。 願いは全て叶ったはずなのに、 何故、 こんなにもむなしいのだろう。 今日も母は帰っていないのだろうと思いながら玄関の戸を開くと、 そこには真っ暗な部屋で倒れている母の姿があった。 母さん!! 叫び声と共に駆け寄った。 何度も何度も母さん、母さんと声をかけた。 病院に運ばれて、医者からは過労で倒れたのだと告げられた。 2、3日入院すれば問題はないと告げられ、安堵する。 ありがとうございましたと言いながら、診察室の扉を閉めて、母の病室へと向かう。 病室には美波の母親がいた。 「ああ、タツヤくん。お久しぶりね。」 「え!」 まだ誰にも母親が入院したことは話してないのにと驚くと、 「救急車がタツヤくんのアパートに止まって、中川さんが運ばれたって聞いたから、いてもたってもいられなくなって…ごめんなさいね。 …お腹空いてない? おばさんのご飯久しぶりでしょう?」 手持ちの袋からタッパーを取り出していく美波の母親の視線がふいに一点に集中する。 「あら?もう誰かお見舞いに来てくれたの?」 「え…」 視線を追うように振り返ると、そこには花瓶にささった、たんぽぽがあった。 母が好きな植物だ。 「私みたいに噂を聞きつけて、駆けつけてくれた人がいたのねぇ」 それが誰なのか、タツヤはすぐにわかった。 たんぽぽを見てると元気になるのよと母が笑ってから、母が体調を崩すと必ずたんぽぽを摘んでくる人がいる。 胸がザワザワとする。 「す、すみません…母の着替えとかを取りに帰りたいんですが…」 「ああ!そうね、じゃあ私はここでお母さんを見てるから、行ってらっしゃい。」 飛び出すように病室を出て向かったのは、自宅でも、下田の家でもなかった。 竹田たちがいると聞いたゲーセンだった。 ざわつくこの気持ちをどうにか紛らわせたかった。 ゲーセンでいつも遊んでいたシューティングゲームのところへと行くと、竹田たちが遊んでいた。 近寄って話しかけようとすると、彼らの会話が耳に入ってしまった。 騒がしい店内であっても、はっきりと。 「ねえねえどうする?中川のこと」 竹田が言うと、 「ほんとよねー今日、田中っちがゲーセンに連れてきたらボコって恥ずかしい写真撮って楽しもうよって話してたのにさー」 村上が笑う。 「だってー変な女が出てきて、そしたらあいつのテンションいきなり下がって帰るとか言い出して。」 田中もタバコを片手にそう言った。 「女?なに、あいつモテるの?」 「けっこー可愛い子だったよ?」 「マジで?あいつに言って紹介してもらおっかなー」 「やめときなよー気キツそうな子だったし」 「そっちのほうが色々と燃えんじゃん?」 ギャハハと下品な声が飛び交う。 「そもそもさーあいつと馬鹿げた友達ごっこしてたのも下田のせいだよねー」 「あーマジであいつうざいよね」 「俺らが見つけたおもちゃなのに、いきなりあいつがクラスの連中の前で中川をイジるから、クラスの奴らがいじめだのなんだの騒いできやがってさーめんどくせーんだよ」 「まあクラスのほとんどは下田が中川虐めてたと思ってるみたいだからいいじゃん? 私らの罪はぜーんぶ下田に庇ってもらって、私らは良い子を演じるのよ」 「まあ、相田あたりは気付いてるよなー」 秋山が笑うと、相田もボコるー?と村田が愉快そうに笑った。 気分が悪くなったタツヤは気付かれないようにその場を後にした。 次に向かったのは、 「あら、中川様。こんばんは。 ちょうどよかったです。返済についてお話が…」 「嘘つき!」 柏木の言葉を遮り、タツヤは怒鳴った。 「何が希望を貸しますだよ! 母さんは倒れるし、友達たちは俺を騙してただけだったし、何一つ俺の願いは叶ってない!」 にこやかだった柏木の目が、すうっと冷たくなるのが見えた。 「はい、そのようですね。」 「そのようでって…」 「ところで中川様、ご返済についてお話しがあります。」 「誤魔化すなよ!」 「お聞きになったほうがよろしいですよ?中川様は今現在、お貸しした希望を一切返済されておりませんから。」 「は?」 一瞬言葉に詰まったが、すぐさまタツヤは反論する。 「最初に言ってたじゃないか!希望を与えられ、その希望から感じた喜びや嬉しさで返済は済むって!プラマイゼロだって! たしかに与えられた希望は偽物だったけど、俺はそれに喜んでいたし、嬉しかった…」 「本当ですか?」 え? 柏木の言葉に目を丸くする。 「本当に中川様は喜ばれたのですか?」 心がぞくりとする まるで心を探るかのような柏木の言葉に、タツヤは声が出なくなった。 「中川様、あなたが望まれたのはお母様が楽になってほしいという願いと友人や恋人が欲しいという願いでしたけれど、お母様が楽になってほしいという願いは、お母様の体調などを案じた願いではありませんでしたよね? お母様が楽になることで自分の負担が減るからではないのですか?」 