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「おい、ようじ、お前今日は彼女放置で大丈夫かよ」
誰かが言った声に息が止まった。
ひらひらと手を振っただけで終わらせてしまったようじさんの俯いた顔は見えなかった。
「何だよ、上手くいってねーのか」
肝心のようじさんの声は拾えないのに、その人の声は痛いほど聞こえてしまう。
いるだろうなとは思っていた。
これほど素敵な人だもん。
特別な誰かがいておかしくない。
でも、もう少し希望を持っていたかった。
終電を前に解散になり、急なことで手持ちのなかった私の分までようじさんが払ってくれた。
次のバイトの時に返します、と頭を下げた私に、ようじさんは左頬のえくぼが浮かぶ顔でうんと答えた。
終電で帰るのは初めて。
そうまばらでもない駅の反対側のホームには、さっきまで一緒にいた仲間が数人大きく手を振るのにようじさんがひらひらとまた手を振って応えている。
さっきまで喋っていたのに、ようじさんは何も話してくれない。
人一人分の距離を空けた私達。
近付けない、たったそれだけの距離なのに。
先に電車が来たのは反対側。
電車に乗り込み、走り去るまでみんながこちらに手を振っていた。
「来た」
いつの間にか俯いていた。
ようじさんの声に顔を上げるとゆっくりと電車がホームに入ってきていた。
席に座っても人一人分空いたままの距離。
何も話さないようじさん。
何か、気付かないうちに何かして言ってしまったのか。
聞きたいのに、聞けなくて唇を噛んで下を向いた。
「あのさ」
走り出した電車の音に紛れてようじさんの声がした。
私達の乗った車両には隅っこに今にも眠りそうなサラリーマンが一人いるだけ。
ぎっと音がして、ようじさんが動いて空いていた距離が僅かになった。
「さあは……今彼氏いるの」
首を振った。
レールの継ぎ目を通り過ぎる電車が耳障りな高い音を立てた。
「もうさ、けっこうぎくしゃくしてて会ってないの。けど、自然消滅はダメだろと思って、時間作って、明後日会うんだけど、それがたぶん」
聞きながら顔を上げていた。
耳朶のシルバーのピアスに一瞬で通り過ぎる街灯がチカチカと映る。
「えーと、あの、間開けずにとか、嫌かもしんないけど、」
「……はい」
「予約、しといていーかな」
「よ、やく?」
ようじさんが顔を伏せる。
大きな手、長い指を交差して、その手がぎゅっと握られる。
「明後日まで、誰かの物にならないで、ほしい」
ずっとこの声を、この時の言葉や、邪魔な電車の音も覚えておこうと思った。
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