違う。 とは言えなかった。 母の顔色が悪くなるたびに心配し、気遣わなければならないことに疲れていたのは事実だ。 母の仕事が安定すれば、私立校とはいかなくても、電車通学をする余裕ができるかもしれない。そうすれば、あの地獄のような日々から抜け出せる。 心の片隅でそう思っていなかったといえば、嘘になる。 「中川様は先ほど嘘つきとおっしゃられましたが、中川様こそ、ご自分に嘘をつかれていますよね。 お母様の願いでもそう、ご友人に対してもそうです。」 ぎゅうっと手に力を込めた。 自分が情けなくて仕方がない。 「あなたが楽しい学校生活を共に過ごしたいと願ったのは、竹田さんや秋山さん達とではありませんよね。」 下田の顔が思い浮かぶ。 「あなたが親密になりたいと願った女性は村田さんや田中さんではありませんよね。」 美波の顔が思い浮かぶ。 「嘘で塗り固められた願いからは真の喜びも嬉しさも見出されません。 それはこの数日を体験したあなただからこそわかるのではありませんか?」 柏木の言葉に、顔を俯けるしかなかった。 意地を張っていた。 クラスメイトたちが庇ってくれた時に、下田に言えばよかったんだ。 仲直りしようと。 美波の話も、もっとちゃんと聞けば良かった。 美波が誠実で優しい人だということを誰よりも知っていると自負していたくせに。 「はいはい。柏木さん、厳しすぎますよ? お客様は神様なのですから、もっと優しく。」 奥の部屋からスーツを身に纏った細身の男性が出てきた。 眼鏡をかけて、常に微笑む顔はどこかぞくりとする怖ろしさを感じさせた。 「お客様、私は当銀行の支店長であります。 金尾巡(かねおめぐる)といいます。 どうぞよろしくお願いします。」 「金を巡る…?」 思わずつぶやいてしまった。 「いやぁ、銀行マンに相応しい名前でしょう」 「うちで扱っているのはお金ではありませんけどね」 「ていうか守銭奴みたいな名前ですよね」 ひょっこりと男性の肩越しから現れたのは初めてここに来た時にいた栗毛の女性だった。 「ははっ。で、こちらのお客様は返済が滞っているとか?」 持っていた書類の端で柏木と栗毛の女性を叩いたあとに、金尾はタツヤの顔を見やる。 ぎくりと背筋がこおる。 「希望の貸付は、正確性を大切にしているため、お客様が要望されたことを忠実に叶えてしまうんですねぇ…。大抵のお客様はご自身の願いをご自身が理解されていなくて、全く別の希望を求めてしまい、返済に困ることが多々あるんですよ。」 今回もそのケースですね。 金尾はやれやれと肩を落とす。 「あの返済はどうすれば…」 タツヤがおずおずと聞くと、金尾の閉じられていた目がうっすらと開いた。 「そうですね。お客様はまだそれほど借りてはおられませんし、あと数年ほどの希望を全て分割で支払っていただければそれで構いません。」 「数年?」 「つまりは中川様これから数年間感じるであろう希望を返済に当ててほしいのです。といっても、希望と絶望というのは、希望を感じれば絶望が、絶望を感じれは希望が訪れるというようにバランスを保っております。 これから数年間は中川様には絶望しか訪れないということですが、よろしいでしょうか?」 「そっ、そんなの!」 「そうですね。数年間苦しむというのも酷な話ですね。なので、一括払いも可能としております。」 「ですが中川様、この一括払いをした場合には、数年分の希望を一度に全て支払う=数年分の絶望が訪れるということです。」 金尾がジロリと柏木を見る。 突然説明に割って入ってきた柏木に言いたいことがあるようだが、今は何も言わずに柏木の説明を見守っている。 「先程に説明があったように、希望と絶望というのは常にバランスをとって成立しているものなのです。なので多くの希望を味わえば味わうほどにそれ相応の絶望を味わうということです。この銀行では希望の貸付の際には、貸した分の希望の数だけの絶望が訪れないように希望の返済を求めているのです。 なので返済されていないお客様には、相応の絶望が訪れないように分割での返済をお勧めしております。数年は絶望に苦しむでしょうが、一度に大きな絶望を味わうよりはいいという救済措置ですね。反対に一括払いは願った希望の数の絶望を一度に味わうため、中川様の身に何か起きることは避けられません。」 「な、何かって…」 「それは分かりかねます。ただ被害を被るのは中川様だけとは限りません。あなたのお母様が突然命を落とす…なんてこともありますから。」 「そうですね…中川様が借りられた希望の数を考えると、それくらいはペナルティがあるかもしれませんねぇ。」 目の前が真っ暗になった。 なんてことをしてしまったんだ。 「ほ、ほかに方法は…」 「他といわれましても…」 金尾は眉を落とす。 「あります」 すると柏木がこたえた。 「代わりにお支払いしていただける方を見つけて、その方に支払っていただければいいんです。」 金尾の眉間にわずかにしわが寄る。 「んー連帯保証人さんのことですかな。 ですが中川様は今回お一人で契約をなさっていますから…それは…」 「ああ。すみません、それは記入もれです。 …ですよね?下田様?」 ああ。そうだよ。 聞き覚えのある声に、身体が震えた。 「たくっ、美波から変な銀行に通ってるって聞いてたけど。マジであったんだな。」 「ここに辿り着けるのはのみですからねぇ…」 金尾が柏木の顔を覗き込む。 「なんで、ここに」 なんとか紡ぎ出した言葉を、下田は鼻で笑う。 「美波が、お前が着替え取りに行ってから帰ってこないって聞いて、そこら辺を探し回ってたんだよ。それで俺も付き合わされて…」 ちゃんと美波と美波の母ちゃんに謝れよ ぶっきらぼうな下田の声を聞いて、昔に戻ったような気がした。 自分に謝れとは言わないところが下田らしい。 昔から下田はそうだったよな。 小学生の頃に掃除中に教室の花瓶が割れた時も、下田は何もしていないのに、自分一人で先生に謝りに行った。 きっとあれは割った女の子が顔を真っ青にしてたからなんだと思う。 下田は無口だから誤解されやすい。 でも誰よりも優しい人なんだよな。 なんで忘れてたんだろ。 友達なのに。 「…あのさ、竹田と秋山は…」 「知ってるよ、全部」 「ごめんな、お前の父ちゃんのキーホルダー」 「なんだよ。あれ、お前じゃないんだろ。 お前だって顔真っ青にしてたじゃん。」 「俺がやったようなもんだよ。お前のカバンをいじってる竹田に、あれがお前の父ちゃんの形見だって言ったの俺なんだから。」 「バカだな、どこがだよ」 溢れてきた涙を袖で振った。 なんでもっと早くこうできなかったんだろ。 あの時にお前を殴り飛ばして、何すんだよって怒れば、きっとお前は事情を話してくれて、お前のバカみたいな気遣いを鼻で笑ってやれたのに。 いじめるフリなんかするより、そばにいてくれよ。って。 「謝って済む問題じゃないことも、俺はした。だからこれで精算させてくれ。」 「では、下田様。ここにサインを。」 待ってくれと、下田の手を引っ張ったが、下田のサインする手を止めることはできなかった。 「お前がいじめられた原因は、お前が私立に行けるくらい頭良いのに、特待生枠で受かるくらい優等生なのに、それ全部捨てて公立に来たからなんだよ。」 知ってたのか すんなりと口から出た言葉は、ずっと隠し続けていたことだった。 特待生枠で受かったことは美波にも言っていない。 合格通知書が届いた日が、下田から不安を打ち明けられた日だった。 不安そうな下田を見て、見えないように合格通知書を握りつぶした。 「俺もちょっとイラついてた。そのことを話してもくれなかったお前に。」 振り返った下田の目には涙があった。 「でもお前が公立に来たのだって、特待生枠で受かったのを隠してたのも、俺を想ってのことだったんだよな。 なんでそんなこと忘れたんだろうな、俺。」 たまらなくなって、下田の手を握りしめた。 「これからはもっと話をしよう。いっぱい喧嘩して、いっぱい言い合おう。」 自分達が友情と思っていたものは友情ではなかった。 互いを思うあまり、自分のことを忘れ、そして互いのことまで忘れてしまった自分たちはなんと愚かだったことだろう。 特に、自分に素直になれず、願ってもいない願いを言い続けた自分は本当にバカだ。 これからはもっと、自分の思いを素直に受け止められるだろうか。 自分の望むもの、欲しいもの。 自分にとっての本当の希望を、 感じていけるだろうか。 〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️ 「下田の引っ越し先の住所、届いた?」 美波の返答に頷く。 「うん。ここから電車で1時間ちょっとほどいったところだから、まだ近いね。」 「引っ越し手伝ってあげたかったなー」 「仕方ないよ。俺は転入の手続きが忙しくて、美波はそれの手伝いで忙しかったんだから。」 あの日から数ヶ月が経ち、下田は母親が家を出ていき、消息不明となった。 下田の母親は元々家庭や子供を重んじるタイプの人ではなく、下田が小さい頃から夜遊びを繰り返していた。 そのため、幼稚園から下田を知っていたタツヤや美波の母親は下田を実の子のように可愛がっていた。 母親が下田の世話をしていないことを近所の噂で知った単身赴任の多い下田の父親は激怒して、離婚となった。 父親は下田を引き取るといったが、転勤の多い父親よりも母親に親権は渡った。 母親の育児放棄の証拠が噂や状況証拠だけだったのも原因だ。 離婚後は、家に平気で男を連れ込み、やりたい放題していたらしい。 そして自由になりますという書き置きと共に男と一緒に下田を捨てていった。 そのため下田はようやく父と一緒に暮らせるようになり、引っ越しを機に、学校も転入することとなった。 タツヤは、美波から今年の特待生枠が一つ余っているので、転入してみたらどうかと提案された。 美波は学校の先生などに、タツヤのことを相談していたらしい。 試験も面接も転入となれば格段にハードルは上がるが、転入は可能ということだったので、タツヤは編入試験に挑んだ。 そして見事合格し、現在は美波の友人の兄のお古であるが、制服に身を通して、美波と通学路を歩いていた。 「そういえば、先のゲーセンがしばらく閉鎖されるって」 「え?」 「なんでも高校生と中学生たちが揉めたみたいで乱闘騒ぎがあって、あのゲームセンター半壊したらしいよ? 中学生たちは重症だってさ。」 あのゲームセンターを根城にしていた彼らを思い出す。 まさか…? 「そうだ。下田がこれ、誰かと行けって渡してきたんだけどさ」 「ああ!今度オープンされる水族館のチケット!行きたかったけど、即効で完売しちゃったやつ!」 美波が嬉しそうにチケットをタツヤから奪い取る。 「下田は相田さんからもらって、2人で行くらしいけど、チケットが余るからって」 「相田さん?」 「うん、前の学校のクラスメイト。 下田と仲が良かったみたいだけど、まさか下田の転校に合わせて、相田さんも同じ学校に転校するとは思わなかったなー。」 「まあ、好きな人が行くって聞いて私立校に行く子もいるしねー」 「?誰のこと?」 「………」 「いてっ!なんで蹴るんだよ!」 「うるさいわね!とりあえず明後日の日曜に行くからね!」 「わかったよ」 〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️ 「先輩!質問があります!」 栗毛の髪をふわふわさせながら桃子は手を挙げる。 「あの男の子…えっと下沢さんから返済されましたけど、彼の場合はこれは相応の絶望なのでしょうか…?」 「桃子さん、下田様ですよ。 お客様は神様なのですから、様付けをし、しっかりとお名前は覚えておきなさい。 …ところで私も気になっております。 下田様の母君はずっと育児放棄をなさっておりましたし、時折暴力を振るう始末。 そのような母親では、いなくなっても絶望を感じるものでしょうか?」 金尾が後ろからぬっと現れる。 「たとえどのような人間だろうと、子にとって母親は母親です。だからこそ下田様もずっと母親のそばにい続けたのでしょう。 もう中学生なのだから電車にでも乗って、父の元に逃げることはできたはずですし、殴られた傷を見せれば、親権は父親にすぐ渡ったでしょう。 彼は永久に母親という存在を失ったのです。 それを周囲が良しとみるか悪しと捉えるかは知りませんが、下田様にとっては絶望としか言い表せられないでしょう。」 「なるほど…私は両親がいないのでよくわかりませんが、それならば下北様はお辛いでしょうね。」 桃子が労るようにそう言った。 「そうでしょうか?」 それに金尾は反論する。 「人とは、どのような辛い時であったとしても、そばにいてくれる人の存在によって支えられ、立ち直っていくものでしょう。」 彼のそばにもきっとそういう方々がいらっしゃいますよ。 眼鏡の奥にある金尾の目が一瞬揺れたように感じた。 「あと、下田様ですよ」 「あれ?そうだったけ?」 桃子が首を傾げるのを見て、金尾はため息をつく。 「まあ、今回の回収についてはそれでいいとしますが、柏木さん? あなたの勤務態度はいささかいただけませんねぇ。」 金尾は声のトーンを低くした。 「私達の業務の目的を見失わないでください。今回のことは大目に見ますが、お客様に情をうつすなどは職務規定違反です。」 「気をつけます」 「も今回は目を瞑りましたが、次はありませんよ。」 「はい」 「返事だけはいいんだから、はぁ…」 奥の扉から電話の音がする 「ああ。本部からですね。 やだなー…あーあ、またお小言言われるんだろうなー…今回の記入もれの件で」 ジロリと柏木を見るが、柏木は知らんふりをする。 「あ、もう10時だ!」 桃子が声を上げると、開店の音楽鳴り響く。 それと同時に自動扉が開いた。 「おはようございます。 希望と絶望銀行へようこそ。」
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